人権に関するデータベース
研修講義資料
「子どもたちに寄り添う ~いじめ、虐待、非行の現場から~」
- 著者
- 坪井 節子
- 寄稿日(掲載日)
- 2012/03/28
皆様こんにちは。御紹介いただきました東京弁護士会の弁護士をしております坪井と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
私は弁護士になって30年ぐらいになります。通常、テレビ用語では町弁と言われる小さな事務所を構えて、いろんな事件の相談を受けながらそういった手続をアドバイスするという仕事をずっとやってきているわけですが、弁護士になっていながら、なぜ私が子どもの問題というものにかかわるようになったかをお話しをしておこうと思います。
私は弁護士になるに当たっては、別に人権に関心があったわけではありませんでした。弁護士法の第1条には、人権擁護を使命とすると書いてあるのですが、弁護士が弁護士になって人権という問題にかかわれと言われても、何をしたらいいかさっぱりわからなかった。周囲を見回しますと、労働者の人権とかあるいは障害を持った方の人権とか外国人の人権、高齢者の人権、さまざまな人権問題と闘っている市民の方や弁護士の先輩たちがいたわけですが、どれを見ても私には難しそうで、とても私にはできないと思っていました。
そんな中で、子育てをしながら仕事をしていて六、七年たったのです。私の所属している東京弁護士会に子どもの人権救済センターという組織が立ち上がり、そこの相談員を募集するというチラシが私の事務所にも舞い込んできたわけです。そのチラシを見たときに、子どもの人権と書いてあったので、人権ということを何かしなきゃいけないとは思いつつ、何もできないと思っていた私は、子どもの人権と書いてあったので、子どものことぐらいであったら私にもできるんじゃないかと思ってしまったのです。かつて私は子どもだったし、今は子どもを育てている母親なのだからと、そう思いました。そして、右も左もわからないままこの人権救済センターの相談員になりますということで応募をしてしまった。そして相談員になったというのが経緯です。
当時、なぜ弁護士会が電話相談、面接相談をする「子どもの人権救済センター」という組織を立ち上げたかといいますと、1986年から7年のころ、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、東京都のある区立中学校で中学生の少年が遺書を書いて、いじめで自殺をしたという事件が起きたわけです。それから後、いじめ自殺ということが非常に社会問題化して、どんどん子どもたちが死んでいくという状況が続いていきました。
また不登校、当時は登校拒否と言っていましたが、登校拒否の子どもたちが4万人いるというような数字が出てきました。今では13万人以上と言われていますが、子どもが学校に行けない、行かないという状態が社会問題化し出したのです。それから、学校の中でも管理教育、いわゆる校則を破った、あるいは部活動の先生が厳しい指導で、当時子どもたちが暴力を受けて、鼓膜が破れる、あるいは歯が折れる、時にはおなかを蹴られて内臓破裂で死亡するとか、先生が閉めてきた校門に挟まれて、その校門に挟まれて圧死するとか、そういった事件が起きていった。管理教育の果てに子どもが死んだり傷ついたりしていく。
弁護士会としては、一体何が起きているのだろうと。本来、子どもたちが健やかに学び、遊び、大人になっていくためのその場であるはずの学校で、子どもたちが傷つき命を落としていく。何が起きているのだということになったのです。
私たち弁護士の仕事というのは、だれか困っているという人の話を聞かなければどうしたらいいかというのがわからない。まずは相談を受けなければならない。相談を受けるために子どもたちの話を直接聞くためにどうしたらいいかというので、「子どもの人権110番」という、子どもたちから直接電話相談を受けようという、こういう取り組みが始まったわけです。今でこそあちらこちらで「子どもの人権110番」という言葉は使われています。ですがこれは東京弁護士会が一番初めに日本で初めてつくりました電話相談です。
電話相談を始めましたら来るわ来るわ。そしてその相談一つ一つが余りにも深刻で、電話で応対をしてどうにもなるというような話ではなかったのです。それで、すぐに面接相談、無料の面接相談所を設けて、弁護士が子どもたちの相談を無料で受けるようになりました。今、子どものことで悩んでいる親御さんの相談も受けるというシステムが立ち上がっていったというのが、この子どもの人権救済センターの成り立ちです。
今でも毎日、午後1時半から夜の8時まで、土曜日は1時から4時まで、約120名の弁護士が交代で子どもたち、親たちからの電話相談に当たっています。
私もここの相談員になって二十四、五年ということになるわけです。大体、2カ月に一度ぐらい自分の担当日が回ってくるわけですが、この相談を受けて私は度肝を抜かれました。子どものことぐらいと思っていた相談現場に入って、電話の向こうから流れてくる子どもの声、あるいは面接相談にあらわれた子どもたちの話を聞く、「何で子どもがこんなに傷つかなければいけないんだ」、「何でこんなに苦しまなければいけないんだ」。地球規模で見たら日本という国は恵まれていると思っていました。経済的にも豊かだし、戦争もないし、今の子どもたちは幸せなはずだと思っていたわけです。その子どもたちが、私たちの想像を絶するような苦しみの中であえいでいたということです。どうしていいかわからない。子どもたちの苦しみや傷の深さという部分は想像を絶したのですが、私たちを襲ったのは、それ以上どうしたらいいかわからないというその無力感だったのです。
弁護士という仕事は何か答えなければいけない。解決策を示さなければいけない、困っている人が来たのだから相談に乗って答え出してあげなきゃいけないと思い込んでいたところがありました。子どもの相談を受けて、自分が解決したこともないほどの苦しみの中にいる子どもの話を聞いて、「はい、こうしたらいいですよ」、「はい、こうしたら元気になれますよ」なんていうことは、とても言えない現場になっていったわけです。
それで、何が当時の自分の中に生じたかというと、「逃げたい」という、「いつこの相談員をやめようか」というこの感覚。自分は役に立たない。自分は何も言ってあげられない。つまり、子どもたちの苦しみや傷を直視するのがつらくなっていく。現場から逃げ出したいと。正直なところ、私の中に起きたのはそういう思いだったのです。
その私がなぜこの二十四、五年間、子どもたちの現場から離れないでいれたのか。それは一つには仲間がいたことです。私だけじゃなかった。ケース会議をして、子どもたちの相談をどうしようかと、みんなで仲間同士相談をするわけですが、私だけじゃなかったと。みんな苦しかった。どうしてあげたらいいかわからなかった。子どもたちがいろいろな相談機関があるにもかかわらず弁護士会にまで相談に来るというのはよほどのことなのだ。私たちもここで、「はい、ここじゃどうにもなりませんからほか当たってください」、そんなこと言ったらこの子たちどこへ行けばいいのだと。ここで私たちが踏ん張るしかないよねというのが一つです。
もう一つは、ここで出会った子どもたちのおかげだったのです。この子どもたちとの出会いの中で、私はどれほど打ちのめされたか、どれほど自分の着ていた今までの大人という権威をはがされ続けてきたか。それはそれは痛い思いをしてきたと思っています。しかし、その度に私は教えられたし、成長させられたし、子どもたちに一歩ずつ近づいていくことができる、そんな成長を遂げさせてもらってきている、まだその過程にありますけれども、本当にこの子どもたちに出会ってこられて、今の私が導かれてきたという、本当に子どもたちに感謝なのです。今日はそうした子どもたちの声を皆さんにお伝えしたいと思って来たわけです。
当初は今申し上げたように学校の中の問題、しかもいじめの相談がトップでした。学校の事件の中で一番多いのはいじめの相談です。文部省などが、いじめは鎮静化したというようなデータを出してみたところで、私たちのところに来る相談は一向に減っていませんでしたし、大人の目に見えない陰湿な形の、真綿で首を絞めるような、じわじわとしたいじめが子どもたちをもっともっと追い詰めていくような感じが出ています。
そんな中で出会ったある少年の話をしてみたいと思います。私が彼と出会ったのは中学3年生でした。彼はある有名私立中高一貫校、一生懸命受験勉強をして、親に期待されて入ったそういう中学生だったのですが。1年生のころから学校の中ではすさまじいいじめが起きていたそうです。物を隠し、物を壊し、陰口、あるいは暴力まがいのことも、恐喝もあったわけです。1年生のころはそれでも担任の先生に「助けて」って言ったそうです。担任の先生はふんふんと話聞いて、君の話を聞いただけじゃわからないからね、いじめている子どもの話も聞かなきゃね、先生は中立だからねと、そう言ったわけです。「いじめに中立なんかないんだよね」って子どもは言っていました。けんかだったらどっち勝ったり負けたりということで中立てあるのかもしれません。でもいじめは全然構造が違います。たったひとりぼっちで苦しんでいる被害者と圧倒的多数優勢の加害者たち。上から下へ行われる暴力であったり侮辱であったり無視です。先生が中立だからねって言おうものなら、ひとりぼっちの子どもにとってみたら、先生は上に立っていじめる側に加担をしたとしか見えない。先生はとりあえずいじめているという子どもたちの話を聞きました。みんな頭のいい子だった。僕たちいじめてなんていないですよ。ちょっとからかっているだけじゃないですか、あいつが気にし過ぎなのですよとか、あいつがみんなに嫌われることばっかりするのですよ。何で僕たちがあいつと仲良くしなきゃいけないのですかと、話をしなきゃいけないのですかって。嫌な目をこうむっているのは僕たちですよ。
こういう話を聞いたときに、教育現場で先生方に言ってほしかった。「君たちの中で問題のない子はいるか、欠点のない子はいるか、先生だって問題だらけ、欠点だらけだ。でもね、そうしたことは気づいて越えていかなきゃいけないんだよ。でも、問題があるから欠点があるからいじめていいという理屈だけはないんだよ」とぴしっと言ってくれたら、どれだけの子どもが救われるかと思いますが、これを言ってくれる先生がなかなかいない。
先生は子どもの話を聞いて、なるほどね、あの子が悪いんだねと思っちゃって。そして、被害を訴えてきた子どもに向かって、「君が悪いんだよ。だれも君をいじめようなんて思ってないんだよ。君は気にし過ぎなんだ。もっと心を広く持ってごらん。君がみんなに嫌われることばっかりするからいけないんじゃないか。君がみんなにもっと好かれるように努力しなさい。みんなと仲良くなる努力をしなさい」と。いじめられて苦しんでいる子どもは、「君が悪いんだよ」と言われてしまったら、もうだれにも言えなくなってしまう。自分の苦しみは自分が引き起こしたことだって言われてしまったのですから。
先生はとりあえず両当事者を呼び、いじめている子どもたちに頭を下げさせました。そして握手しなさいといって握手させました。先生の前だから頭も下げたし握手をした。はい、これでいじめはなくなったねと先生が言った。「こんなことぐらいでいじめがなくなるんだったら僕たち苦労しなかったよ。それから始まる二次災害のほうがずっと怖かった。」と。「てめえよくも先生にちくったなと。二度とちくれないようにしてやるからな。」そういって始まる復讐としてのいじめのことを二次災害と彼は言うのです。二度と口が裂けても大人に言えないいじめが始まっていったのです。みんなの前で性的な部分を直撃されるような、あんまりにもみじめで、そんな自分の姿を先生にはもちろん、親に訴えて助けてなんてとても言え出せない。そういういじめが行われてきました。
彼はそうやって、先生に訴えたために苦しんでいくクラスの友だちを見て、大人なんか信用しない。大人なんかに助けを求めたらこういうひどい目に遭うんだ。自分の身は自分で守るしかないと思ったのですね。どうやって自分の身を守ったのと聞いたら、「いじめられるよりはいじめているほうが楽だったからね。いじめたかったわけじゃない、でもいじめられないためにはいじめるしかなかったんだよ。」毎日の人間関係を見て、今だれがいじめられていてだれがいじめているのか。ターゲットはいつ何どきだれにかわるかわからなかったと言っていました。二、三週間あるいは1カ月でぽんぽんとターゲットが変わっていくわけです。その人間関係を見ながら、いじめる側に回った。そして、いじめるという形でいじめられないように身を守ったと言っていました。
中学3年生になり夏休みが終わり2学期の教室に入っていった途端、クラスの空気ががらっと変わっていることに気づいたのです。夏休みの間じゅう一緒に遊んでいたグループの友だちが一言も口を聞いてくれなくなった。彼がとっても嫌がっている体の特徴を毎日毎日黒板にでかでかと書いてあったり、彼がとっても嫌がっていながら、それをみんなが体育の時間にランニングしながら、わあーっと叫んだり。クラスの中を手紙が回っていく、みんな見てくすくすって彼のほうを見て笑う。彼の目の前に来るとこれ見よがしにくしゃくしゃと丸めてぽいとごみ箱に捨てる。「おれにも見せろよ」「おまえには関係ねえよ」彼は自分がいじめのターゲットになったことがわかりました。そしていじめのターゲットになったことがわかると、みんな陥る問いに彼は陥っていきました。
どうして僕がいじめられるんだろうと。僕のどこが悪いんだろう。僕がどうすればみんながもう一度僕を受け入れてくれて仲良くしてくれるんだろう。これです。だれかが、「君が悪いんじゃないよ。いじめている子どもたちが悪いんだよ。」その子どもたちが抱えているストレスや、小さいときからいっぱい抱えてきた怒りや不満、親の前でいい子をし続け、先生の前でいい子をし続けなければならない優等生たち。その子どもたちがどろどろとしたストレスや不安や不満を抱えていないはずがないのです。どこにも発散する場所がない。クラスのスーパースターになれるような子はいいかもしれません。みんなに褒めそやされて。だけど、みんながそうなれるわけじゃない。ほとんどの子どもは、自分がどうしてここにいるのかの価値観がわからなくなり、しかし相変わらず親の前ではいい子をし続けなければならなくなっている。今の子どもたちは本当にそれが強いのです。親から見捨てられたら生きていけないというこの子どもたちがとっても増えているのです。だから、家でもストレスを発散できずに、結局スケープゴート(生贄)を見つけだして、みんなで寄ってたかってそのストレスをぶつける、これがいじめなのですね。
だから本当はいじめている子どもたちを救わなければならないのだけども、その子どもを救うためには家族の問題や、あるいはその家族が抱えている社会の問題に切り込んでいかなければならないわけであって、そんな大変なことは一人でできるわけじゃない。だからそこは放置されたまま、いじめられている子どもがひとりぼっちで、「僕のどこが悪いんだよ」って苦しみ出すのですよ。「君が悪いんじゃない」と一言言って、そのそばに立ってくれる大人がいたらと思います。
彼はどちらかというと、一人で小説を読んでいるほうが好きだったと言っていました。けれど、そんな自分がみんなに嫌われるんだって思ってしまったって。自分を変えようと思いました。読みたくない漫画の本を買ってきて一生懸命読みました。見たくないテレビのお笑い番組を見て一生懸命お笑いを仕入れました。そして学校に行って、みんなの話に合わせてけらけら笑ってみせて、時にはピエロのように振る舞って、何とかもう一度仲間に入れてもらおうとして、自分が自分であってはならない。自分をずたずたにしていって、そのうちもう、自分がどこにいるかもわからなくなっていきました。それでも何にも変わらなかった。こっけいな彼を見て、いじめはますますひどくなっていったわけです。3カ月間彼はこうやってひとりぼっちで闘って、何にも変わらない人間関係の中で力尽きました。「何をやってもだめなんだ」と。「みんなが僕のことが嫌いなんだ。僕がこの教室からいなくなればみんなは喜ぶんだ。」それが彼のたどり着いた結論だったのです。
学校に行けない。体が動かなくなった朝、目の前が真っ暗になったと言っていました。彼もただただ、学校に行って成功するという細い一本の道だけを示されてきました。その道をひたすら歩いてきた。その道がずどーんと途切れたのです。目の前真っ暗、僕にはもう将来はない。そこまでして親にだけは一言言わなきゃと思って親御さんに、「僕、もう学校へ行けないんだ」と言ったとき、親御さんは彼に何があったのか全く知りませんでした。子どもたちは親に自分の姿を見せないように必死で頑張って学校に行っているのが、突然学校に行けないと言われて親御さんびっくりしました。そして、どうしたの、どうしてなのと聞いたわけです。「僕、ちょっとやられているんだ」って、そういう一言しか言えなかったのです。自分の毎日毎日の自分の学校でのみじめな姿を親に話したらどんなに親が悲しむだろうかと思ったと。親がたけり狂って学校に怒鳴り込んじゃうかもしれないと思ったと。そんなことすればもっとひどいことになる。そう思った彼は、その一言以上のことが言えなかったそうです。
子どもの一言の裏にどれほど深い苦しみが隠されているかということを大人が想像することができない。何言ってるんだ弱虫、みんな学校へ行ってるじゃないの、頑張りなさいよ、強くなりなさいよ、あと3カ月我慢すれば高校に行けるのよ、そう言って親御さんは励ましましたけど、彼はその親の言葉を聞いた途端に、最後の命の綱がぷつんと切れたって感じました。やっぱり僕がいけないんだ。親も僕が弱いからだめだと言ってる。でも僕はもう強くなれない。学校に行けない僕、強くなれない僕、そんな僕は死ぬしかないな。そうなってしまいました。
冬休みに入って自殺マニュアルを買ってきて一生懸命に死ぬ方法を考える。ある薬を80錠飲めば死ねると知り、彼は冬休みの間にお小遣いをはたいて、薬屋さんを回って薬を買い集めました。3学期の始業式に遺書を書いて、50錠の薬を飲みました。意識もうろうとなっているところを発見されて、救急治療が施されて彼は命を取りとめました。ご両親が彼の遺書を読んで、初めて自分の息子が命をかけるほどに苦しんでいたのだということを知りました。そして、「もう学校なんか行かなくていい」って、そう言ってくれたのですね。彼はその言葉を聞いて、「もう一度生きてみようかなと思った」って言ってましたけど。
親にしてみれば、子どもが生まれてきたときは何も要らないと思ったと思います。その子が、子どもが目の前に生まれてきたことだけがうれしくって、ありがとう。でもその子どもが育っていくうちに、だんだんそれだけじゃだめになっちゃった。あれができない、これができない、周りの子はあれができるのに何であんたはできないの。なんでお姉ちゃんはできるにあんたができないの。何でこんなテストで80点もとれないの。何かができなくちゃだめになっていった。子どもが生きているというそのことだけではだめになっちゃった。学校に行けない子どもであろうものならもう親だって生きていたってしようがないんじゃないかみたいな錯覚に陥る。でも子どもがもうだめだ、もう生きられないって言ったときに、はっと、目からうろこが落ちていったのですね。この子が死んでしまったら何もなくなってしまう。何もできなくてよかった。何もできなくてこの子が生きていてくれさえすれば、そういう親御さんの話を何人聞いてきたか。だから彼は、もう学校なんか行かなくていいという親御さんの言葉を聞いて、もう一度生きてみようかと思えたのだそうです。
子どもがそんな思いでいると、子どもにとって親の一言というものがどれほど重いかということを切実に教えられます。親が何気なく言ってしまった一言が子どもを絶望の淵に追い落とすし、親の一言が子どもに生きる勇気を与える。子どもにとって親は世界のすべてなのです。
彼はその後続けてこういうふうに言いました。「死ぬのは何も怖くなかったよ。生きている自分と死ぬ自分との間に一本線があるのはわかっていた。そこをぴょんと飛び越えれば死の世界だったよ。僕が死んだら、僕をかわいがっている両親は悲しむだろうなと思ったよ。でもね、死んでしまえば両親が悲しんでいる場面は見ないで済むんだ、そう思ったんだよ。僕が80錠飲めば死ねるという薬を50錠飲んだ気持ちがわかる?
死にたかったんじゃないんだよ。でも毎日毎日地獄のように苦しかったと。あそこから逃げ出す道は死しかなかったんだよ。だから五分五分にかけたんだ。
僕が自殺を考えているときに何より腹が立った言葉があったよ。いじめ自殺を防ごうと思って教育委員会がいろんなカードを子どもたちに配ってきた。そこの中に、『死なないで子どもたち、死ぬ勇気があるのならいじめに立ち向かえ』って書いてある文句があった。ものすごく腹が立ったよ。死ぬのは勇気なんか要らないんだよ。いじめに対して何もしてくれない大人たちが、どうしてそんな無責任なこと言うんだ。」って。
私は彼の言葉を聞きながらもう返す言葉がありませんでした。彼は生きたかった。生きたかったからこそ3カ月間、自分をずたずたにしながら闘ったのです。でも、何にも解決にもならず、力尽きて、親にも見捨てられたと思ってしまって、死ぬしかないと思い詰めて、真っ暗な闇をとぼとぼひとりぼっちで歩いていたのです。どれほどに寂しかったか。どれほどに途方に暮れていたか。この子どもに寄り添えた大人は一人もいなかったのです。彼はかろうじて命をとりくめてくれたから、私は今彼の話を聞かせてもらえている。でもどれだけの子どもが、だれにも何にも聞いてもらえないまま、あちらの世界に旅立っていったことだろう。どれだけの子どもが今、この瞬間同じ地上をだれにも何にも聞いてもらえないまま、とぼとぼとひとりぼっちで歩いていることだろうか。
私たち大人は何をしてきたんだ。こんな子どもたちの一人にも寄り添えないでおいて、偉そうに上から下に子どもを見下ろして、ああでもないこうでもないって。子どもたちがこれほどまでに傷つき、絶望し、死を思い、それでも必死に闘い、死ぬ間際まで親のことを考えながら死んでいく、そういう子どもたちの姿を想像だにしてきただろうか。今をどうすることもできなくて、私も泣いておろおろしていました。そしたら彼がこう言ってくれたのです。「子どもの話をこんなに一生懸命に聞いてくれる大人がいると思わなかったよ」って。私は正直、この言葉に救われました。彼は15年間生きてきて、大人は子どもの話なんか聞かないんだって思ってきたのです。だから自分の苦しみはひとりで抱えてとぼとぼ歩いていくしかないって思っていた。
私は今、彼に対して何もしてあげられない情けない大人だけれども、でも、彼の話を一生懸命に聞いた最初の大人にだけはなれたらしい。これでいいのだったら私にもでもできるかもしれないと思えたのです。子どもが求めているのはこれなのか。解決しなきゃいけない、回答を出さないといけないと思っていたから、私は自分の無能さや無力さが情けなくて現場から逃げようとした。でも、子どもたちのその苦しみを私が解決なんかできるはずなかったのです。私なんかよりもずっと苦しんでいるのだから、ずっと傷ついているのだから。私たちにできるのは、その子どもの言葉をしっかりと聞いて、その現場から逃げずに、一緒におろおろし続ける。そして、「そんなあなたに生きていてほしいんだ」、そのメッセージを伝えること。「ひとりぼっちにだけはしないよ。一緒に考えていけるよ。生きていてほしいんだよ。」このことを伝えること。それぐらいだったら私にもできるのではないかと思えたのです。
こういうスタンスになったとき、子どもたちの中に変化が見えるというのがわかりました。今まで闇の中に、死のうという闇の中にガーっと落ちていった子どもは、ふっとどこが底支えを受けるという感じなのですけど。どこかふって。こんな僕が生きていていいのかとしたら死なないでいいのかもしれない。ひとりぼっちじゃないのかもしれない。そばにいてくれる人がいるのかもしれないという感覚です。それが、子どもたちも闇の中で使おうとした命をふっと反転させ、少しずつ少しずつ、もちろん、簡単にいかないですよ。死のうと思った子どもが簡単に元気になるはずはないのですけど、精神科のお医者さんやカウンセラーや本当にいろんな方たち、もちろんご両親のしっかりした愛情が必要でしたけど、そうしたものに支えられて、彼は少しずつ、生きるという方向へ光の方向へ立ち上がっていったのです。
いっときほどして彼は言いました。僕はあの学校を辞める。あの学校へは戻らない。でもね、あの学校の先生に伝えてきてほしいんだ。いじめというものがどれほどに苦しいことか。そして先生の中途半端な介入がどれほど子どもたちを苦しめているか。先生たちに本当にしてほしかったのは何なのか。そのことを先生に伝えに行って、そしてあの学校の先生に変わってほしいと。僕はあの学校を辞めるけど、あの学校の先生が変わってくれたら、あの学校から僕のように苦しむ子どもが一人でも減るでしょうって。
子どもが自分の生きる道を自分で選びとった、選択をしてくれると、やっと私たちの弁護士バッジは役に立つのです。子どもの話を大人にわかる話に整理して翻訳をして、伝えていってほしいという人に伝えに行ことができます。先生たちは、死をかけて苦しんだ子どもの言葉を、重く受けとめますと約束をしてくれました。そのことをまた子どもに伝えに行きました。自分の言葉を重く受けとめてもらうということは、子どもたちにとって本当にうれしいことです。子どもたちは未熟な言葉やたどたどしい言葉です。その言葉に命を乗せてそおっと差し出していく。その言葉をしっかりと受けとめてあげるということは、その子どもの存在をその命をしっかり受けとめたよということです。春が来て、彼は日本全国を鈍行列車で旅してくるよといって旅立っていきました。ご両親は彼を見送って、2年、3年の回り道が何ですか。あの子がまた学びたいというときが来たら学校へ戻ればいいのですと。あの子が自分の道を自分で生きていてくれさえすれば、そういって見送っておられました。
私はこういう子どもたちの旅立ちの場面に何度出会わせてもらえたかわかりません。自分の道を自分で見つけて立ち上がって歩いていく子どもたちの姿は何と誇り高いことか。そして、その子どもたちが全身で語りかけてくれています。「おばさん、それでいいんだよ。大人になんか何もできなくていいんだよ。僕の道は僕が歩いていく。でもね、ひとりぼっちにだけはしないで。そばにいて。話を聞いて。一緒に悩んで。それさえしてくれれば、自分の道は自分で見つけて歩いていくよ。」って。これがどれほど大きな励みでした。無力感でうちひしがられていた私にとって、子どもたちが許してくれる。そんな私が子どもたちにそばにいることを許してくれる。本当に大きな希望でした。こうした子どもたちに支えられた私は現場を去らずに、この相談員を続けてくることができたのです。
当初、この救済センターの相談の8割から9割が学校問題だったのですが、このパーセンテージがだんだん変わってきました。この10年ぐらい前から虐待、親子の問題、家族の問題で苦しむ子どもたちの相談がふえてきました。今では半分ぐらいが学校問題、半分が虐待に苦しむ子どもたちの相談です。
皆様は恐らく研修等でお聞きになっていらっしゃると思いますが、日本の児童相談所が虐待の通報ケースをカウントし始めたのは1991年。その当時は約1,000件でした。昨年、ついこの間、厚労省が速報値を出しました。昨年の。ご存じの方いらっしゃいますか。5万5,000件です。子どもの数が減っているこの日本で、この虐待件数の余りの増加は啞然とします。年間130から、年によっては150名の子どもが親に殺されていきます。半分は親子心中、あとの半分は虐待死です。虐待死をする子どもたちの4分の3は3歳未満の幼い子どもたちです。一番多いのは0歳の子どもたちです。何でこんな事が起きるのか。
私たちは児童相談所の外でこういう事件を知っていた、知り出したころ、児童相談所は何をやっているんだと思っていました。何で子どもたちの命が救い出せないんだと。でも、外からがんがんこうやって児童相談所を責めてみたところで子どもたちは救われるわけじゃないので、弁護士も一緒に児童福祉の現場に入って、子どもたちの人権救済のために働いていこうじゃないかと。
94年のころから児童相談所に働きかけて、弁護士が児童福祉の現場に入っていきました。例えば東京には11児童相談所があります。11カ所の児童相談所がありますが、現在ではすべての児童相談所に非常勤弁護士が配置され、月に2回、弁護士が一緒に児童福祉士さんたちと会議を持ち、緊急通報を受け、虐待を法的支援をするという仕組みができ上がってきました。
そういう中で、虐待現場で直接に虐待の通報を受け、虐待というもののありのままの姿を知るようになり、その虐待の余りにも複雑な様子に、いじめの問題以上に無力感を覚えています。
しかしそれでも、地域の子ども家庭支援センターや児童相談所あるいは民生委員さん、児童委員さん、近隣のお医者さん、保健師さん、いろんな人たちが今、子どもたちを救おうとしてこの10年近くの間、次第に地域の力は強まってきています。
だから、児童相談所に通報された子どもはまだましなのです。そうした、いつか救い出してもらえるかもしれないという見守りの中に置かれる可能性があるから。もちろん、児相に通報もされないまま死んでいってしまう子どもが全くないわけじゃないのですけど。でも、家族支援という形であるいは親子の分離という形で介入する機会が与えられました。通報されている子どもは。でも、5万5,000件と言われているけれども、恐らく児相にあるいは子ども家庭支援センターに通報されない虐待件数はこの3倍、5倍、10倍かもしれないのです。どれだけの子どもが虐待の中を生き抜いているか。
その子どもたちに出会うのは少年非行の現場でした。罪を犯して警察に保護されてあるいは逮捕されて、家庭裁判所で少年法のもとで裁かれていく子どもたち。非行少年ですね。
私たち子どもの問題を取り上げる弁護士は、この子どもたちの付添人のような仕事をしています。大人で言うと弁護人と言うのです。大人の場合は国選弁護制度というのがありまして、罪を犯した人でお金を持っていなくても、弁護士を知らなくても、国が費用を出して弁護士をつけてくれます。その人が言い分を言い尽くして裁判を受ける、それが人権、被疑者、国民の人権ということだからです。
でも子どもの場合は、この少年法で言う付添人に国が費用を出してくれないのです。少年法が改正される過程で本当に小さな国選付添人制度ができました。今、逮捕されて少年鑑別所に入る子どもが約1万人、国選付添人がついている子どもは3%に過ぎません。
私たちは弁護士会では、子どもにこそ弁護士が必要なのだと。物言えぬ子どもたちにこそ代弁者が必要なのだ。大人ですら冤罪ということや、あるいは言い分を言い尽くせないまま警察や裁判所で裁かれていく人たちが多い中で、子どもはもっと物が言えないのです。だから子どもにこそ付添人が必要だと訴えています。
二十数年前から弁護士が自分たちで会費を出して、今は強制徴収されているのですが、そうやって年間8億円のお金を子どもたちの付添人のために弁護士会が払って、弁護士を派遣していました。たこ足操業をやっていました。20年かかって、やっとそれでも6割の子どもたちに、弁護士がつくようになりました。日弁連の悲願、今、日弁連が出しているこのお金を国が出してほしい。国は子どもたちに弁護士をつける、大人と同じ権利をすべての子どもたちにも与えてほしいのです。
きのうはちょうど国会要請があって、私たちも国会議員要請をしてきたところなのですけれども、何とか来年度にはこの制度を政策課題にしていただけないだろうかと思っています。どうかご理解いただきたいと思ってるのですが。
こうした制度を使って日弁連のつくっている基金を使って、少年裁判所から頼まれたり子どもから頼まれて付添人になるわけです。親がお金を出してくれないからということなのですけど。
ですから私たちがつく事件はどうしても重大な事件になっているわけです。そうした子どもたちと1対1で家庭裁判所に審判がある期間、少年鑑別所にいる間の子どもたちに面会に行き子どもの話を聞き、どうしてこんなことになっちゃったんだろうということを一緒に人生たどり直していって、そして子どもの希望を裁判所に伝え続ける、それが付添人の私たちの仕事になっています。
こうやって子どもと1対1の会話のときに、その犯罪はとっても大変なことなのだけど、どうしていいかわからないほど大変なことなのだけれど、子どもだけが悪いと思ったことがないのです。生まれながらに犯罪者になろうと思って生まれてきた子なんかいないですよ。この子がもし、小さなときから一人の人間として大切にされてきたらこんなことにはならなかった。虐待の陰が見えないことはないのです。
そんなことをよく教えてくれた一つの事件をお話ししておきます。16歳の少女でした。覚醒剤取締法違反ということで逮捕され、私は家庭裁判所に頼まれてこの子の付添人になりました。彼女に面会に行ったとき、いつから覚醒剤やったのって聞いたら、中学2年のときからと言われてびっくりしました。「その前はシンナー吸ってたよ。」いつからシンナー吸ったのと、「小学校5年生のときから。」これもびっくりしました。何でシンナーなんか吸ったのって聞いたら、「見たくないことがたくさんあったから」と言ったのです。見たくないことて何だったの、こんな問いに子どもは簡単に答えてくれません。言葉にできませんと。自分がどんな人生を送ってきたか、大人だって言葉にするのは大変です。だから何度も何度も鑑別所に通って、ぽっつりぽっつり出てくる言葉をつむぎ合わせて、こうだったのかな、ああだったのかなと言いながら人生をたどり直していく。
彼女の話をまとめるとこういうことでした。お父さんとお母さんがいて、3人の娘が年子でいました。彼女は一番上のお姉ちゃんでした。お父さんは暴力を振るう人でした。お父さんとお母さんは仲が悪くて夫婦げんかをしょっちゅうしてたけど、夫婦げんかが始まるとお母さんは殴られて、けられて、髪の毛を持って引きずり回されて、お母さんは耐え切れずに、夜中でも裸足で玄関から飛び出していなくなっちゃう。そのままお母さん帰ってこない。子どもたちは震えて布団の中で体を硬くして待っていると、お父さんが酔っぱらって八つ当たりで、私たちの枕けっと飛ばして、起きろーと言って怒鳴りかかってくるの、それに殴られるの。お父さんがちっちゃな妹を殴ろうとしたから、私妹の前に立ちはだかって、お父さん、私を殴ってからにしてって言って妹かばったんだよ。お父さんが殴りかかってきたから私怖かったから、そばにあった金属バットを持ってこうやって身を守ったんだよ。そしたらお父さんは自分の飲んでたビール瓶がしゃんと割って、そのビール瓶を振り上げて私に向かってきたんだよ。毎日毎日見たくなかった。でもどうすることもできなかった。幼稚園も行っていました。小学校も行っていました。でもだれも気づいてくれなかったし、よしんば気づいたとしても、だれも助けの手を差し伸べてはくれなかった。
虐待をされている子どもたちの頭の中に逃げるとか、他人に助けを求めるという概念がないです。子どもたちには親しかいないのです。親から突き放されたら生きていけないと思ってたのです。だからどんなにされても、それが親の愛情だと信じて、自分が悪い子だから殴られるのだと思って、「ごめんなさい、ごめんなさい」って言いながら、しがみついているしかないのです。子どもたちは親が大好きです。小学校の5年生になるまでそうやって体を硬くしながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って生きてくるしかなかったのです。
5年生ぐらいになってようやく、自分の足で玄関から飛び出していくことができるようになり、お父さんに殴られて、夜の町に飛び出していった。寂しかった。どこへ行けばいいかわからなかった。だれでもいいからそばにいてほしかった。でも、行く当てもなく、だれもそばにいてくれず、地域には家の中に見たくないこと、聞きたくないことを抱えた子どもたちがたくさんたむろしていますよね。公園の中やコンビニの前に。その輪の中に入っていくしかなかった。そしたら先輩が勧めてくれたんだよ。これを吸えば忘れられるよって。それがシンナーだったのです。何もかも忘れたかったの。だからシンナーを吸った。
だれがこの子を責められるかと思いました。10歳の年齢で、背負い切れないほどのおもりを背負わされて、だれにも相談できなくて、助けてもらうこともできなかった。忘れるためにシンナーを吸うしかなかったって。でも、世の中ではこういう子は悪い子とされます。警察に補導されて家に連れ戻されて、お父さんにはまた殴られた。お母さんには、あんたみたいな悪い子死んじまいなって。あんたみたい子、生まれてこなきゃよかったんだ。そういってののしられた。私は生まれてこないほうがよかった子どもなんだ。親たちは自分が生まれてきたことを喜んでないんだ。私は生きてたって死んでたってどっちでもいい子どもなんだと思ったと。そうしたらもう怖いもんなんかなくなっちゃった。
彼女はたくさんの自傷行為をしていました。赤ちゃんは生まれてきて周りの大人たちに抱っこされて、眼差しをかけられて、大事だよっていっぱい言葉をかけられて、自分の命が大事だということに気づいていくんだと思います。あるいは、けがをしたり病気をしたりすると、親が夜も寝ないでおろおろしながら看病してくれる、そんな様子を見て、自分が傷つくと悲しむ人がいるのだということを知っていくのだと思います。そういう子どもが幼稚園へ行き小学校に行って他人と出会う。自分の命が大事だということを感じられている子どもは、人の命も大事ですよと言われて、わかっていくと思います。あるいは、自分の心や体が傷ついたら悲しむ人がいるということを知っている子どもは、自分がだれかを傷つけたら、その人には悲しむ人がいるのだということが想像できるようになっていくと思います。
でも、虐待の中で生まれ育った子は、この最初の部分がないのです。生まれてから一度も大事にされたことがない。どうして自分の命が大事だと思いますか。どうして自分の体や心を大事にしなきゃいけないと思いますか。たくさんの自傷行為をしていました。リストカットをし、自分で自分の手をたばこの火で焼いていくという。でも、それ自分に向かっている刃なのです。いつ何どき人に向かってもおかしいないのです。自分は死んでもいいのです。人が何で死んじゃいけないのですか。自分が傷ついているときだれも助けてくれないのです。なのに、何で大人は自分が人を傷つけたときだけ叱るのですかと。そんな不公平なこと納得できない。
中学に上がるころには、悪いと言われることは何でもしてやろうと思ったと言っていました。学校に行って授業妨害して、エスケープして、たばこ吸って、暴走族に入った。リンチやったりやられたりして、何度も何度も家出を繰り返して、結局、行く所がなくやくざに拾われて、覚醒剤を打たれて売春をさせられて、16歳でぼろぼろでした。どうしてこんなになるまでこの子は放り出され続けなければいけなかったのか。
でもこの子に一体今私が何ができるでしょうか。シンナーや覚醒剤は法律で禁じられて処罰されますからやめましょう。こんなことが通じるくらいだったら苦労しないのです。どうなったっていいと思っています、非行する子は。処罰されるから犯罪するのはやめようなんて計算できる子は、そもそも非行になんか走っていきません。厳罰から子どもの非行を予防できるなんて考えている大人たちは、どうして子どもが非行に走るかを知らなさ過ぎます。売春は自分の体を傷つけることですからやめしょうなんて言おうものなら、あんたに関係ないでしょうと言われて終わりですよね。何を言ったらいいのかもうわからない、追い詰められています。その現場で私、やっと彼女に言ったのは、「あなたは生まれてきたことをだれも喜んでないって思っているんでしょう。でもね、あなたの目の前に座っている私は、あなたに生きていてほしいと願っているから、それだけは信じて。」そうしか言う言葉はありませんでした。面と向かって子どもにこんなことを言ったのは初めてでした。自分の子どもにも言えない言葉だったのです、恥ずかしくって。
彼女との間に細い糸がつながったような気もしました。彼女は、この人は何言ってるんだろうという顔をしていましたけど。「少年院に行きたくない、行きたくない」って言って、「頑張るからもう一回家庭裁判所に伝えて」って言って、一緒に頑張りました。親を探しました。母親は行方不明、やっと見つけ出した父親は、一度も結局面会に来てくれず、あいつなんかとてもじゃないが引き取れないと断られました。
少年院に行くしかないという結論が見えてきました。少年院に行くという子どもたちは、罪を犯した子どもたちの中で1%程度に過ぎないのです。子どもたちにとって少年院措置というのは、決して処罰ではないけど非常に厳しい処分です。行きたくないと言い続けてきた彼女に、少年院送致という結論をきちっと受けとめさせましょうということで、裁判官に相談をし、3日前に家庭裁判所の調査官という方がその結論を伝え、私がその後に行ってフォローするということになったわけです。
私は彼女と少し心が通じているような気もしたから、私が励ましてあげれば何とかなるぐらいに思っていたのです。面会に行きました。いつもなら喜んで面会室に入ってきてくれる彼女が、怖い顔して、雑談にも応じないまま、「先生、私少年院に行くんだって」て言いました。そうだね、裁判官がそういう結論を出す可能性が高くなったのよ。「もういいよ。帰ってよ。私は極道になってやるからね。少年院に行ったやつはみんな極道になるんだよ。いいから帰ってよ。」そう言って怒鳴りました。もうびっくりして、お願いだらそんなこと言わないで。だれもあなたに極道になってほしいから少年院に行ってと言っているんじゃない。少年院は刑務所と違うんだよ。あなたを処罰しようと言ってるんじゃない。もう一度、三度のご飯を食べて、薬を打たず、体を売らず、どうやったら生きていけるか、それを学んでくるところなの。お願いだからやけにならないで。もういろんなこと言いましたよ、言えるだけのこと言ったけど、一言も口をきいてくれなくなりました。子どもに心を閉ざされてしまったら、私の仕事はもうそれ以上前に進めないのです。本当みじめでした。情けなくて。とぼとぼと帰りました。翌日もおんなじことが繰り返されて、私はだんまりの彼女の前でぽろぽろぽろぽろ泣いているしかなかった。裁判官にも電話をして、彼女の明後日の審判、荒れ狂って法廷に審判廷に出ると思います。でも彼女はどんなに悲しいか、それだけはわかってくださいと裁判官に電話をして、それは約束したのです。
審判の前日、どうしていいかわからないままもう一度だけと思って行きました。そしたら彼女はにやにやしながら面会室に入ってきたのです。「先生、夢にね、先輩が夢に出てきたんだ。少年院に行っておいで。いい子になって帰っておいでって先輩が言ったの。だから私、少年院に行ってくるからね、いい子になって帰ってくるからね」って言ったのですよ。びっくりして、人間の力を超えた何かが働いたとしか思えないそういう瞬間でした。神様ありがとうございました。もう本当に心の中でそう思った、祈ったところです。
これが何であったかとそのときの私にはわからなかったのですが、それから後、虐待を受けて非行に走った子どもたちの付添人になるということを何人も繰り返していく、経験をさせてもらう中で、私は試されていたのだということがわかってきました。虐待をされてきた子どもたちは、人を信じられないのです。一番信じたかった親に裏切られたのです。助けてくれなかった幼稚園の先生や小学校の先生に見捨てられてきたのです。優しそうに見える地域の大人たちも、手に負えないとなると結局は逃げていく。もう大人なんか信じない。この人だったら助けてくれるかもしれないと思った大人に捨てられるというその悲しさ、苦しさを味わってしまった子どもは、もう初めから信じないほうがましだってなってしまう。だから少し優しそうな顔して私が寄ってきたからって、信じてくれるわけがなかったのです。あなたたち大人が私たち子どものことに関心を持つのは、子どもがいい子をしているときだけでしょうって。私はそんなにいい子じゃないのに、私の本性見たらあんただって逃げていくんでしょう。逃げるなら逃げればいいじゃないのよ。私はこんなに悪い子よ。そうやって彼女は無意識のうちに自分をさらけ出して試していた、それをやってみずにはいられなかったのだと思います。
私は試されているなんていうことを感じる余裕もありませんでした。でも、ただ通った。その通っている私を見て彼女は、少なくともこの人は逃げないらしいということだけは認めてくれて、第一次試験にパスさせてくれたのだと思います。そして、もう一度自分の人生に自信を持って、少年院に行こうって決意してくれたのだろうと思いました。
少年院に行き1年後、戻ってきました。中学しか出ていない、家族に受け入れてもらえない女の子が、この日本で生きていくことがどんなに大変か思い知らされました。住む家がない。やっと見つけたパチンコ屋の住み込み。3カ月間周りの大人たちにいじめ抜かれて首。寮を追い出されて、結局行くところがなくって、風俗に年をごまかして入っていくしかありませんでした。暴力を振るう男につかまってしまい、赤ちゃんを生んじゃって、命からがら逃げ出してきました。キャバレーで働いて、給料を払ってもらえないで首になって、本当に大変な人生を生きてきました。私にはどうしてあげることもできないし、ずっとそばにいてあげることもできないのです。
ただ彼女は、本当にもうだめっというときになると電話をしてきてくれたのです。おばさん、助けてって。彼女がどこかで覚えていてくれた。「私はあなたに生きていてほしいって願っているからね」って言った言葉をどこかで覚えててくれて、本当にもうだめというときになって思い出してくれたんだと思います。お金がないからお金は貸せないけど、でも弁護士としてできることだけはするよって、そういう約束をしていました。暴力を振るう男と関係を切らせるとか、払ってもらうように給料を回収にキャバレーに行ってくるとか。
彼女はもう38歳。20年たちました。この間に再婚をして4人の子どもを産んでお母さんになっています。子どもたちを一生懸命に育てています。自分が受けたあの苦しみを、この子どもたちには返さないよっと言って一生懸命育てています。
30を超えたころに私にこんな話をしてくれました。うちの公園にね、近所の中学生の男の子が夜になったらやってきて、うろうろしてシンナー吸ってるんだよ。あの子のお父さんね、お母さんがね男と逃げちゃったから、毎日お酒飲んで、暴れてあの子のことぶん殴るんだよ。だからあの子うちにいられなくてね公園でシンナー吸ってるの。私ね、あの子のそばに行ってシンナーの袋取り上げて、シンナーなんか吸うんじゃないよって言ったの。それでね、おなかすいてるんだろ、うち来てご飯食べな。そういって毎晩うちに連れてきてご飯食べさせてるんだよって。私びっくりして、あなたよくそんな怖いことできるねって、私とってもできないって言ったら、笑って、シンナー吸ってる子どもの気持ちは、シンナー吸ってた私じゃないとわからないよねって。10歳でシンナー吸ってたあのころ、彼女は大人に何をしてほしかったのか、それがよーくわかるから、今、同じように苦しんでいる子どもにしてあげてるんだって思いました。
でもね、私は子どものころにおばさんや少年院の先生たちに出会って、人間ってどんなもんかって教えてもらったんだよ。だからだんだん人間らしくなったんだよ。今は自分と同じように苦しんでる子どもに、自分ができることはしてあげたいと思うんだよって、そう言ってくれました。
私にとってはこの人は希望の星なのです。虐待の中を生き抜き、少年犯罪の中を生き抜き、本当に大変な人生を生きたあの人が、今や私にもできないことをしながら、この世の役に立ちたいと思って生きていてくれている。子どもってすごい。どんな子どもも生きていける。どんな子どもも見捨てる必要なんかないんだ。私たち大人にはどうすることもできなくて、ただ、生きててほしいって、そう願い続けることぐらいだったらできるじゃないかと。そういう小さな小さな祈りが届き続けている限り、子どもはそれを支えに生きていてくれるんだ。この世に一人でもいい、本気で自分のことに生きていてほしいと願ってくれている人がいると信じられるかどうか。それは生死の境目になるのだと。
大抵の子どもには親がいて、どんなになっても最後は親がそれを祈ってくれている。それを信じられるから子どもたちは成長していけるのですよね。でも虐待がこんなにふえていっている世の中。親がそれを祈ってくれない子どもたちがどんどんふえていく。だったら、その子どもに出会った大人が、せめて、自分には何もできなくても、あなたに生きていてほしいと願っているよって。私ができることだけはするよって。それだけは約束してあげたらと思います。無力な無能な私が子どもとともに生きることを許されている、本当は私にとっては大きなアドバイスであり、エネルギーの源なのです。
こうした子どもたちと出会う中で私は、人権とは何かということをもう一度根底から考え直さざるを得ませんでした。定義としてはわかっていたような人権という言葉が、目の前の子どもたちを前にして、何が何だかわからなくなっていきました。何が傷ついていて、何をしたら子どもたちが元気になれるのかさっぱりわからなくなった。でも、試行錯誤の繰り返し、失敗の連続の中で、子どもたちが元気になっていくというその瞬間から、私は人権とは何かということを教え直されたというふうに思っています。
今は3つの柱があるというふうに感じています。
1つ目が、生まれてきてよかったねって。ありのままのあなたでいいんだよといっぱい言うのです。自分が生まれてきてよかったんだっていうことを信じられないと子どもは生きていけないのです。心がぼろぼろになって、だめだ、傷だらけだ、置いてけぼりになった。そんな私も生きていていいんだよねって、このことが確信できないと子どもは生きていけないのです。命の底支えです。でも、それは子どものことだけなんじゃないのです。翻って私ども、私だって生まれてきてよかったと思われているか、こんなだめな私が生きていていいと思われているか、大人だって同じじゃないか。
ヒューマンライツという言葉を翻訳して人権と言います。ライツという言葉を権利と訳しちゃうと、何となく日本語の語感で、こぶしを振り上げて、権利権利と言っているような要求すると、わがままを言うみたいなことに誤解されがち。ライツという言葉はそういう意味じゃないのですね。英語の場合。ユー・アー・ライツというときに使うのですね。あなたは正しいですよ。オール・ライツ。ありのままでいいですよ。これがライツですよね。ヒューマンライツ。どんな人も一人一人そのままでいいんだよって。生まれてきてよかったねって。これなのです。
2つ目が、ひとりぼっちじゃないんだよっていうことなのです。ひとりぼっちにされたら子どもは生きていけないのです。ひとりぼっちの子どもがどんどん増えています。周りに友だちがいるように見える、家族がいるように見えるだけです。自分がここにいることがだれにも関心を払われていない。自分の苦しみなんかだれにもどうでもいいことなんだ。自分が生きようが死のうが、みんなに関係ないことなんだ。私はひとりぼっちだと。そう思ってしまったら生きる勇気なんかわかないですよね。ひとりぼっちの人権なんかない。ひとりぼっちじゃないんだよ。それが人権保障なのです。これも大人たちも同じだと思いました。この日本、毎年3万人以上の人が自死をしていく。この10年間ずっとその数値が変わらない。どれほどひとりぼっちの人たちが多くなってしまったことか。人をひとりぼっちにしちゃいけない。ひとりぼっちじゃないんだぞ、そばにいるよ。それが人権保障と思います。
そして3つ目が、だけどもあなたの人生はあなたが歩くんだよって。あなたが歩いていいんだよっていうことなのです。どんな小さな子どもも自分の人生を歩けるのはその子しかいないのです。親ですらその子の人生をかわって生きてあげられないのです。危なっかしくても、傷だらけになっても、その子が自分の人生を生きていくしかない。でも生きていいのです。だから自分の人生を取り戻して歩き出した子どもは、あれほどに誇り高く見えるのです。これだって思いましたね。
そして、私たち大人も同じなんだって。本当に私は自分が生きるべき道を生きているだろうか。こっちのほうがお金がもうかるからとか、こっちのほうが権力や名誉にすり寄れるかなとか、いろんなことにごまかされていた私たちは、よろよろよろよろと奴隷になったりはしないか。本当に自分を生きることをしているか。自分の生きる道は、社会から見たら光が当たっていなかろうが、みすぼらしく見えようが、そんなことどうでもいいことなんだ。本当に自分が生きるという道を自分が誇りを持って生きる。それが人権ということなんだ。プライドということなんだ。子どもから教えられ、そしてこの3つの柱は、人権ということが言われているあらゆる場面で、どこにでも立てていかなければいけないのだということを教えられていきました。
子どもの権利ということをきちっと法律文書で法的に言っているのが国連子どもの権利条約です。子どもたちの生きる権利、成長発達する権利、遊ぶ権利、学ぶ権利、休む権利、親に育ててもらう権利、当り前のことがいっぱい書いてあります。
そしてそれを奪われた子どもたちに対して、国はそして地方公共団体は、子どもにかかわるあらゆる大人たちは何をしなければいけないか細かく書いてある、それが権利条約なのです。親に育ててもらえない子、虐待をされた子、学校に行けなくなった子、病気の子、障害を持った子、少数民族や難民の子、犯罪に陥った子、薬物中毒やあるいは性的搾取、労働搾取にさらされた子、誘拐されたり売買される子、さまざまな子どもたち。人権を侵害されて苦しんでいる子どもたちに私たち大人が何をしなければいけないか。それがこの権利条約に一つ一つ書いてあります。
日本で1994年に採択されて20年、批准されて17年なのです。それでもなかなか日本ではこの動きということがわかってもらえないでいるのですけど。
でも私にとって、この権利条約以上にショックを与えた20年です。それは権利条約が国連で採択をされた翌年、国連の犯罪防止会議というところが出した少年非行の防止に関する国連ガイドラインという文章を読んだのです。少年非行はなぜ起きるのか。それは、幼いときからの子どもの人権が侵害された蓄積の結果だと、そう言っています。だから、子どもの非行を防止しようとするのなら、子どもの育ててきた、私に言わせるとゼロ歳から一人の人間として子どもの人権を守っていく。それは犯罪に子どもを陥らせない、少年非行の予防の道だと言っています。そんなときは家庭でどうするべきか。学校はどうするべきか。地域ではどうするべきか。マスコミはどうあるべきか。それを書いたガイドラインなのです。
インターネットで完全に見られますから、ぜひごらんいただきたいと思うのですが、この中のキーワードとして、子どもの人権保障ということはどうしたらいいかのキーワードとして出ていたのが、「子どもと大人は対等かつ全面的なパートナーである」ということです。
私はこの言葉を見たとき、頭をこん棒で殴られたようなショックでした。どうしてそれがショックだったかというと、私の頭の中は二層構造になっていたからです。大人が上で子どもが下。大人が一人前で子どもは半人前。大人が子どもを教育して養育してしつけて一人前にする。それが大人の責務だと思っていたから。この文章は、この二重構造、二層構造、これが子どもの人権侵害の温床だと書いてあったのです。私たちの意識を子どもの意識を、子どもと大人は対等かつ全面的なパートナーである、ここに変えていかない限り子どもの人権侵害はなくならないし、そしてそうならない限り子どもの非行は予防できないと書いてあるわけですよ。
そんなことって、それ無理って、正直思いました。できっこないって思ったのですね。だから私が弁護士として出会ってきた子どもたちの悩みを考えると、私は子どもの上に立てたことなんかなかったな。子どもの話に打ちのめされて、どうしていいかわからなくておろおろして、そばにいるのがやっとだった。前から引っ張ることも後ろから後押しすることもできなかった。でもそんな私のそばで、子どもが自分で立ち上がり、自分の道を見つけて、逆に私たちを引っ張っていって、希望を与えてくれて、エネルギーを与えてくれた。ああ、本当だ、子どもこそ私のパートナーだった。それに気づかされていきました。
でも難しかったのが我が家に戻ってからなのですよ。私はそのころ5歳と2歳の2人の娘の母親だったので、人に向かって子どもの権利だと言いながら、自分の子どもの権利保障ができないとしようがないと思ったわけですが、さあ、この子たちと対等なパートナー、どうすればいいかと思っていました。
それまでの私というのは、やっぱり自分の子どもに勝手に幸せイメージをつくって、あなたにはこうです、こうあるべきよみたいな、こうすれば幸せになれるわよって、こうなってほしいわよみたいな、それはいっぱい押しつけていた母親の一人だったわけです。これを自分で打ち砕いていかなきゃいけない、この子の人生はこの子が歩く、私はこの子のパートナーだと。ともにそばにいていろいろアドバイスをし助言をし、でも最後に、道を選んでいくのはこの子自身なんだという、その感覚を自分の中につくり上げていくことはなかなか大変、特に母親は大変なのですね。自分が産んだ子って、自分と違う価値観を持っているってなかなか思えないという場合があるのです。
でもその小さな子どもたちに、とにかく、今日からお母さんはあなたたちのパートナーだからねと、言うだけ言っときました。マニュアルはどこにもないのでどうしたらいいのかわかんないのですけどね。例えば2歳の娘はニンジンが嫌いだったのです。ニンジン出てくるたびに食べないっというわけですよ。私何とかこの子にニンジン食べさせなきゃいけないと思っていた母親でしたから、ニンジン食べないんだったらおやつあげないわよっとかってやっていたのです。で、はたと気づいて、これは脅迫だとわかったのです。脅迫しているような母親がパートナーとは言えないだろうと思って、この子が自分の人生にニンジンが必要だということがわかり、自分で選択してニンジンが食べられなきゃいけないのだと。極端に言うとそう思ったわけです。
子どもがニンジン食べないと言ったら、いつものように叱られずに、「お母さんね、あなたのお目目がとっても大事なの。あなたのお目目が夜見えなくなるというお病気にはなってほしくなってないの。わかる。ニンジンの中にはね、ビタミンAという栄養が入っていてね、これが体の中に入らなくなると、夜お目目が見えないというお病気になるかもしれないんだって。だからお母さんはあなたのお目目が大事だからニンジン食べてほしいの。食べるか食べないかはあなたが決めるのよ。」これで子どもがニンジン食べたらすばらしい育児書が書けますよね。でも決めていいと言われので食べないと決めたようです。まあ一日ぐらいはいいやと思って、翌日また同じことをやったのです。今日こそと思って。決めるのはあなたよって言ったら、また食べないと言ったのですよ。もうってここまで出かかりましたね。お母さんが下手に出ていると思って甘く見るんじゃないのよって言いそうな自分はちょっと抑えたのです。しばらくたって、カレーライスが一番ですね。ニンジンがいつも入っているから。また言おうかなと思ったら、私の顔見てちゅっとつまんで、「きょうニンジン1枚食べる」と言ったのですよ。お、やったと思いましたね。
私は彼女じゃないので、どうして彼女がニンジン食べるかは私にはわからないのです究極的には。本当にビタミンAが必要だと思ったかもしれないし、あるいはお母さんが毎日毎日忙しそうだからと同情してくれたのかもしれないけど、いずれにしても、おやつあげないからねって、脅迫してニンジン食べさせるということだけはしないで済んだのです。よし、これが一つみたいな感じなのですね。日常生活の中ってこんなこといっくらでもあるのです。
間違えちゃいけないのは、パートナーシップというのは子どもを甘やかすことではないのです。それから、子どもの年齢に応じて自分の世界が広がっていくので、3歳の子どもに突然、衆議院議員選挙にだれを選びますかなんてことを言っちゃいけないのであって、その子の年齢に応じて世界が広がる、そしてこの子には今自分で決められるはずのことを私たちは押しつけてはしないかというチェックをしていくという意味であって、それもお姉ちゃんができたから妹ができるとは限らなくて、みんな一人一人ばらばらなのです。
私は思い出したときだけ、幾らでも日常生活の中にあるのですけど、こんなことしょっちゅうやっていたらとてもじゃないけど、もたないです。思いついたときだけ、余裕があったときだけ「あなたが選ぶのよ」とかやっていたのですね。かなりいいお母さんになれたつもりの私が1年ぐらいたちました。
上の子どもが小学校に上がってピアノの稽古を始めたのです。私は仕事から帰って頭の中がゆらゆらしているまま、保育園に迎えに行き、下の子を連れて帰り、上の子どもは学童保育から帰ってくる。家の中はぐちゃぐちゃ。掃除はしなきゃいけない、洗濯しなきゃいけない、ご飯をつくらなきゃいけない、もういらいらかっか、いらいらかっかしていますよね。そういう中でピアノの稽古をしなさいと言ったのです。で、上の娘がピアノの稽古を始めました。ふっと見たら指遣いが間違っている。「違うわよ、ほら。2の指じゃない3の指。」そんなことを言ってまた私は何かほかのことをしていました。ふっと見たらまた間違っていたのです。「2の指じゃないの3の指。」ちょっとテンション上がっていきました、二度目は。そして三度目、また間違っていたのです。私我慢できなくなっちゃったのですね。「何度言ったらわかるの!」って子どもの手を叩いて怒鳴ったのです。そしたら娘は手を膝におろしてだーっと涙を流して、「お母さん、何でぶつの、口で言えばわかるのに。私だって間違えたくて間違えているんじゃない!」って言って泣いたのですよ。私なんてぶっちゃったのだろうと思いました。彼女は一生懸命やっていたのです。でも成果は出せなかった。私に余裕があったらちょっと待てたと思います。でも私は自分がいらいらしていたから、そのいら立ちをどーんと彼女にぶっつけて、躾だと涼しい顔しようとしたのですね。子どもはその動作をすぐに見抜いたのです。親の情けないのは、自分が間違ったと思っても、すぐごめんなさいを言えないところなのですよね。ここで謝ったら親の権威がすたるみたいに思っちゃったのです。私が本当に子どもに謝れるようになったのは、10年ぐらいかかったような気がしているのですけど。
でもそのとき本当に悩みました。何で私はこんなにいらいらしてるんだろうって考えたのですね。で、はたっと気がついたのですよ。我が家は共稼ぎなのです。夫は全然違う仕事なのですけど、何で私だけが育児と家事やっているんだ。子どもと親のパートナーシップができる前提は夫と妻が対等、全面的なパートナーでなければならない。私は女性としての人権が守られていない現場で、どうして子どもの人権が守られるかってやっと気づいたのですよ。それからですよ。夫との間にすさまじいバトルが始まっていったのは。夫の名誉のために言っておきますけど、今は私よりもずっと楽な仕事やっているのですけど、毎日のご飯づくりから生協の注文まで全部夫がやってくれています。ここまでになるまでにどれほどの苦労があったかご承知いただきたいと思いますが。
しかしそのおかげで私は夫と大げんかをしながら、何度も許せないと言いましたね。でも、私から手を振り上げたことだけはないのですよ。どうしてだと思いますか。どんなに腹を立てても私が夫に手を振り上げられない。夫のほうが一回り大きいからですよ。私が手を振り上げたら絶対反撃返ってくるというのがわかるから。だから私怖くて手を上げられなかった。でも小さくて、たたいて反撃してきても絶対押さえられると自信がある子どもにはぴしっとやって、躾だってしようとしたんだって。私卑怯だと思いました。だからそれから子どもに、「ごめん、お母さん二度と手を上げないね」って約束をしたのです。でも子どもたちに約束をしておきながら自分はそれをすぐ忘れるのですよね。やっぱりいらいらし出して、かあっとかやると、子どもたちはしっかり覚えて、その瞬間に、「お母さん約束だよ!」って言われて、ああ、そうだったみたいな。自分で自分の手を抑えるみたいなことやりました。決して子どもがいつも正しいわけじゃないのですよ。子どももいっぱい間違えるし、私たちのプライドを傷つけることもあるし、約束破ることもあるし、結果が悪かったら私も怒ります。でも、子どもたち2人にとって私たちもいつも正しくはない。対等なパートナーとして生きるというのは本当にバトルな家族になっていくのだと思いました。
でも、その中で私たちにも気づき、子どもたちも成長ありという、そういう道のりを歩いてくることができたと思っています。完璧にはできませんが、100%はできませんが、失敗だらけだけど目指すことができるのだ。これはいつまでも目指すことができる、そういう態度というのがわかってくれて。自分のうちの子どももいじめられたり不登校になったり、いろんな苦しい道を親子で歩いてきました。そのたびに、子どもたちから聞いてきた、救済センターで聞いてきた子どもたちの声がどれほど我が家の子どもたちを救ってくれたかと思います。
上の娘が15歳になったときに言ってくれた言葉がありました。私は生まれて15年、親も親になって15年、どっちも未熟で当り前だもんって言ってくれました。おお、ありがとうございますという感じだったのですね。子どもたちは先刻ご承知、親だって未熟でぼろぼろで、だめなお母さん、だめなお父さん、でもいいじゃない、一緒に育っていこうよって許してくれて愛してくれる。この子どもたちがいてくれることがどんなに私にとって大きな大きな宝物かということを思い知らされました。
大分お時間があいて3人目の子どもが授かりました。私はこの子を本当産むか、産んだらいいのか、産まれたっというところから物すごく悩んだのですが、これは世が、神様が、おまえが言う子どもと大人はパートナーシップとは何か。ゼロ歳からだったらどうなるか試してみなさい。そう言われたと思って彼を産む決意をしたのです。で、男の子だったのですが、彼の顔見たとき、3人目だからどうやっても子どもは育つとわかっている気楽さがあるのですけど、彼の顔を見て、私はあなたのお母さんよって言わないで、私はあなたのパートナーよって、ミルクを飲むか飲まないかあなたが決めるのよって、おもしろがって育ててきています。おもしろくてしょうがない。やっとこの人が大学1年生です。まだまだこれからどうなるかわかりません。でもゼロ歳からだってその子が言っている言葉をきちっと受けとめて、そして子どもにとっても最大の道をパートナーとして一緒に選んで生きていこうと。働いてくれてありがとう。私を支えてくれてありがとう。その思いで子どもと生きていくということができるということを、私はこの子たちから教えられたというふうに思っています。
どうか皆さん、頭の隅に子どもと大人とパートナーシップ、ちょっと時々、自分の子どもさんや地域の子どもさん、あるいは生徒さん、いろんなところでふっと取り出してみて、私はこの子を尊敬できているか、一人の人間として尊敬できているかって試していただけたらなと思います。
こうしたさまざまな子どもたちとの出会いの中で、どうしていいかわからないことの連続だったのですが、その中でもどうしていいかわからなかったのが、「今晩帰るところがないんだよ」って相談をしてくる子どもに出会ったときでした。特に十四、五から19歳、十代後半の子どもたちです。110番にかけてきて、お父さんにもうこれ以上一発でも殴られたくない、どこへ行けばいいの。お母さんの愛人にこれ以上嫌らしいことされたくない、もう家を出てきちゃったの。どこへ行けばいいの。あるいは審判を受けて、その審判を受けて少年院に行き、帰ってきて、先ほどの子どものように行き場を失ってしまう子ども。あるいは児童相談所から児童養護施設に措置されて、中学校を卒業した後高校へ進学しないで住み込みで働いて、その先で失敗して、もうどこも帰る家もない子どもたち。そういう子どもたちにも出会ってきました。
児童相談所には確かに一時保護所というところがあります。東京には5カ所の一時保護所があります。でも、毎日毎日150%、時には200%という定員超過状態。小さな子どもたちがいっぱいにあふれています。児童相談所が使えるのは、十四、五歳から17歳までですね。その子どもが、今晩泊めてくださいと言ったからといってすぐ子どもたちを入れてあげられるわけじゃないのです。それに契約措置ですからやはり措置するということです。児童相談所としてはやはり虐待ということ、あるいは不適切養育を認定しなければ措置できないわけで、子どもが逃げてきました、入れてくださいと言ったからといって、みんな入れられるわけじゃない。
それに、一時保護所というところは必ずしも、子たちにとって養護してくれるところではありません。六畳一間に3人、今は定員超過状態ですから、廊下や押し入れにも布団を敷いて寝かせなきゃいけないのですが、団体処遇でみんな私語禁止で、そんなところに行くぐらいなら野宿しているからいいよ。女の子は簡単に体を売っていきます。簡単に携帯で体を売れます。そういう女の子を引っ張っている男がいっぱいいます。
自分のうちに泊めてあげられたって一泊二泊が関の山。ポケットマネーでカプセルホテルに泊めてあげたって1週間がやっと。その後、子どもたちが本当に安心して自分の道をもう一度見つけ出していくまでかくまってあげることができないのです。
どうしてこの日本にこの子どもたちが、今晩安心して泊まれるシェルターがないんだろうと思ってきました。DVの女性シェルターやっている方たちに相談をしました。子どものシェルターをつくってもらえないですか。それもいいなと言われました。
しかし大きな壁がある。一つには親権。親権という、民法上の親権という壁があって、特に親が居所指定権、居所指定権と言いますが、居所を指定する権利を抱えていまして、親の意向にさからって、民間の人が子どもを隠したら、親権侵害になっちゃうのですね。そして誘拐になっちゃうのです。これがやれるのは児童相談所か児童福祉法に基づく一時保護と言います。親の意向にさからって保護するのはこれしかないのです。当時は。民間では親権にさからって子どもを守るなんていうことはできないのです。
もう一つはお金。女性たちは、大人の女性たちはお金を持って逃げてきているから、生活費をちゃんとシェルターに入れてくれるけど、子どもは丸裸で逃げてくる。子どもたちのシェルターをつくっても全部丸抱えしなきゃいけない。民間ではそんなお金はとても出せない、そう言われました。でも私たちもしても、本当にどうにもならないとは思いつつ、でも欲しいと思っていたのです。
東京弁護士会では、1995年から毎年一作ずつ、子どもたちと弁護士がお芝居をつくっているのです。子どもたちのいじめや虐待や非行、そういうことで苦しむ子どもたちの生のその姿をお芝居でわかってもらおうという、そういう取り組みをしてきています。今年で18回目ですね。約900人近い市民が見にきてくださっています。
そのお芝居の9回目の2002年のとき。それまで私自身が脚本を書いていたのですが、シェルターが欲しいという夢をお芝居にしてみようということで芝居にしました。「カリヨン子どもセンター」という架空のシェルターを舞台の上につくり、家出した子どもたちが弁護士に助けを求め、シェルターに入ることができ、弁護士が子どもたちの代理人として親と交渉したり、児童相談所と一緒に働いて、子どもたちの行く先を見つけていく。それまで子どもたちはシェルターでゆっくりご飯を食べ、傷を癒し、スタッフたちと暮らしていくというそういう取り組みにしたのです。
まさか実現するとは思わなかった。そのお芝居をきっかけに、たくさんの人たちが、弁護士が市民が児童福祉関係者が、本当に子どものシェルターをつくろうといって立ち上がったのです。「カリヨン子どもセンター」というお芝居の名前のまま設立準備会が1カ月後に立ち上がり、1年半、毎日毎日、竜巻のような毎日が流れていきました。夢だったはずの子どもシェルターが2004年の6月、NPO法人としてカリヨン子どもセンターが設立されました。一軒家をご提供してくださる方があり、働いてくださるスタッフの方があり、お金を寄附してくださる方たちが出てきました。そして弁護士会は「子どもの人権110番」、カリヨンのシェルターに入りたいという子どもたちの窓口として使っていいということだったのです。そして相談を受けた弁護士が子どもの担当弁護士になるということで、シェルターに入る子どもには必ず1人に1人ずつ弁護士をつけるということができるようになりました。その弁護士の費用も弁護士会で基金をつくっておりました。ですから、子どもたちが親権侵害だといって親に責められるときに、まず外壁は弁護士が守る。これは民法上も刑法上も緊急避難と言って、第三者の命を守るために行った行為は違法性を阻却するというそういう法律があるのですが、これを盾にして、弁護士が泥をかぶる。そしてスタッフが、家庭と家族と同然のような形で子どもたちと過ごすシステムをつくったわけです。
また、東京都とも提携を結んで、児童相談所と全11児相と連携をして、カリヨンに避難をしてきた子どもたちについて児童相談所に虐待通報をし、児童相談所が一時保護を決定し、カリヨン子どもセンターに一時保護委託をするということもできるようになっていきました。
7年目になります。途中で社会福祉法人となることもできましたが、その中で、今まで逃げてきた子どもの延べ人数、男女合わせて190名、4分の3が女の子でした。長い間虐待されていて、逃げる場所がなかった子どもたちが傷だらけになって、心も傷だらけ、体も傷だらけになって逃げてきます。そしてその子どもたちがシェルターにたどり着き、やっと安心してご飯を食べたりお話をしたりお医者さんに通ったり、数日間は様子を見ています。しばらくすると、試したりします。こんな大人がいるはずない。大人はいつかきっと自分を見捨てるに違いないって。暴言を吐いたり暴力を振るったり、ルール違反をしてみたり、うんと我がままを言ってみたり、スタッフを取り合いっこをしてみたり、ほかの子をいじめてみたりと、いろんなことがありました。たった4人の小さな集団であっても、中は大変になっていきます。
でもそんな子どもたちをマークしてスタッフもへとへと、それぞれの弁護士もへとへと。一人だったらばてちゃいます。子どもたちのエネルギーの前に。でも私たちはみんなで言い合っている、私たちは無力なんだよ、子どもの人生に対して何もできない、でも、子どもたちにひとりぼっちに絶対しないよっ。そのことだけ伝えればそれでいい。だから大人同士スクラムを組んで、きゅっとスクラムを組んで倒れないようにみんなで支え合って、一人の子どもを真ん中にしてこの子を抱きしめ続けようと、愛の集中シャワーで。
救急救命治療センターみたいなものだよと言っています。そうすると不思議なことが起きるのです。生まれてから一度も大事にされてこなかった子どもが、突然たくさんの大人に取り囲まれて、「大事だよ!」って言ってもらうと、いっくら暴れても、何をしてもこの場が崩れないとわかったときに、ふっと扉を開くのですね。その開き方はいろいろです。あるいは、雨の音や風の音がするんだよって言った子がいました。今までそんな音聞こえたことがなかったって。またある子は、世の中って無彩色だと思ってたよ、色があるんだねって言いました。扉を明けたら夕御飯のにおいがすると言った子もいます。あるいは、カリヨンの人ってアブノーマルだよねって言われて、びっくりして、何でと言ったら、ノーマルな大人は子どもの話なんか聞かないんだよと言った子どもがいます。あるいは、どうせ弁護士なんか大金もらってるんでしょうって言った子がいます。運営側にいる私たちは全くの無報酬です。どこからお金が出ると思ってるの、あなたたちのご飯代をかき集めるだけで私たち必死なんだよって言ったら、金がもらえないのに何でこんなことやってんだよって言うから、あなたと人の命が大事だからだよって言って、ばっかみたいだねっとか言いながら、うれしそうでした。お金のためじゃなくって、本気で子どもたちの命が大事だと思ってくれる大人がいるらしい。
決して貧困家庭や崩壊家庭、それがものすごく多いのですけど、そこから逃げてくる子ばっかりじゃないのです。4人に1人ぐらいは、経済的にも社会的にも地位のあるような家庭から逃げてくる子がいます。ある有名私立高校の3年生の女の子でした。ものすごく頭のいい。どうやったら大人を困らせられるかということを本当に知り抜いていて、スタッフはぼろぼろにされました。私何回も行って頼みました。お願いだからもうやめてと。あなたがそんなことしなくても、みんなあなたのこと見ているから大丈夫だよって。これ以上やったらスタッフがばてちゃう。スタッフがばてたらカリヨンが崩壊しちゃう。お願いだからやめていって言ったら、何で出てけって言わないんだって言ったのです。あなたさ、どっこにも行くところがなくなっちゃってカリヨンにたどり着いたんだよね。そのあなたに出ていけと言ったら死ねっていうことじゃないの。私たちは子どもの命を守りたくてシェルターをつくったのよ。口が裂けても出ていけとは言わないからねって。そしたら、わあって泣きました。今までのうちだったら出ていきなさいと言われて育ってきた。とっても優秀でいい子だったのに、親は常に、言うこと聞かないんなら出ていきなさい。出ていけということは子どもにとっては死ぬということなのですよ。彼女がやっとこちらに心を開いてくれたその瞬間でした。
そのちょっとした心を開いた子どもたちの中にみんな見えるのです。本当は生きていきたいんだよっ、本当は愛されたいんだよっ。どんな子でもみんなその炎を燃やしてます。その炎が見えたとき、私たちはとってもうれしくなります。シェルターはその炎をちょっとつけてあげるところ。
それから先がまた大変です。家に戻れた子は4人に1人です。あとの子どもたちはほとんど中卒の資格で生きていかなきゃならない。その子どもたちが生きていくためのその場所が自立援助ホーム。これは東京にはカリヨンを含めて18カ所あります。私たちも自立援助ホームが必要ということでシェルターの後、男の子、女の子だけの自立援助ホームをつくる。その後、女の子が余りにも多くて男の子が入れなくなっちゃったので、男の子のためのシェルターも設けました。シェルターにはたくさんあちこちから逃げてきました。東京だけじゃない、千葉、埼玉、神奈川は当然のことながら、茨城や福島や富山や名古屋からも大阪からも高知からも、大分からも鹿児島からも逃げてきました。日本に1カ所しかなかったから。
それを地元のそれぞれの弁護士や市民たちが、自分たちのところにもこういう子がいるということを知っている人たちが立ち上がっていきました。2007年、神奈川で子どもセンターてんぽ、同じ年、愛知で子どもセンターパオが立ち上がりました。昨年は岡山に「子どもシェルターモモ」、広島に「ピピオ子どもセンター」、ことしは京都に「子どもセンターののさん」、もうすぐ12月に福岡に「そだちの樹」、今は仙台でも高知でも。それから大阪や札幌も小さな取り組みが始まりました。
厚労省もことしの4月、子どもシェルターの存在権を認め、児童福祉法上の自立援助ホームの一つの特別形態として、子どもシェルターを認可するという通達も出してくれました。全都道府県に1カ所でもシェルターが増えて欲しいと思っています。自分なんか生まれてこなきゃよかった、自分なんか死んだほうがいいんだ、そのほうがみんなのためなんだと思っている子どもが一人でも減ってほしい。そのためにシェルターが増えてほしいなと思っています。
どうか、子どもたちのそばにもし皆さんが立つことがあって、自分たちでどうすることもできなくても、どうぞ輪の中に入って、ひとりぼっちじゃないんだよって、それを言う一人の大人になってくださると思います。きょうはご清聴どうもありがとうございました。(拍手)