人権に関するデータベース
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研修講義資料
東京会場 講義2 平成23年9月15日(木)
「女性と人権」
- 著者
- 江原 由美子
- 寄稿日(掲載日)
- 2012/03/28
※今回は要約コラムとなります
皆さんこんにちは。首都大学東京の江原です。本日は「女性の人権」についてお話をさせていただきます。人権とは、市民革命の中で出てきた考えであり、「人は皆、生まれながらに平等の権利を持っており、等しく尊重されるべきだ」ということが基本の考え方です。市民革命、特にフランス革命において、「人権宣言」が採択されたことにより、大きく世界に影響力を持つ思想になっていきました。
しかし、この時の人権思想は、女性には適用されませんでした。フランス革命に大変貢献したジャン・ジャック・ルソーなどの啓蒙思想ですら、女性に対する差別意識が非常に強く存在していたことも、現在の研究ではよく知られている事実です。アメリカの市民革命である独立戦争も、今の視点から見ると、さまざまな問題があります。今の観点から見ると「万人の平等を求めた思想」とは到底言えません。「平等」と考えられていたのは、白人男性だけであり、女性はもちろん考えられていませんでした。このような差別意識は、20世紀以降の社会、いや21世紀の現在に至るまで、多くの国で残存しており、いわゆる「人権問題」の原因となっています。現在でもそうなのですから、ましてや18世紀当時の本を読むと女性についても酷いことがいっぱい書いてあります。例えば、「女の方が男より頭が悪いから女性の男性を同じに扱ってはいけない。」などと書いてあります。その背景には、当時女性は基本的に読み手とは考えられていないということがあると思います。書き手も男、読み手も男という構造の中で男性視点で描かれた女性観が当たり前のものとして通用していたのだと思います。当時のイギリスの制度ではたとえ父親が財産を持っていても娘に相続させることはできませんでした。女性に財産権がないのでお金持ちの家に生まれた女性でも男性の保護下にいるしかない。女性は法的に無能力者扱いなのです。市民革命後の社会においても、こういうことをそのまま取り入れた法律だったわけです。もちろん婦人参政権もありません。それで、市民革命後の社会(近代社会)において、様々な女性が運動を起こしました。
現在ドメスティックバイオレンス(DV)が問題になっていますが、DVは昔からずっとあった問題です。家父長制度の中ではDVは正当化されていました。なので20世紀になるまでDVは社会問題化しなかったわけです。女性には自分のことを自分で決定する権利がありませんでした。勿論女性に決める能力がなかったわけではありませんので、女性たちは、権利を獲得するべくさまざまな運動を起こしました。この運動を婦人参政権運動と呼びます。婦人参政権運動は、19世紀末から20世紀初頭にかけてだんだん強くなり、ついに婦人参政権が実現していきます。一番早く婦人参政権が確立したのは、ニュージーランドで19世紀末でした。アメリカは意外に遅くて1920年です。日本は1946年と遅いですね。イラクは2007年ですが、イスラム諸国では未だに認めていない国もあります。政治参加における格差は、世界中で今も続いている非常に大きな問題なのです。
日本では、1946年に婦人参政権が認められてほぼ同時期に、女性も高等教育を受けられるようになっていきます。それ以前には女性は基本的に大学に行けませんでした。1946年ころの女性が書いたものを見ると、「婦人参政権も大事だけれども、一番嬉しかったのは男性と同じように大学にいけるようになったこと」という意見がとても多いです。
しかし、大学ももともとは男性中心社会だったため、女性の大学進学はなかなか進みませんでした。少しずつ格差は縮まるのですが、それでも、格差は残る。たとえば学生の女性比率はかなり改善しても、大学教員の女性比率は低いというように。この問題は、現在も強く残存しています。アメリカでも、1970年代くらいまでは同じ問題があり、そのことがフェミニズム運動第二の波の一つのきっかけになったほどです。教育における男女格差だけでなく、賃金格差や経済的格差もなかなか縮まらず、結果として社会的地位の格差は残ったままでした。
その主な理由は、「家事や育児は女性の役割」という役割観を変えないまま「平等」を実現しようとしたことにあります。「婦人参政権の実現」というプログラムの中には、「役割観の変革」は全く入っていませんでした。女性が「子育ての責任や家事の責任を全て負うのは当たり前」というところを変えないままに、社会参加を促しても、限度があります。なので格差の持続になるのです。このことが問題になってくるのが、1960年代以降のことです。
もうひとつ、女子の人権を考えるうえで忘れることができない非常に重要な問題があります。リプロダクティブ・ヘルス・ライツの問題です。この問題は女性にとって直ちに、自分の「身体の自由」の問題となります。つまり、単にどういう仕事ができるかという問題であるにとどまらず、人生設計の問題であり、さらには自分の生命や健康の問題でもあわけです。婦人参政権のころの女性運動の発想では、リプロダクティブ・ヘルス・ライツというような考え方はありませんでした。背景には、医療サービスの発達があります。妊娠・出産などに関わって、さまざまな医療サービスが開発され、それゆえに「女性が安全で安心の暮らしをするためには、リプロダクティブ・ヘルスに関わるさまざまな医療サービスの支援が必要」だと考えられるようになったのです。
このように、婦人参政権が確立した国々においても、1960年から70年代には、男女平等の実現のためにはさまざまな課題がありました。なのでフェミニズム運動第二の波が起こり、70年代の半ばくらいから世界女性会議が始まりました。そこで、婦人参政権以降にも残存した男女平等に関連する問題を解決できるような条約をつくろうという議論が高まり、1979年に国連が女性差別撤廃条約を採択し、多くの国が署名しましたし、日本もそれにより雇用機会均等法などをつくりました。
その後、世界女性会議では、「女性の人権」の問題、特に暴力の問題が提起されました。その中で徐々に明らかになってきたのは、「女性の人権」を守るためには、市民革命期に「男性にとっての平等」を確立するために必要だと考えられた「人権」だけではなく、別の新しい枠組みも必要であるということでした。それで、1993年の世界人権会議の中で、「女性の人権」を普遍的に認めていきましょうという声明が出されました。北京会議では特に、「女性に対する暴力」の問題が取り上げられました。ドメスティックバイオレンスをはじめ、女性性器切除など、世界中に女性の自由や行動を支配するさまざまな暴力があります。それぞれの問題には、文化的な背景もあり、簡単には問題を解決できない難しさもあり、今日大きな問題となっています。
日本社会では80年代末にセクハラが社会問題化しましたが、セクハラも、こうした「女性の人権」に関する考え方の変化によって、社会問題化された問題のひとつです。社会問題化する以前は、セクハラは、「個人的な恋愛問題」というように位置づけられていたため、被害者が裁判所に訴えても、全く受け付けてくれませんでした。1980年代にアメリカで初めて、「セクハラは違法」という判決が出ました。「セクハラは性差別である」と。日本では、最初セクハラに対する理解がなかなか浸透しませんでしたが、次第に広まっていきました。2000年にストーカー防止法、児童虐待防止法。DV法は2001年に出ました。これらの法律は従来「私的領域だから法は入らず」とされていた問題にも、個人の安全や生命を守るためには介入するべきだと考える点で、共通となっています。
婦人参政権実現後の社会における男女平等実現には、これら以外にもまだまだ課題があります。それに対応するために日本政府では1999年に男女共同参画基本法というものをつくり、法における政治的、経済的権利の平等化を進めようとしています。また1980年代以降多くの自治体で女性センターや男女共同参画センターを設置してきており、男女共同参画に関連する施策もなされています。
この男女共同参画社会を構築するためには、ワーク・ライフ・バランスを実現する必要となりますが、男性稼ぎ手モデルを前提とした働き方が慣行となっており、女性の非正規労働者比率が急速に増大しているなど、日本社会では構造的な問題が壁となっています。この4半世紀の中で、女性の男性に比較した賃金比率は、ほとんどの国で上がっているのですが、日本は下がっています。下がっている国は労働条件の低下が起きている国です。この理由の多くが、非正規労働者化だと思います。また日本の女性の大学進学率はOECD諸国で最低ランクです。おそらく女性の職業見通しが非常に低いことによる教育投資の男女差があるのではないかと思います。世界では、非常に制度を大きく変えて共働き社会にし、男女平等を自主的に進めてきましたが、日本の動きは相対的に遅かった。結果として日本は世界から見るとすさまじく男女不平等な国になってしまいました。「日本でも男女共同参画を一生懸命やっているよ」と、皆さんお思いかもしれませんが、実は他の国のほうがずっと早く進めている結果、日本の遅れが非常に目立つようになっているのです。男女共同参画社会の実現にはまだほど遠いですが、だからこそ、男女平等の問題と女性の人権について考えていく必要があると思います。本日はご清聴ありあとうございました。
当日配布された参考資料(PDF)