人権に関するデータベース
研修講義資料
「性的指向における自由と平等」
- 著者
- 柳橋 晃俊
- 寄稿日(掲載日)
- 2013/02/18
おはようございます。初めまして。今ご紹介いただきました柳橋でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
お配りしたレジュメの最初に、はじめにということで、「同性愛が人権問題になるまで」と題させていただいておりますが、同性愛の問題が人権問題として取り扱われるようになったのは、いわゆる新しい人権と言われるものの中でも比較的新しいもの、大体1970年代ぐらいからと考えていいのかなと思います。では、その前は一体何だったのかといいますと、1つは犯罪で、いわゆるソドミー法と言われる法律が、刑罰をもって同性愛行為をはじめとする正常ではない性行為を規制していました。それにより、同性愛行為は犯罪として扱われ、同性愛者自身は何もしなければ犯罪にはならないけれども、同性愛行為をした段階で犯罪者になるという扱いをされてきたのです。
それに対して、そもそも同性愛行為をしたといっても、別にお互いが合意して行っている限りは、被害者はいないじゃないかという批判が1つありました。それからもう1つは、同性愛という考え方自体が、いわゆる異常とかそういうものではなくて、性的指向という1つの性のあり方なのだという考え方が広がっていきます。その中で、性的指向というのは、自分がどういう生活をしていきたいかというのを決める上で、非常に重要な要素になっています。ですので、これを否定するのはおかしいという考え方が定着していきまして、だんだんとソドミー法というのが廃止されていったという経緯があります。
日本の場合はどうかといいますと、(いわゆるソドミー法が)なかったわけではないのです。明治になって最初のころに、鶏姦法で同性愛行為を取り締まる手続がありました。ところが、明治時代にさまざまな法整備をする中で、刑法をつくるとき、その鶏姦法、いわゆるソドミー法の部分は刑法に取り入れられませんでした。実は、当時のフランスはナポレオン刑法典の系譜を引いていましたが、ソドミー法を持っていなかったのです。たまたま日本の法整備にかかわった方が、ボアソナードというフランスの方で、そういう不道徳な行為というのは、刑罰に規定しなくても、社会の中で不道徳な行為として負の評価を受けるから、そうやって抑えることができるということを言われて、鶏姦法で捕まえられた人たちもそんなに多くいなかったということもあり、明治の刑法の中には取り入れられませんでした。
ですので、日本にはソドミー法がなかったということで、よく日本では欧米に比べて同性愛に寛容ではないのかと言われることがあるのですが、別に刑罰をもって規制しなかったから寛容だというわけではなくて、日本には世間という強力な規制装置のようなものがありますので、それをもってして同性愛を規制する、表に出てこないようにすることができた、いわゆる一般の目に触れないようにすることができたのかなと私は考えています。考え方としては、日本は同性愛に寛容であったというにはちょっと疑問で、議論としては誤った議論なのかなと思っています。
次にもう1つ、同性愛は病気として扱われた時代もありました。100年間ぐらい扱われていたのではないかと思うのですが、これは、1つはソドミー法によって刑罰をもって罰するのではなくて、病気なのだから治療の対象だという考え方が19世紀ぐらいに出てきまして、その流れの中で、性的な異常、あるいは精神障害の一種として同性愛を捉えてきたという歴史が長くあるのです。最近では麻薬犯罪、薬物犯罪などで、刑罰を厳罰化するよりも治療をしたほうがより効果的なのだという議論がありますが、それと似たような1つの流れから来た議論です。
実際に治療するためにさまざまな治療方法が考え出されていて、中にはいわゆるロボトミーのようなことをやったり、主に男性同性愛者なのですが、男性の裸を見ると性的な興奮をしないようにビッと電気刺激による痛みを与える、ショックを与えるようにして、そういう反応が起きないようにしようとか、かなりハードな治療も行われていたようなのですが、実際は、治療効果はほとんどなかったというのが1つありました。
もう1つは、実際には同性愛者だということで、社会生活に何らかの困難を来たしているというわけでもなく、さまざまな差別があるのでそれを隠さなくてはいけないというプレッシャーがあったり、公にそれに基づいて生活していくということができないという問題はあったのですが、いわゆる治療をして異性愛に治してあげないとその人が生活できないという問題ではない、ということもわかってくるようになるのです。
その結果、実際には病気から外したほうがいいのではないかという議論が60年代、70年代から出てきました。アメリカでは、1973年に同性愛を治療の対象から外しました。その後、世界的にもそのような流れが定着していき、いわゆる性的指向というものは、いかなる意味でも治療の対象ではないというのが、ほぼ1990年代に確立したと言ってよいかと思います。
日本もずっと同性愛は病気で治療の対象という考え方で来ていたのですが、そうした世界の流れもありまして、1990年代の後半には、ICDというWHO、世界保健機関の出している疾病分類に従って同性愛、あるいは性的指向を治療対象から外すということになりました。
この同性愛が病気かどうかということに関しては、それが病気として載っているのはおかしいということで、日本精神神経学会に、アカーからも申し入れをして改善を求めてきていたという経緯もありました。1つには、それは病気ではないというのが基本的な事実としてあるのですが、もう1つ、病気ということにすることによって、一般の人が、やはり同性愛は異常だと、あるいは悪い言い方ですと変態だという意識を持つことの下支えをしているのです。その辺は精神医学の分野だけではなくて、それに基づいて同性愛を定義している辞書とか事典とか、あるいは教育関係の副読本ですとか、そうしたものの中で下支えになっている部分があるのです。ですので、その下支えになっている部分をとりあえず外しておかないと、病気であるということが、基本的に正当化されてしまうという問題があったので、そこにはかなり力を入れて取り組んだ経緯があります。
一応、精神障害あるいは性的異常という部分からは外されたのですが、今でも同性愛はおかしいという意見が一般の中にもそれなりに残っており、インターネットで検索すると、やはり変だという意見は比較的よく出てくるのかなと思います。ですので、いまだに昔の問題が尾を引いている部分はあります。
権利としての同性愛ということなのですが、同性愛者の権利の問題といいますと、最近は、特に欧米で同性間、同性同士の結婚が認められることになり、アメリカの大統領選挙の中でもそれが争点になることでよく紹介されるのですが、意外と同性婚だけに注目が集まるのですが、同性愛の権利として考えた場合、さまざまなものがあります。今日お配りした資料の頭にジョグジャカルタ原則が書いてありますが、これは同性愛だけではなくて、同性愛にかかわる性的指向及び性自認、ジェンダーアイデンティティーに関連する権利の問題、人権の問題として、これらの問題をきちんと考えなくてはいけませんよ、という内容です。場合によっては、日本人はあまり関係ないのではないかと思われる部分もあるかもしれませんが、それは表面化していないだけの問題の場合もありますし、実際問題としてそういう問題があるのだけど、訴えることができないという問題が絡んでいるものもあります。
基本的には、性的指向に基づく生活の保障を全面的に行うべきであるというのが、今の同性愛に対する人権問題としては流れになってきています。
先ほどから出てきています性的指向はセクシュアリティーという人間の性にかかわる問題のいくつかの側面の一つです。それぞれの人が、自分がどのような性生活をして、あるいはそれに基づいて生活をしていくか、ということに関連して、性の問題はいくつかに分けて考えられると思います。
1つが性別。これは生物学的性別と社会的な性別であるジェンダーと両方、今では含まれて考えられていると思います。これは比較的古くからあります。それから性自認。ジェンダーアイデンティティーの訳語なのですが、自分は男性なのか女性なのかという意識、性別に関する自己意識をジェンダーアイデンティティーといいます。性同一性障害の話を何度かお聞きになったことがあるかもしれませんが、あれはジェンダーアイデンティティーディスオーダーで、要は性自認に関する齟齬が生じているという問題です。この場合、ジェンダーという用語を使っているように、必ずしも生物学的な性別の問題だけではなくて、自分の意識がジェンダーとして男なのか女なのかという社会的な性別に関する意識の問題というのも捉えられていると考えていいかなと思います。
もう1つが性的指向。これはセクシュアルオリエンテーションの訳語ですが、要は自分がどういう性自認を持った上で、どの性別の人に対して性的な欲求や感情を抱いているかというのが性的指向です。ですので、基本的には同性愛、両性愛、異性愛という形で分けられるのですが、男性では、一応自分のジェンダーアイデンティティーは男性、それで、この人が男性に対して性的な欲求、あるいは恋愛感情を持つ、この場合が同性愛ですね。女性が、自分が女性だと認識していて、女性に対して恋愛感情や性的意識を持っている、あるいは自分が男性だと思っていて、男性に対して性的な意識や恋愛感情を持っている、これも同性愛であるということですね。自分が女性だと思っていて、男性に対してそういう意識を持つとすると、異性愛ということですね。自分は男性あるいは女性だと思っていて、男性に対しても女性に対しても性的な意識や恋愛感情を持つとすると両性愛ということで、基本的には3つに分類して今では考えられています。細かなところで、定義の問題でいくつか争いはあるのですが、基本的にはこの形で理解していただいていいかなと思います。
この場合、対象を求める男性や女性が生物学的な部分を中心にしているのか、ジェンダーの部分を中心にしているのかというのも多少問題になるかもしれませんけれども、最初の理解としては、あまりそこまで細かく考えなくてもよろしいのかなと思っています。
突き詰めると、基本的に性的意識や恋愛感情というのは一種の感情なのですが、その前のところで何らかの生理的な反応としての情動が起こり、それは恋愛感情なのか、それとも性的な欲求なのかという感情や意識の問題に結びついてくると思うのですが、外部から同性愛は異常だという情報がさんざん浴びせかけられている状態が続くと、自分がそういう感情を持つのがおかしいのでないかと考えることがよくあるわけです。これは特に思春期、自分の性的指向について考えるようになった、あるいはそういう体験をするようになって特によく起ってくることなのですが、そうすると、やはり自分は、これは同性愛だからおかしい、そういう感情を持っちゃいけないのだ、あるいは自分は絶対にそうではないのだと、自分の感情や欲求を押さえ込んでしまうというのが比較的初期段階といいますか、同性愛、性的指向に関して考え出したときに起こる問題の一つです。
異性愛者の場合は、普通そういう問題というのは起きないわけです。異性愛が当然なのだ、普通である、正常であるということを意識している中でも無意識のうちにもさまざまな情報として得ていますので、自分の感情に関してどぎまぎするということがあっても、それが異常だということには結びついていかない。ただ、同性愛の場合には、異性愛が普通だという情報をさまざまに浴びているので、自分の感情や欲求はおかしいのではないかと意識させられることがよくあります。ですので、そうした問題も含めて、どうやって自分の性的指向を受け入れていくのかというところは、人権問題を考える中でも、頭の中に置いておく必要があるのかなと思います。
基本的に今、性的指向(の原因)についてはさまざまな考え方があるのですが、本人が選択して決めたものではないということについては、ほぼ了解が得られているのではないかと思います。
今、「指向」という漢字を当てているのですが、「嗜好」あるいは「志向」を当てているものが時々見られます。基本的には「指向」が日本では訳語としても定着していると思うのですが、「嗜好」のほうは、セクシュアルプリファレンスという別な用語がありまして、その訳語として使うべき言葉ということで、一種の誤訳なのです。「志向」は、もとの言葉があるわけではないのですが、時々セクシュアルオプションという言い方をする人がいます。非常に政治的な意味で使っていて、選択しているのだと、自分はこういう性生活を選択しているのだということを言うときに使う言葉が1つありまして、そういう意味で言うと、自己選択にかかわらないという部分で言うと、「志向」を当てるのも誤訳に近いかなと思います。ですので、性的指向については、「指向」という字を使っていただくのがいいのかなと思っています。
性的指向を理解するために、なぜ同性愛が生じるのかという議論は昔からありまして、そういうことに興味を持たれる方もいらっしゃいますから、研究もさまざまに進んでおります。ショウジョウバエの同性愛とか動物の同性愛行動がどのようにして遺伝子戦略に役に立っているのかとか、さまざまなことを言う人がいるのですが、実際には、これが同性愛遺伝子だというものはわかっていませんし、どうすればその遺伝子が発現するのかもよくわかっていません。社会的な環境やホルモンの影響ではないかとか、脳の形の違いじゃないかとか、さまざまなことを言われているのですが、決定的な生物学的、あるいは生態学的な原因というものは今のところありません。おそらく、複数の遺伝的な要因と、複数の社会的な要因が関連している可能性が高いというレベルの話なので、それをあまり探っても意味がない、人権論の問題として考えたときに、それを特別に探って確定してからでないと何かできないというものでもないというのが重要な点なのかなと思います。
もう一つ、重要な点は、性的指向は、別に同性愛のことだけではなくて、異性愛も性的指向の一種なわけです。ですので、同性愛遺伝子があるとすれば、異性愛遺伝子もあるわけですし、同性愛になる社会環境があるとすれば、異性愛になる社会環境もあるわけです。ですので、それらを両方ともきちんと視野に入れて考えなくてはいけないといったときに、なぜ同性愛だけ特別に原因が必要か、そういうことも考える必要がどこまであるのかというのは、頭の中に入れておいていただければなと思っております。
ですので、極端に言えば、同性愛は趣味・嗜好だとどうしても言う方がいらっしゃるなら、それはそれでもいいのですが、その場合は異性愛も趣味であるということです。その場合、それを前提とした上で、異性愛は趣味だとすれば、それに基づいてなぜ同性愛はこれだけ隠さなくてはいけないと思われているのかが問題になってきます。そういう観点から考えたときには、基本的には同性愛も異性愛も性的な指向としては両方とも等しいものになっている。それぞれの性的な指向に基づいて自分は生活を形成していく、そういう権利のもとになっているのですと捉えていただければいいのかなと思います。
そして、日本における性的指向の理解ということで、ちょっとした短い歴史の話なのですが、同性愛の問題が日本で表面化する上では、エイズの問題というのがどうしても切り離せない問題としてあります。
欧米では、エイズ・パニックが起る前にセックス革命という性的な解放を求めるさまざまな運動がありまして、それが1つ前段にあるのですが、日本の場合はその部分は非常に弱い。女性解放運動の中で少しそういった部分があるのですが、そのときには同性愛の問題というのは、基本的にはこの国には表面化してこなかったという部分があります。80年代に入ると、欧米でまずエイズが見つかり、主に同性愛者を中心に感染者が広がっていったので、最初、同性愛の病気であるという議論が出てきます。日本でもそうした議論を取り入れました。日本人で第1号のHIV感染者はエイズの患者なのですが、その人はアメリカ在住の日本人で、たまたま日本に一時帰国していたときにHIVに感染していることがわかり、1号患者として発表されます。さまざまな意図があり、確実にそうだと言えない部分がたくさんあるのですが、明らかにHIV・エイズの問題というのをできるだけ国内の問題にしたくない、日本の問題にしたくない、異性愛者の問題にしたくないという意識も、底流としては存在していたのではないのかなというのがちょっとした感想です。
まず、HIV・エイズについては、同性愛の病気だということで話が出てきたわけですから、異性愛社会は無視していたのです。アメリカはかなり露骨だったのですが、要は異性愛に関係なければいいよとか、大して研究や予防・治療に関してお金をかけないことがあったのですが、実際にはそのウイルスは異性愛、同性愛を比較してこちらのほうが感染しやすいということで移動しているわけではないので、異性愛者にも当然感染者が出てきます。そうした状況の中で初めてこの問題は異性愛者の問題でもあるから、同性愛の問題ではなくてみんなの問題として問題を解決しないといけないものになりました。日本でも最初は、外国から来た、かつ同性愛の問題であるということで、ほとんど省みられることはなかったのですが、神戸とか長野のあたりのセックスワーカーでHIVの感染者がいることがわかってから、それはまた大問題じゃないかということで、ほとんどパニックのような状態になるのです。以降、同性愛者の病気ではなくて異性愛者もかかる病気ということで、みんなの問題ということで、一定の対策がとられるというのが1つの流れです。
ただ、統計的に出てきている問題で言いますと、日本の場合、血液製剤による感染者を除くと、性行為感染が原因のほとんどを占めています。そのうちだいたい新規感染者の6割か7割ぐらいは、男性の同性間の性的行為によって感染したと伝えられています。ただ、基本的な統計調査としては、本人からの聞き取り調査なので原因不明は多いですし、そうなんじゃないかなというレベルのものも入っていますので、完全にそれが同性愛者にだけ中心的に問題が広がっているのかというと、必ずしもそうともとれないし、最初の段階で同性愛者の病気という情報が出て、それが意識の底流にあるので、異性愛者はあまり検査を受けないということもあるのかもしれません。その辺は具体的に検証するすべが今のところないのですが、実際にはそういう問題も含まれている可能性はあります。
ただ、実際問題としてHIVに感染している同性愛者、あるいは同性間性的接触によって感染した人たちは、とりあえず治療を受ける必要性というのがあるわけです。それから、もしもそういうところで感染する可能性が高くなるということであれば、そこを中心に予防措置をとる、予防のための計画をしていくということも必要です。
その辺は、日本の中で、国側でだいぶ議論があったのですが、今日お配りした資料をご覧いただきますと、後天性免疫不全症候群に関する特定感染症予防指針、これは厚生労働省が出しているもので、平成24年1月19日に見直しがされまして最新のものになっています。
その中で、個別施策層というのが出てくるのですが、これは、予防や医療へのアクセスに関して中心的に重点的に施策を進めていかないといけない、そういう人たちということなのです。性に関する意思決定や行動選択にかかる能力の形成の過程にある青少年、それから言語的障壁や文化的障壁がある外国人及び性的指向の側面で配慮が必要なMSM、これは男性間の性行為を行うものというMen who have Sex with Menという英語の頭文字をとっているのですが、そういう人たちが個別施策層として挙げられています。
そのほかに、今回の改定では、性風俗産業の従事者や利用者も個別施策層にしていく必要があるのではないかということで、予防啓発、それから治療に関するターゲット、重点的なターゲットということになっています。
施策を作る過程では、(HIV感染者や同性愛者の)当事者の方も参加されていたのですが、そのときにさまざまな議論になりました。最初に、同性愛者の病気だということで差別問題が起きたので、これを個別施策層として取り上げたら、差別の問題をもう一回ぶり返すのではないかということを行政の方は心配されていまして、ただ実際にそれを心配して、差別があったから今度はそれを表に出さないようにしましょうとなってしまうと、実際には自分たちが必要としている情報や、福祉あるいは医療のサービスにアクセスできないという問題が起ってしまうので、むしろそれは今まで差別の問題があって、きちんと対策がとられていなかった、だから逆にそれを明らかにした上で今度はそういうことが起らないように施策を行うのだと、それが有効なのだという形でやったほうがいいのではないかと、個別施策層を設けて、その中に性的指向という問題を抱えた同性愛者、指針ではMSMという言葉になるのですが、それを入れたほうがいいのではないかというのを当事者が強く主張して、個別施策層を設けたという経緯もあります。
MSMという言葉は、HIVの予防啓発をやるという部分の中だけで使われる言葉で、普通はあまり耳にしない言葉だと思います。1つは、同性愛者とか、ゲイ、あるいはレズビアンという言葉をこの中に入れてしまうと、そういう意識というか、そういうアイデンティティを持っていない人たちに対して情報が届かないのではないかというのが国際的なHIV・エイズの検討の場でいろいろ問題になっております。アジアでは、ヨーロッパやアメリカのようなゲイアイデンティティー、レズビアンアイデンティティーを持っていない人たちのほうが多いので、むしろそういう人たちに情報を届けるためには、そういう言葉じゃないほうがいいのではないかという議論になり、そういう場合にMSMという言葉が出てきました。
日本の場合も、確かにカミングアウトの問題から考えると、それほどカミングアウトが進んでいるわけでもないので、強く自分が同性愛者だと意識をしている人というのは、そんなに多くないのかもしれませんが、逆にMSMという言葉を使うことによって、どのくらい同性愛者たちがアクセスしやすいかということに関しては、少し疑問のあるところではあります。
実際にどういう言葉を使ってどのように情報を届けるのが一番いいのかというのは、まだ検討しなくてはいけない部分があるのですが、少なくとも人権という観点を基本的な生活の中にも取り入れるべきと捉えている日本のような国であれば、もう少しアイデンティティに配慮した言葉でもいいのかなというのが私の意見です。
今後も検討すべきことはありますが、HIV・エイズの問題に関して言うと、性的指向にかかわる問題、特に同性愛の問題に関しても意識化はされてきていると思います。
次は裁判の話なのですが、同性愛に関して性的指向、セクシュアルオリエンテーション(の問題)という意味で議論がなされていた裁判としては、判決が公開されているものとしては日本には2つしかありません。1つが府中裁判といわれるものです。ちょっとここで考えてもらいたいのは、お手元の資料にある男女別室宿泊ルールに関する教育長コメントというのがありまして、これは青年の家といわれる都の公共施設ですが、ここの宿泊を男性同性愛者複数名で利用することができないという決定を出したときに、教育長が出したコメントで、これは東京都の基本的な主張になっていました。
ざっと読んでみると、おもしろいのは、1つは、自分たちは同性愛の問題について差別をしているわけはありませんというのは当然出てくるのですけれども、異性愛の問題と同じように考えたのだから平等でしょうという考え方がこの府中裁判でした。何が問題なのかというと、基本的に、これは最初に言ったとおり、日本では同性愛を表に出さないようにする社会的な圧力というのが強力だという話をしたのですが、それがこの中に意図的に仕掛けられているわけです。同性愛の問題がぽんと表に出てきたときに、もう1回押し込めようとする。後でカミングアウトの話をしますが、同性愛者は押入れに閉じ込められている状態だったということです。
もう1つは、異性愛社会が前提なのだから、異性愛者と同じような扱いをしろという問題です。これは異性愛社会を何とか維持したいという1つの強力な下地があるのかなと私は読んでいます。深読みし過ぎだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、差別問題に関して特に構造化された差別の問題を考えるときには、自分の中で意識していないそういう問題が中に含まれている可能性がありまして、そういうところをどうやってあぶり出して問題を明らかにしていくかというのを考えていくのが必要なのかなという気がします。
判決は、基本的に異性愛者と同じように同性愛者を扱うことで、同性愛者の宿泊ができなくなることは問題であるとして東京都の決定自体を違法とする判決が出ていますけれども、二審の判決では、いわゆる傍論で、主文を導く主要な理由ではないのですが、傍論の部分で、行政がどういう態度でこのような少数者の問題を扱わなければならないのかというのを少し言及しているところがあります。
要は行政にとってみれば、少数者だから知識がないとか、情報がないからといって問題を軽視してはいけないと、そういう問題に関してきちんと目配りをしていくことが公権力を行使する者のあるべき姿だということを言及しているのです。
もう1つは、シェイダ裁判ですね。これは、イランから日本にやって来て不法滞在になってしまっている同性愛者の問題なのですが、彼が日本にやって来た当時、イランという国は、イラン革命に成功し、刑法で同性愛行為については、死刑を最高刑とするかなり重罰を科される罪とされていたのです。ですので、イランに彼がもし帰されてしまったらどんな目に遭うかわからない、迫害を受ける可能性が多分にあるということで、難民として在留特別許可を認めるべきではないかというところが争いになった事件です。裁判所は基本的に迫害の可能性はないということで、難民の該当性は求めず、さらに不法滞在をしているので、退去強制処分をしてイランに帰してもいいという判決を出しています。
難民問題の場合、迫害と人権侵害は必ずしもイコールではないので、事実関係の問題としていくつか議論になるべき部分というのもあるかとは思うのですが、お手元の資料には、一審判決の理由の中で、彼が同性愛者だからといって、イランに帰ったからといってもさほど問題がないでしょうといっているところを中心にところどころ抜粋してあります。後でゆっくり読んでもらうとして、いかにも裁判所らしく事実関係と理由については書いているなと思われるかもしれないのですが、この背景には、基本的には隠していれば大丈夫でしょうという意識も読み取れるのではないかというのが私の個人的な見解です。
難民の問題に関して言うと、基本的にはその人が慎重な行動をとっていれば迫害を受ける可能性がないのであれば、難民に該当しないのではないかという議論が確かにあることはあるのです。ですので、同性愛者であることを隠している、あるいは知られないようにこっそりとしていれば、迫害を受ける可能性はないのではいかというのが難民制度のほうで議論にはなっている部分です。ただ、性的指向というのが、異性愛も性的指向、同性愛も性的指向だとすると、それに基づいて自分の生活をどのようにしていくかということを決める上で1つの基盤になっているわけです。しかも、それを自分の意思で変更できるような問題じゃないという前提から考えると、そこで隠していればいいじゃないかという議論に話を持っていってしまうと、そもそも性的指向の人権性というのはなくなってしまうのだという問題があります。ですので、難民該当性の問題を考えるときに、具体的な迫害の危険性があるのかどうかという事実関係の調査というのが必要なのですが、その問題を隠していればいいのではないかということで排除してしまうというのは、人権問題としてはおかしいのではないか、シェイダ裁判に関してはそういう問題がこの中に含まれていたのではないかという気がします。
その後は、アカーでも法律相談を受けて弁護士に紹介している事件は年に何件かありますが、裁判に至ったものでも、それぞれで、判決まで至らず和解になって終了しています。
法体系の中の性的指向という話なのですが、無視から意識化へということで、日本の場合、同性愛者が社会の中にいるという前提条件がなかったので、日本の法体系というのは基本的に同性愛者がいるという前提にはなっていないのです。ですので、いくつかの問題を見るときには、必ず男女間の問題として取り扱われる。男女間の問題なので、同性愛、同性間の問題はここでは考えていませんという問題は必ず起ってきます。
ストーカー規制法という法律がありますが、こちらは珍しく男女間に限定されなかったのです。それは男性から女性に対してのストーカーだけではなく、女性から男性に対するストーカーもあるからということで、あまり限定を加えなかったのだと思うのですが、同性間でも恋愛感情のもつれからストーカー化する場合というのもあるのです。そうすると、法の建前から言えば、基本的にはそれが同性間の問題でもストーカーとして受けとめられる問題として扱わなければならいのですが、現場で必ずしもそのような認識がされていないことが時々ありまして、ストーカーだと思って警察に相談に行ったら、いや、それは男女間の問題だからと言われて相手にされなかったという相談を受けることがあるのです。それは誤解だからきちんと話をして、警察の人に話を聞いてもらったほうがいいということでアドバイスはするのですが、そういう意味で、あくまでも異性間の問題、恋愛の問題も異性間の問題という意識というのはある程度下敷きにされているのではないかなと思います。必ずしもストーカーの問題を同性間だからむげに扱っているというわけではないのですが、そういう意識というのは基本的にはあろうかと思います。
それから、セクシュアル・ハラスメントに関しても、最初のころは男性から女性という形が基本的な問題になっていたのですが、同性間といいますか、同性愛者に対するセクシュアル・ハラスメントというのも、基本的には起り得るわけです。それは環境的なものもあるかもしれませんし、あとは、いわゆるハラスメントを超えて強制わいせつなのではないのかというレベルのものまで含めて、基本的には同性間でも異性間でも問題としては起り得ます。
男女雇用機会均等法の改正により、同性間のセクシュアル・ハラスメントについても取り上げられるようになりましたが、改正前から、企業や大学などでガイドラインをつくって公表している中に、同性間であっても異性間のセクシュアル・ハラスメントと同じであるという一文を加えていたものはいくつかありましたので、たぶん現場の取り組みのほうが先行して、それで法改正の中でも同性間の問題を意識するようになったのかなと思っています。
ただ、それが一般的に広がっているのかというと、必ずしもそうではありません。例として1つ見てもらいたいのは、お手元の資料10ページの真ん中に、石原慎太郎都知事の発言がございます。とりあえず石原さんの発言はいいのですが、その下に福士敬子都議会議員からの質問というのがありまして、「青少年条例は、知事答弁を避けられました。都小P協の要請時、知事が、テレビに同性愛者が平気で出ると発言されたとの報道がありました。条例案を勘違いされていませんか、伺います。発言の趣旨はどんな思いでおっしゃったのか、お答えいただきたいというふうに思います。」という質問に対して、青少年・治安対策本部長が、「本条例案の性交等につきまして、同性か異性であるのかということについて何ら変わりはございません」と言って、青少年保護条例で同性間も異性間も引っかけるよと答えているのです。ところが、東京都青少年の健全な育成に関する条例の第18条の3というのがございまして、「保護者及び青少年の育成にかかわる者は、異性との交友が相互の豊かな人格のかん養に資することを伝える(後略)」と書いてありまして、基本的に、これは異性愛者の青少年の健全育成の問題なのですよということを条例の条項の中で言っているわけです。ですので、まだまだ異性間の問題というのが中心、あるいはこれがスタンダードになっていて、同性間の問題も扱うべきだという考えが広まっているかというと、それはまだまだと感じるところです。
ただ、やはり重点政策として性的指向の問題を取り扱わなければならないのではないかという考え方は、ある程度浸透してきている部分もありますので、行政機関の中でそういった取り組みをしようという動きは、いくつかあるかと思います。
1つが、人権擁護法案が考えられてから10年ぐらい置き去りにされていますが、人権委員会設置法案というものがございまして、今年の8月ぐらいに閣議決定されて国会に上程しようかというのに、国会が開かれないので上程することというのができないという法案があるのですが、こちらの中に性的指向についての記述が載っています。お手元の資料に人権委員会設置法案とありますが、その第2条の2項には、「何人も人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病または性的指向についての共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として政治的、経済的、または社会的関係における不当な差別的取り扱いすることを助長し、又は誘発する目的で、当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を文書の頒布、掲示その他これらに類する方法で公然と摘示する行為をしてはならない。」と書かれています。人権擁護法案のほうでは、中心的な差別問題の解決課題の1つとして性的指向が載ってはいたのですが、人権委員会設置法案についてもだいぶ縮小された形で記載はされておりますが、とりあえず法務省としては性的指向についても取り上げたいという意識は定着しつつあるのかなと思っております。
又、法務省の人権教育・啓発に関する基本計画でも「各人権課題に対する取組」の中の「(13)その他」の中に、同性愛者への差別といった性的指向にかかわる問題も取り上げましょうと書かれています。
それから、この前出た平成24年度の人権教育・啓発白書の中にも、性的指向が取り上げられ、それを理由とする偏見差別をなくし、理解を深めるための啓発活動というのを行いましたということが書かれています。ただ、具体的に、じゃ、どういう取り組みをしたのかということに関しては、白書では概略しか分かりませんが、どういう問題があって、どういう対策をとるべきかということはさまざまな試行錯誤を重ねている段階なのかなという感想は持っています。
それから、これもつい最近出た自殺総合対策大綱なのですが、これは性的指向ではなくて、性的マイノリティ等と書かれていますが、自殺総合対策大綱では「こうした連携の取り組みは(中略)自殺の要因となり得る生活困窮、児童虐待、性暴力被害、ひきこもり、性的マイノリティ等、関連の分野においても同様の連携の取組が展開されている」と書かれています。一応、性的マイノリティに関しては、自殺に関しても危険因子の原因になる可能性が高いので、対策を立てましょう、あるいはそういうところに対策をとっていきましょうという意識が少し出てきております。
これは非常に熱心にこの問題に取り組んでいらっしゃった方の話ですが、議員等に要請に行くと、「これまで同性愛者からこういう問題があるのですという要求がなかなかない。だから、逆に自分たちは状況がわからなくてそういう問題に取り組めないのだ」ということをおっしゃられるということでした。ですので、そういう意味でいうと、当事者の取り組みというのも重要にはなるのですが、社会の意識の中に、そうしたものを取り上げていく必要があるのだという意識を醸成していくことも必要だと思います。
ただ、実際問題として、自殺された方のうち、どのくらいの割合が自分の性的指向や性自認の問題を原因として自殺なさったかはほとんどわからないのです。原因となる遺書などはほとんどないですし、同性愛である、あるいはトランスセクシュアルであるということを表に出せない状態で悩んでいる方というのは、実際には遺書にもそんなことは書けないわけです。そうすると、それが原因だったのかどうかということがよくわからないという部分もあります。ですので、必ずしも明確な数字として自殺された方の原因として性的アイデンティティがどの程度関わっていたのかというのは、今の日本ではわかりようがないのですが、大綱に盛り込まれるに当たって大きな影響があったと思われるデータの一つとしては、HIV・エイズに関する予防啓発の研究をされている人の中で、日高庸晴さんという方がいらっしゃるのですが、その方がインターネットを通じたアンケートをとって、自殺を考えたことがありますか、自殺を試みたことがありますかという質問をしているのです。異性愛者の青少年などに比べて、同性愛者が自殺を考えたり自殺を試みた割合は数倍になる、5、6倍になるという研究をされているのがありまして、そういう意味では、自分がそれを表に出せないために思い悩んでいる割合というのは結構な数かなと思います。要は青少年の思春期の悩みという以上の問題があるのではないのかというのは否定できないかと思います。
あと、アメリカの統計で、青少年の自殺者のうち、同性愛者、あるいは性的な問題に悩んで自殺した人の割合というのはかなりの割合になると、それは異性愛者の自殺よりも高いという研究を出しているところもありますので、この辺は今後ともさらに考えていく必要があるかと思います。
また、都城市男女平等参画社会づくり条例というものがありまして、これは最初は、条文の中に「性別または性的指向」というのを入れて男女共同参画社会づくりのためにさまざまな手だてを打ちますという条例だったのですが、改正されるときにパブリック・コメントをとって、意見を集約した結果、性的指向というのを外してしまいました。そのコメントと理由が「条例改正に関するパブリック・コメント」と「市の考え方」というところに書かれているのですが、都城市としては「すべての人」という形にしたら、その中に性的指向にかかわる問題も含まれるので、それで対策をとりますという形で条例を改正してしまったわけです。
これは考え方の問題なのですが、私としては、いわゆる性的指向の問題というのは極めて新しい問題で、人権問題だという認識自体も一般化していませんので、そういう問題の認知度を高める上で明示したほうがいいのではないかと思うのです。書いてあるほうが具体的にこういう対策をとりますということもやりやすいのではないかなというのが私の考えです。
ただ一方で、包括的に書いていったほうが新しい問題をやるときに、何かやりますという前の段階で反対論が出てきて潰されることを防ぐためには、むしろ新しい問題も包括的な中に含まれているのだから当然やります。反対が出てきたら、全ての人の問題なのでこれをやりますと言えばいい、そのほうが効果的なのですという選択があるのでしたら、それはそれで一つの考え方なのかなとは思うのですが、その辺はどのような形でやっていくのが一番、人権啓発にしろ、あるいは人権保障の面でいいのかというのは、少し考える必要性があると思います。
都城市以外のところでもそうなのですが、性的指向や性自認という用語が必ずしも入っていないのです。性的マイノリティというと、性的指向の問題も性自認の問題も含まれるので、いわゆる性同一性障害と言われる方も入りますし、実際には手術まではしなくてもいいけれども、自分は今のジェンダーと違う役割を演じたいという考えのトランスセクシュアルとかトランスジェンダーという方たちですね、そうした人たちの問題も含まれるのですが、できれば性的指向や性自認という用語を使って、対象を明確にした方が望ましいと私は思いますが、一方、問題が限定されてしまうのではないかとか、あるいはもう少し広がりがあるのではないかという考え方で、性的マイノリティという言葉を使う場合もあるのかなとも思いますので、この辺もどの用語が最も啓発、教育、人権保障に適切かというのはもう少し議論があってもいいのかなと思います。
国際人権における性的指向ということで、一応、国際社会の中で性的指向の問題については、性的指向及び性自認という形でペアになっています。人権理事会という国連の条約機関ではなくて、国連総会のほうの機関ですが、そのUPR(普遍的定期審査)のために日本が最初に報告を出したとき、カナダから、性的指向及び性別に基づく差別を撤廃するための措置を講じることを勧告されています。日本は、その勧告を受け入れてフォローアップします、要するに対策をとって、それを報告しますということを約束したのです。その結果、つい最近出されたものなのですが、UPRフォローアップ報告という中で、性的指向及び性同一性に基づく差別を撤廃するための措置として以下のことをしましたと書かれました。前半は性同一性障害の性別の取り扱いに関する特例法に関する説明で、こうやって性別の変更ができるようになりましたと、さらに議論を重ねて条件も緩和しましたということを言っています。もう一つは、国連総会で採択された性的指向に関する宣言でコアグループの一員として署名を行っています。これは何度か国連の総会の中で出てきている動き、提案されている宣言なのですが、日本がそのとき初めて、コアグループ、要はその宣言を自分たちがしますというグループの中に入っていたわけです。それがたぶん初めてになるのではないかと思います。一応、男女共同参画基本計画においてもこの問題に取り組みますということで、さまざまな活動をしておりますが、一応、国際社会に対して、日本はそうした問題を取り扱っています、こうやって成果を上げておりますということで、国際公約になっています。
もう一つ、自由権規約委員会の最終見解というものがありまして、ここでは日本で同性愛の問題について取り上げなさいという勧告が出されています。内容的には、要はカップルの問題なのですが、男女の間は内縁や事実婚という形で、いわゆる法律婚をとっていないカップルに対しても、一定の結婚に近いような形で一定の権利を保障する政策というものがあるのですが、同性間の場合についてはそれがないではないかと、それは性的指向に関する差別の問題なので人権保障の問題としては不十分である、きちんと対策をとるようにという勧告があったのです。
たぶん、同性婚を認めるかどうかについていえば、いまだ国際人権機関でもそれはそれぞれの国内で検討すべきことであるから、一概にそれが国際人権として認められるべきだというところまでいってはいないのですが、基本的には事実上のカップルに関して異性間に保障されているものについては、同性間にも保障するのが常道であり人権保障であるというところぐらいまでは今、国際人権の基本的な流れは来ていると思います。
ですので、日本でもそうした取り組みについて、手だてをどこかで打っていく必要がそろそろ出てくるのではないかと思います。
事実上の問題として言うと、例えば医療機関などで本人の意思の確認ができないときに、治療を継続しますかという相談をされたとき、普通は法律上の家族、親族になるのですが、場合によっては同性間のパートナーとして、いわゆる事実上の婚姻状態にある人に対しては、それも意見を聞くべきではないかと思います。あるいは、そういうことを排除すべきではないという考え方は、厚生労働省は示しています。
あと、よく言われるのが、公営住宅に関して事実婚のカップルは入れるが、同性間で事実婚は認められていないので、同性カップルは入ることはできないということです。この辺も、では、それも事実婚として認めますので、その場合にはこういう書類を出して、あなたたちが同性間の事実婚カップルとして成立しているということを示してくださいという形で、公営住宅への入居を認めるかという問題があるかと思います。UR都市機構のように他人同士でも共同で借りていいよという形(ハウスシェアリング)にしてしまうと、カミングアウトの問題は回避されるのですが、公営住宅に誰を入れるのかということを考えるときに、カミングアウトを必要とする形にするべきなのか、それともそうではなくて、もう少し幅広く誰でも使えるような形にするほうがいいのかというのは考えていってもいいのかなと思います。
あと、同性愛容認反対論、国際社会の中には、同性婚も含めてですが、同性愛の権利を認めるのはいかがなものかという勢力が一定あります。そうした勢力としてはバチカンやイスラム圏がありますが、それは必ずしも宗教的な問題だけではないと思うのです。むしろ異性愛社会を保っていくために宗教が利用されているというレベルの話であって、必ずしも宗教がそれを禁止しているからだめなのだという問題ではないのではないかというのは頭の隅に置いておいてもいいのではないかなと思います。
なぜこんなことを言うかといいますと、日本では、宗教的な縛りがないから同性愛容認でいけるのではないか、同性婚がすぐに成立するのではないのかと思われるかもしれないのですが、選択的夫婦別姓というレベルの話であっても、それだけで家族の崩壊、家族の一体感の喪失と言ってしまう人たちもいるわけです。基本的にはそれは異性愛社会の維持であって、かつ伝統的な家族間の関係を守りたい、そういう人たちにとってみれば、背景が宗教なのか伝統なのかあまり関係ないわけです。そういう人たちを説得しないと、実際問題としては、制度改革は進まないというところがありますので、必ずしも宗教的な問題だけが同性愛を抑圧しているわけでないのです。
国際社会の中で、一応、国連でも性的指向と、それから性自認の問題に関して人権問題として取り扱うべきだということが去年から急激に進みまして、去年の国連の総会で国連人権高等弁務官に対して報告書を作成しろという決議を出し、その報告書は昨年の末に発表されています。そのパンフレットができましたというのを公益財団法人人権教育啓発推進センターのホームページで見ました。出たんだと思ったのですが、基本的には全部英語なわけです。そうすると、何とか翻訳が出ないかなと、人権教育啓発推進センターは出してくれないのかとか、そういうことも思ったりしました。確かに、国際社会では言語の壁というものが1つ出てきます。ですので、日本の場合、英語で書かれていると、それは外国の問題で日本とは関係ありませんとすぐに片づけてしまうという、人権問題を考える上では言語も一つの壁になっているのかなと思います。言語的な障壁の問題はありますが、一応、国際社会の中では既に流れとしては性的指向と性自認の問題は、人権問題として取り上げていく方向にはあります。
次に、人権としての性的指向を考えるためにということで、カミングアウトの問題があるのですが、広辞苑の第6版にカミングアウトという項目が初めて書かれまして、そこに説明が出ているので、ちょっと取り上げてみました。きちんと語源を示してカミングアウトは、クロゼット(押入れ)から出てくるから来ていることを説明し、同性愛者が隠していた性的指向を表明すること、みずからが少数派に属することを公表すること、転じて告白することとなっています。広辞苑も第2版ぐらいまで、同性愛に関して性的異常という説明をしていました。アカーから、それは現代ではそのように認識はされていませんよということで要請をして、第3版か第4版から定義が変わり、「異常」というのが抜かれました。それから考えると、国語辞典という限界のある中では、カミングアウトについては、非常にいい説明をしてくれたのかなと思います。特に、同性愛者が自分の性的指向について明らかにすることという語源の問題をきちんと取り入れてくれているということを、私は非常に高く評価しています。
ただ一方で問題もありまして、別に辞書が悪いわけではないのですが、日本でカミングアウトといったときに、何か秘密を告白することのようなイメージで捉えられている状況というのがたぶんにあるため、国語辞典でもこういう表記になったりするのです。ですので、単に秘密を告白することだけだとすると、自分はこんなことを隠していて申し訳ございませんと、今後は世の中の風紀に従いますというような方向にすぐにつながってしまいかねないので、カミングアウトという問題を考えるときには、もう少し自分のアイデンティティとかかわっているのだという部分を強調して考えてもらえたらいいかなと私は思っています。
というのは、カミングアウトというのは表明すること、公表することと書いてあるのですが、カミングアウトするためには、まず自分がそれを受け入れないとできない、自己受容の問題があるのです。自分は同性愛者であるといって社会からはこれだけ否定的な情報も与えられるのだということも含めた上で、自分の性的指向を自分が受け入れる、自分で受け入れて初めて、それに基づいて誰かと関係を結ぶということができるようになるので、表明とか公表の前に一回自己受容の問題としてカミングアウトする。自分に対するカミングアウトという問題が入ってくるのです。その上で外に向けてカミングアウトして、自分は同性愛者です。だからあなたには同性愛者として扱ってもらいたいし、同性愛者としてあなたとお付き合いしたいのですと、そういう意味合いも含めて言うわけです。そうすると受け取った側も、それはそれで新しいことを受け入れなくてはいけないので大変なのですが、カミングアウトを1回だけしてそれで終わりではなくて、常に何度も繰り返して相手からの反応を見てフィードバックされて、さらに、それでは今度はこういう形でということで、さらにカミングアウトも変わっていくのです。ですので、カミングアウトとしては3段階ありまして、1つは、自分に対してカミングアウトする、次に外に対してカミングアウトする、最終的にはカミングアウトを継続して関係性を変えていく、この3段階があるのですが、こうした問題に関して、いわゆる公表というだけではないのですが、秘密を単に話したというだけではないというところは理解していただければなと思います。
権利としてのカミングアウトというところなのですが、自分の性的指向、セクシュアルオリエンテーションというのは、プライバシーとしての側面も持っていますので、言う言わないというのは本人の選択にかかわるというのが1つの考え方です。これは例えば誰かに対してはカミングアウトするのですが、他のこの人に対してはしていませんという場合には、やはりしていない部分についての尊重もしなければいけないというところはあります。ただ、その側面だけを強調すると、今までカミングアウトするという基本的な文化がないですし、同性愛者の場合、外から見ていて同性愛者だと普通はわからないわけです。ですので、異性愛者のふりをして生活することはいくらでもできてしまうわけです。そうするとプライバシーの問題というと、ああ、これだけ大変な状況にあるのだから、もう言いたくないという意識が広まってしまう部分も多分にあるのです。ですので、もう1つの側面として、カミングアウトというのは表現の自由の問題なのだという側面も捉えていいのかなと思います。カミングアウトをしろという情報は、本人の選択、意思決定という問題を抑圧してしまいますが、あなたにはそう言って人間関係をつくる権利があります、ですので、例えばそれに対してさまざまな抑圧がされる、あるいは差別が返ってくるようなことがあれば、そういうときには自分の身を守るために、こういうことはできます、あるいはこういう援助をすることができるという形で、カミングアウトという問題に表現の自由の観点も含めて、教育したり啓発したりということが一定程度必要なのかなというのは思います。
【補足】
人権教育・啓発を行う際に、差別や人権侵害を止めましょう、というのも一つの方法ですが、あなたには、権利があります、それを主張したり行使したりする自由があります、と伝えることももう一つの方法です。後者の方法は、人権意識が浸透していない場合には、権利ばかり主張して義務を果たさない(利己主義である)とか義務を果たさずに自由ばかり主張するなどという非難を受けることがありますが、そうした非難は、人権という観点から考えた場合、議論が転倒しているのであって、まず、権利や自由があり、それらを侵害しない義務が発生し、十分な情報と選択肢のもとに権利や自由の行使がなされることによって責任が生ずるのです。
カミングアウトに関していえば、それを行使すべきか否かについて十分な選択肢が用意されているのであろうか、ということを考える必要があります。構造的な差別がある場合、差別と受け取られる行為をする側は、それを差別だという意識がない場合がほとんどだと思いますが、そのような状況で、カミングアウトをする/しない自由がありますよとだけいわれても、カミングアウトをする自由を行使するためには、個人の力だけでは対処しきれない様々な不利益を受ける可能性があるとしたら、それを乗り越えてまでカミングアウトをするという動機は、なかなか育たないと思います。そのような観点からは、カミングアウトをする/しないという自由が実質的に行使できるような環境整備やカミングアウトを受けとめる側にとって有用な情報の提供をするということも、人権啓発・教育の1つのあり方だと思います。
多様性の問題は、ざっと言いますが、基本的には企業中心という穿った考え方ではあるのですが、企業が、自分のところはこれだけたくさんの人たち、あるいはさまざまな問題に関して興味を持って、さらにそれを支援していますというのは結構イメージアップになるのです。ベネトンなんかはかなりそういう意味では意識的な戦略をしているのかなと思いますが、もう1つ、隠れた需要を発掘すると経済的な利益にもなるということで、特に欧米で言われたのは、男性同性愛者というのは基本的に子どもをつくらないので、そうすると2人で生活している場合に、普通に男女の家族よりも自分たちが処分できる金銭が多額であると、だから大きな需要になるのだということです。経済効果はこんなにありますよという話もされて、日本でも最近、『ダイヤモンド』や『東洋経済』で記事にされています。そういう観点から同性愛の問題を取り上げた企業が出たりしていましたが、これはある程度積極的な一面で、必ずしもそれだけではない問題が多分にあるわけです。
では、男性同性愛者2人の場合は、可処分所得が大きいかもしれないのですが、女性同性愛者の場合はどうなるのか。日本の場合は、男女の平均的な賃金の格差が、女性のほうが男性の6割ぐらいだと言われています。そうすると、女性同性愛者のほうは経済的な価値が低いからあまり目を向けなくていいのかとどうしてもなってしまう。そういうところも考えると、メリットもあるということは確かに言われるのですが、場合によっては抜け落ちたりする部分も出てきます。当然、抜け落ちた部分に対する目配りが足りなくなったり、あるいは一定の属性に基づいてグループ化してしまうと、ゲットーのようなもので閉じ込められてしまうような形になって、同性愛者も階層化さればらばらになってしまうという危険性もないとは言えないわけです。
ただ、ある意味で、フレンドリーであるということを言うことは、それなりにメリットがあるわけです。関西レインボーパレードという大阪で行われる性的マイノリティを中心にしたパレードがあるのですが、これは大阪が考えている共生社会と考え方が合致しているので、応援しますということを大阪府知事の松井一郎さんと、それから大阪市長の橋下徹さんがおっしゃってくださっており、私たちは性的問題とか性的指向の問題に取り組んで扱いますということを高々と宣言されています。東京都も一応宣言はしているのですが、何しろ知事が知事なので、必ずしもそういう問題を扱いますというところまではいっていないのかなと思います。ただ、大阪はこれだけ先進的なところですよということを発信すると、欧米の比較的先進的な部分に関しては、イメージがいいでしょうという部分はあるかと思います。
都知事の石原慎太郎さんの発言についての話なのですが、青少年保護条例にかかわって出てきた話で、同性愛の問題を規制するかどうかという改正の問題ではなかったのですが、漫画などに対する改正に関して、陳情を受けた石原さんが何を言ったかというと、「子どもだけじゃなくて、テレビなんかも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」という発言をしております。これを聞きつけた毎日新聞の記者の方がさらに石原さんに対して質問した結果、「(同性愛者というのは)どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティで気の毒ですよ」。「(米・サンフランシスコを視察した際の記憶として)ゲイのパレードも見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアがあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」という発言をされました。
この発言に関しては、非常に差別的だということで、さまざまな抗議の声があるのですが、もし、石原慎太郎さんが単なる作家で都知事じゃなかったら、「足りないのは、あなたの知性、品性でしょう」と言って、反論して終わりという部分もあるのですが、それはあくまでも多様性というレベルでいえば、そういう差別思想を持っている人も多様性の一部だよねという話なのですが、石原さんは都知事ですので、都知事がそういう考え方を持っていると政策に反映されるのではないかという懸念が出てきます。それが政策に反映されると、それは多様性を抑圧する方向に働くので、大きな問題として考えるべきであるというのが1つあります。
なぜ多様性が必要なのかということなのですが、多様性はなぜ必要かというよりも、もともと多様なわけです。個人個人も違えば、さまざまな集団の中での考え方も違うということで、もともと多様な中にあるものをどうやって統一感を持たせながら、さらにその中でさまざまな意見が出るように活力を持たせるかというのを考えなくてはいけないということが、むしろ問題の考え方として必要なのであって、多様性があるものをどうやって保持していくかということだと思うのですが、そのときに、たぶん大きな話でいうと、欧米の人権政策として多様化を求めるやり方に2つの方法があって、それがちょっと行き詰まりを見せている部分があるのかなと思います。1つの方向性は、それぞれの特性ごとに人種とか民族とか、あるいは性的指向とかに基づいてそれぞれの集団をつくって、その集団がたくさんあることがいいのだという考え方。そこでは、特定の属性をもつ者同士が集まって、それぞれの利益を主張していくことで多様性を確保していこうとしながら、集団同士の交流が途切れたり、基礎的な資源の配分についてある格差が固定されたままになっていたり、或いは、経済的パイが十分に大きくならずに利益の分配に限界が来るなどして行き詰まりが出てきているのかなと、それを打開しなくてはいけないのだろうなというのが1つです。
もう1つ、たぶん、欧米の思想の中で、フランスがやっぱり特徴的かと思うのですが、特定の属性にかかわらず公的な場では市民である。だからその中に性別とか民族とか宗教とか性的指向とか、そういうのを持ち込んじゃいかん、全部市民なのだ、だから市民として全員行動しなくてはいけないのだが、その中にさまざまに含まれている問題については、市民としての立場で全て扱いましょうという1つの行き方があります。ただ、それに対して、市民にどうしても同化できない部分、あるいは市民という考え方自体が特定の属性に基づくもともとの力を持っていた勢力の考え方でくくられている概念だとすると、そこになじめない人たちというのがどうしても出てくると思います。そこにやっぱり齟齬が出てきてしまいます。それも何らかの形で修正しなくてはいけないのではないかということで、たぶんこれも行き詰まりを見せているのかなと思います。
では日本はどうするのという話なのですが、あまりにも話が大き過ぎて、私もこれが正解ですというのを持っているわけではありません。でも、皆さんと考えていければなとは思いますが、1つは、コミュニケーションの機会を確保するということが重要なのではないかと思います。コミュニケーションするための手段は、言語だけではなくて、ボディランゲージ、それからさまざまな表現の読み取りの方法、そういったものを通じてお互いに自分たちの考えていることに対して、コミュニケーションできる範囲をできるだけ確保しておく、そうやってコミュニケーションする中でお互いに変化していく、というのは1つの大きな方法なのだろうと思っています。
もう1つは、個人の問題に関して言うと、外部からの情報によって自分の人格を形成することに力を注ぎ過ぎないで、自分の内発的な情動に基づいて出てくる感情というのをどうやって人に伝えていくかという部分も大切にできるような形で、コミュニケーションの1種ではあるのですけれども、人に対して教育をしていくというのが必要なのかなと思っています。
私たちアカーの法律相談事業というのは、1999年から行われていて、年間5、60件、平均してそのぐらいの相談があります。同性愛者の法律問題という中で、現行の日本の法律を使って対処できない問題はそんなに多くはないのです。ただ、それを使うためにはカミングアウトしなくてはいけないし、さまざまな労力を使わなくてはいけないということで、立ちどまってしまうわけです。それに対してこういう解決方法があります、そこから出てくる懸念に対してはこういう形で解決を図りませんか、あなたの今抱えている現状の中でこの問題を解決できる方法は何かありませんかということで相談を受けるのが1つ。
もう1つは、本人が自立できない、もう大変だから誰かにお願いしたいと、第三者にお願いして、それで問題解決してほしいと思いたくなると思うのです。これは同性愛に限らないことだと思うのですが、そういうときに、あなたが一体どうしたいのかということがまず前提になるので、まずそこをきちんと考えて、それをまずしっかりさせてから次に打てる手はどうなのかというふうに考えていきましょうという相談をできるだけ心がけるようにしているという現状があります。その中で、自分で解決できるようになる問題もありますし、一定の法律の専門家、協力してくれる弁護士たちも十数名いるのですが、その人たちにお願いして、合法的な意見に基づいてできるだけ問題解決に向けて積み上げていければなというふうに取り組んでいます。
【質問】 いろいろと教えていただきましてありがとうございました。人権啓発を所管する広島市の部門で働いているものです。広島市の人権啓発ということを行いますときに、例えば子どもですとか、女性ですとか、障害者、高齢者といったことをパンフレットに載せることはできるのですが、なかなか性的指向ですとか、性同一性障害、性自認をとてもわかりやすく簡単に、1ページとか半ページとかにまとめるということがなかなかできないということがありまして、普通の地方自治体として、限られた予算の中でどのように一般の方々の理解を深めていくことができるのかというのが、最近、悩みというか、ありまして、こちらに参加させていただいたのも、どういう方法が効果的だろうかとか、どこか他の自治体でもやっておられる事例とかがおありでしたら、教えていただきたいと思いますし、こういう方法があるのではないですかというのが、もしお考えがございましたら教えていただければと思います。
【柳橋】 予算の制約の問題というのもあるかもしれないのですが、基本的にはこういう問題がありますということで取り上げるだけでも一定の効果はあると思うのです。今まで意識しなかったものの中にこういう問題がありますという中に性的指向あるいは性自認の問題がありますと。法務省が出していた白書なども基本的にはまだ具体的に、特に性的指向においては具体的にそこまで何かできますというところまで進んでいないと思うのです。だからこういう問題がありますと取り上げるだけでも、あ、そうなんだということで、一般の人に認知されるというきかっけにはなると思います。
それから行政機関の場合、特にそういう形でこういうのを取り上げますというふうにやるとすると、当事者が、あ、自分たちの問題を考えてくれるんだと、じゃ、自分たちもこういう形で今後どうするから、行政さんでもどうですかという形で深く接してくる可能性というのもあると思うのです。ですので、最初によくわからないというレベルではなくて、一定の制約の中でなかなか取り上げづらいということであれば、とりあえずこういう問題もありますと一言出すだけでも結構違いがあるのかなとは思います。
そこから先どうやって進めていくかというのは、行政の中だけではなくて、NGO援助というのはよく言われるじゃないですか。NGOなんかもそれぞれの分野によってかなり特殊化している部分もありますが、そういったところとネットワークができてくれば、そうしたところと協力して行政の側でできる範囲、それからNGOで任せる範囲、予算の範囲内でするという話で具体的な政策を進めていくきっかけづくりになるということで、今の段階ではいいのかなと私は思っています。
【質問】 岐阜県のものです。私どもは政策決定の段階で、よくアンケートとか意識調査とかさせていただく場合がございまして、例えば男女共同参画という観点からすれば、どうしても男女という性別を記入していただいて、クロス集計等をとってデータ等を分析するということが行われるわけですけども、不特定多数の方に無作為抽出の上で県民の皆様にアンケートをお願いするといった場合、性別を設問に設けるということは、こういう人権感覚としてどうなのかということがいろいろご意見を、ご指導をいただきたいんですけども。
【柳橋】 1つは、アンケートをとる場合に、無記名の状態で誰が書いたのかわからない状態で、個人が数字的に処理をされるので、特定の問題と個人が特定される形で結びつけられないという形になっていれば、それほど大きな問題ではないのかなとは思うのです。ただ、性的指向な問題との関連で今質問があったと思うのですが、この前同じように性的指向というチェック欄を設けて異性愛、同性愛の方たちにアンケートをしたときに、考えなくてはいけないのは、自分はどうなのだろうというのを考えるのもあるのですが、これをチェックすることによって、何かやっぱり不利益があるのではないかと、やっぱり情報が漏れるのではないかという不安がまずは一番大きいのではないのかなと私は思うのです。ですので、その辺に関して、その問題に関してはこういうふうに取り扱っていますよ、それから外部から資料を見せてほしいと言われたときに関しても、個人が特定になるような形では絶対に見せませんということで、一定の了解を得ておくしかないのではないかと思いますね。あと、実際にはそういう悩んでいる方の中には、うそをチェックしてしまう場合があるようです。ただ、それはなぜかといいますと、自分の中でそれを受け入れられないという状態の場合はどうしようもないのですが、そうではなくて、非常につらいからというのを不安に思っている方に関していえば、そうした問題を取り上げるときには、これだけ慎重に取り扱っていますということが了解されるのであれば、私は問題ないのかなとは思っています。
どうもありがとうございました。