人権に関するデータベース
研修講義資料
「子どもと人権 ~虐待問題を中心に」
- 著者
- 才村 純
- 寄稿日(掲載日)
- 2013/04/01
子どもの権利保障、権利擁護ということが高らかにうたい上げられているわけですが、一方でその対極といいますか、最大の権利侵害である虐待問題、これが非常に深刻化しています。こういった深刻化している虐待問題を通じて、子どもの人権のあり方について考えていきたいと思っています。
ちょうど今11月ですね。私は、襟にオレンジリボンをつけています。もう皆さん、ご承知かと思うのですが、11月は子ども虐待防止月間になっています。官民を挙げて何とか子ども虐待問題を解決していこう、国民の皆さんに関心を持ってもらおうということで、全国的にいろんなイベントが行われています。現在、例えば東京ですと渋谷のハチ公の首にこのオレンジリボンが巻かれています。また、大阪では通天閣も「ストップ!児童虐待」ということで看板を掲げていただいています。
1.子どもとは
本題に入っていきたいと思います。そこで、子どもと人権ということなのですが、そもそも子どもとはどのような存在かということです。これもいろいろな角度から捉えられると思うのですが、今日は1つのたたき台としてここにお示ししています。1つは、やはり子どもは絶対的弱者であるということです。つまり、1人では生きていけない、養育者なしでは生きていけない、非常に弱い存在であるということです。したがって、虐待というものがどうして最大の権利侵害かといいますと、本来、外敵から自分を犠牲にしてでも親というのは我が子を守る。だから、本来自分を庇護、保護してくれるはずの親から非常にひどい攻撃を受ける。これは子どもにとっては二重にショックなわけです。いずれにしても絶対的弱者であるということが1つの特徴です。
次に、そうとはいえ何も親の所有物でも何でもない。独立した人格の持ち主である。つまり権利の主体である、権利を保障されるべき主体である、こういった存在でもあります。
それと、一方で発達途上にある存在です。一個の独立した人格の持ち主ではあるけれども、まだまだいろいろと未熟なところがあって、やはり周りの庇護なしには生きていけない、日々発達し続けている存在です。
それと最後、自己の立場を表明できない存在です。多くの被虐待児童がそうですが、自分がどんなにつらい状況に置かれているのか、なかなか言葉でもって社会に対して訴えることができない、そういった存在であります。
2.子ども観の変遷
いずれにしましても、今は子どもというのはこういう存在であるというのが、ほぼ共通した見方にはなっていると思うのですが、過去、子どもというものをどういう存在として認めていくのか、いろんな揺れがございます。それをここにまとめております。子どもという存在をどのように捉えるか、つまり子ども観の変遷ですね。特に権利との関係では、過去3つの変遷があると言われています。1つは私物的我が子観です。これは最近まで、我が国において一般的に持たれていた子ども観で、文字どおり、子どもというのは親の所有物である、私物である。つまり、子ども自身の権利を認めない子ども観であります。
これは今からいうと随分ひどい子ども観だと思うのですが、では、現在この時代にあって、それが完全に払拭されているかといいますと、残念ながら決してそうではないです。例えば、私は長い間、児童相談所に勤務していたことがあるのですが、やはり近所から通告があって、我々は家庭訪問するわけですね。多くの親は、自分はしつけでやっているのだ、そもそもなぜ他人であるあなた方が自分のところに来るのだ。煮て食おうが、焼いて食おうが、親の勝手じゃないか、余計なことはしないでくれ、門前払いです。そもそも煮て食おうが、焼いて食おうが、親の勝手だというのは、これは明らかに私物的我が子観であります。
ただ、今は少なくとも制度上はそういったことは当然否定されておりまして、1つは子どもを権利の受動的主体としてみなす考え方です。つまり、子どもは未熟な存在であるので、子ども自身が大人のように自ら積極的に権利は行使できない。したがって、大人、とりわけ親が子どもにかわって意思決定をする。それに子どものほうは従うのが当然である。つまり、親とか大人から一方的に与えられる、権利を施される主体として子どもをとらえるものです。そういう意味で受動的主体と呼ばれています。ここに児童福祉法、児童憲章と書いています。児童福祉法は今はちょっと微妙なのですが、当初できたときは明らかに権利の受動的主体として子どもを見ていました。例えば第1条、子どもは愛護されるとか、教育の機会を与えられるとか、全て「られる、られる」という受け身の表現をとっています。それを見ても、やはりこういった児童福祉法、児童憲章もそうなのですが、子どもを権利の受動的主体として見ている、そういうあらわれと考えられます。
ただ、確かに子どもは権利のある存在なのだと認めているんですが、権利の受動的主体としての子ども観の最大の問題というのは、親の意思決定、親の行動が必ずしも子どもの利益につながっていないということです。その典型が虐待だと考えられます。虐待する多くの親は、何も我が子を憎くてやっているわけではないです。多くの親はほんとうに我が子によかれとして一生懸命やっているんです。しかし、そのことがやはり子どもに取り返しのつかない心の傷とか、体の傷を与えてしまっているということがあります。そこが権利の受動的主体としての子ども観の限界と言われています。
そこで(3)権利の能動的主体。先ほど申し上げましたが、1994(平成6)年に我が国も国連の条約を批准しています。この条約の最大の特徴は、一部の権利ではありますけれども、大人と同様、同等に自ら能動的に、つまり積極的に子ども自身が権利を行使していくことを認めている。ここに意見表明権、思想・信条・宗教・集会等の自由と書いています。これらの自由については大人と同様、同等に、子ども自身の積極的な権利行使が認められているということであります。これは1994(平成6)年に批准して、我が国はこれに従わなければならないことになっているわけですね。先ほど申し上げたように、例えば、児童福祉法は権利の受動的主体としての子ども観に立脚している。したがって、子どもの権利条約を批准したことによって、制度上のねじれが生じているわけです。
例えば、児童福祉法では児童相談所が子どもを施設に保護するという場合、これは必ず親の意見を聞かなければいけない。親が反対すると、これは児童相談所の判断で子どもを施設に入れることはできないのです。家庭裁判所のお墨つきがいることになっています。さらには子どもを家庭に帰す場合、事前に必ず親の意見を聞かなければならない。とにかく親の意見を聞かなければならないとされているのです。ところが実際、施設を利用するのは子どもなのです。ところが、どこを見ても子どもの意見を聞かなければいけないという規定はなかったのです。それはやはり、この権利条約の趣旨からしておかしいのではないかということで、1997(平成9)年にやっと児童虐待防止法が改正されて、例えば児童相談所では子どもを施設に入れる場合に、必ず子どもの気持ちを聞かなければならない。また、家庭に帰すときも親と同様に子どもの気持ちを聞かなければいけない。どうしても子どもが施設に行きたくない、家庭に帰っていたくないということであれば、都道府県の児童福祉審議会の意見を聞かなければならない、そういう仕組みが設けられています。大まかに言うと、こういう私物的我が子観から権利の受動的主体としての子ども観へ、さらには権利の能動的主体としての子ども観に変わってきているということであります。
3.子どもの幸せとは
そこで子どもの幸せ、つまり児童福祉は何のためにあるのか。究極はやはり子どもの幸せ、well-beingのためにあると言えます。まさにwell-beingを保障するために児童福祉の営みがあると考えられます。では、well-beingとは何か。直訳すると、wellというのは非常にいいということですよね。beingというのはbe動詞ですから、存在です。だから、いい存在であること。それだけだと何のことかわからない。生き生きと自己実現できている状態です。人間というのは、いろんな可能性を秘めてこの世の中に生まれてきます。いい環境が与えられて、子どもが遺憾なく自分の能力を発揮して生き生き、伸び伸びとしている状態、それをwell-beingと呼んでいます。一言で言うなれば、幸せと言ってもいいかもわかりませんが、幸せというのは非常に曖昧な概念なので、大体生き生きと自己実現できている状態、これを実現することがまさに児童福祉の目的と考えられます。
4.児童相談所における虐待対応件数の推移
ここから児童虐待の問題に入っていきます。グラフは全国の児童相談所に寄せられた虐待相談の件数をあらわしています。厚生労働省が統計をとり始めたのが1990年度、つまり平成2年度です。全国で1,101件の相談が寄せられています。これだけでもかなりの数字なのですが、その後、年々増加の一途をたどっております。ここにありますのは2010年度です。前年度が4万2,664件ですから、大幅に増えています。多分これは、ちょうどこの年に大阪市の西区で3歳のお姉ちゃんと1歳6か月の弟、幼い姉弟が、母親から自宅のマンションに置き去られて餓死してしまうという非常に悲惨な事件がありました。
あのときに近所の人はみんな気づいているのです。「ママ」とか呼んでいる、「あれは母親に放ったらかしにされているのではないか」と近所の人は全部気づいているのですね。ところが、お互いに誰かが通告してくれているだろうということで、結局ふたをあけると誰も通告していなかった。誰もというか、1人だけ、1人の女性がほんとに気にされて、3回にわたって児童相談所に通告しているんです。だけど、それ以外の人は全然通告されなかった。多分、近所の人もそれぞれ通告すれば、児童相談所の動きももう少し変わっていただろう。どうして通告できなかったのかという切り口から、結構マスコミでも大きく取り上げられたのですね。その結果、今までであれば見過ごされていたとか、通告されなかったものが通告されやすくなった。それが最大の要因ではないかと考えられます。
したがって、これはあくまで相談件数ですから、虐待そのものがこれだけ増えているのかとなると疑問なところがあります。やはり、最大の要因は虐待に対する社会の関心、理解、これができてきた。そのために、今までであれば通告も何もなかったものが通告されやすくなった。つまり、顕在化してきたということが最大の要因で、もしそうであれば、相談件数の増加というのはあながち悪いことではないと考えられます。
そうはいいましても、最近虐待についていろんな研究がなされていて、やはり30年前よりも20年前、20年前よりも10年前、時代が最近になるほど虐待そのものも増えているということが実証されています。つまり虐待が増えている。さらに発生した虐待が発見されて通告されやすくなった。この2つが相まって、こういった相談件数の増加となってあらわれていると考えられます。
5.虐待深刻化の社会的背景
虐待がどうして増えているのか。これも話し出すと2時間、3時間かかるのですが、主な要因としてここに2つ掲げています。1つは家庭の孤立化、密室の育児、母子カプセルと書いていますが、要は子育て家庭が地域から孤立してしまっている。これは都市化の影響が大きいと思うのですね。昔であれば、いわゆるコミュニティー、地域共同体というものがあって、お互いに地域住民は支え合ったわけです。必ず近所におせっかいをやくおじさん、おばさんがいて、若い親が子育てのことで悩んでいる、苦しんでいるということであれば、いろいろとおせっかいをやいたわけですね。ところが、今はどんどん都市化が進んで、そういうおせっかいをやく人もない。特にマンションだと、ほんとに隣同士住んでいてもお互いに顔も合わさない。ましてや、若い親が子育てのことで苦しんでいる、悩んでいるということがあっても、知るよしもない。そういう中でどんどん追い詰められていくというのはあると思うのですね。
それともう1つは、子どもへのかかわりの希薄さ。これは少子化の影響が大きいと思うのですが、幼いころから赤ちゃんにかかわる経験を持たない人が非常に増えてきているのです。ある調査、これは10年前の調査ですが、実に母親の56%が自分の赤ちゃんを産むまで、今まで赤ちゃんと密接にかかわったことがない、そういうデータが出ています。多分、今調査をするとその比率はもっと上がっているのではないかと推測されます。いずれにしても、昔は子どものころからいろんな赤ちゃんとのかかわりを通じて、赤ちゃんというものがどういう存在なのか、さらには赤ちゃんへのかかわり方、これを自然に身につけたと思うのですが、そういった機会がどんどん乏しくなってしまっている。自分の赤ちゃんを産んで関わっていると、非常に戸惑いが出てくる。そのときに日常的に実家とか近隣の応援が得られる人はいいのですが、そうでなければどんどん追い詰められていく。こういったことが、虐待が深刻化している社会的な背景として考えられるのではないかと思います。
6.虐待とは何か
そこでちょっと話は変わりますが、そもそも虐待とは何かということです。この一番最初の項目、これは厚生労働省のガイドラインの中で示されている虐待の定義であります。児童の心身の成長・発達に著しく有害な影響を及ぼす養育態度、これが虐待であると定義されています。これは何を言いたいかといいますと、親の事情は一切関係ないということです。幾ら親に愛情があって、我が子によかれとして一生懸命やっていることであっても、結果的に子どもの心身の成長・発達に極めて悪い影響を及ぼしておれば、それは全て虐待ということであります。つまり、黄色で書いていますが、子どもからの視点、子どもがそのことで非常に苦しんでいる、傷ついているということであれば、それは全て虐待ということであります。
7.国の虐待死事案のデータベースから
7番が「国の虐待死事案のデータベース」となっています。いきなり過激な話になってしまいますが、児童虐待防止法では、親の虐待で子どもが死亡する、そういう非常に重大な結果に至った事件が発生すると、どうして子どもを救えなかったのか、やはり失敗事例から学ぶということで、各自治体、さらには国に対して検証する義務を課しています。今から申し上げるのは、国の検証を通じて把握した虐待死事案の特徴です。そこから我々が課題として何を学ぶべきなのか、そういった話をさせていただきたいと思っています。国のほうは社会保障審議会児童部会児童虐待等要保護事例の検証に関する専門委員会、非常に長ったらしい名前ですが、毎年報告を出しています。今から申し上げるのは7次報告で、平成21年度、1年間に発生した虐待死事案です。ちょうど私は、国の検証の専門委員会の委員長をしておりまして、ここ数年ずっと報告書の取りまとめをしています。そういった立場から、少し申し上げたいと思っています。
グラフは、第1次から第7次までの虐待死児童数の推移をあらわしています。グリーンが狭い意味での虐待です。赤い線がいわゆる心中です。当然心中も虐待とされているのですが、ただ、心中とそれ以外の虐待とでは少し性格といいますか、発生のメカニズムとか、親の置かれた事情とか、少し違いますので、国のほうはいつも分けて統計をとっています。ちょっと注意しないといけないのは、第1次報告です。これは2003(平成15)年が対象年になっているわけですが、7月から12月までなんですね。だから半年ですから、当然ほかの年に比べるとデータ数は減っています。逆にこの第5次報告、ここは調査期間が1年3か月で、ほかの年に比べると期間が3か月長いのです。だから、当然データ数は多くなっている。これは第5次のときに法律が改正されて、検証義務が課せられたという関係があって、この年だけ1年3か月、変則的になっています。大体ならすと、いわゆる虐待が60件少し、心中もほぼ同じぐらいということで、粗っぽく言いますと年間120~130人の子どもが親の虐待で命を落としている。つまり、3日に1人の命が失われていることになります。
今から申し上げるのは、心中を除いた、いわゆる狭い意味での虐待についてのデータです。亡くなった子どもの年齢です。毎年0歳が4割から5割ぐらいを占めています。3歳以下で全体の4分の3以上を占めている。したがって3歳以下は、とりわけ0歳児については、同じ環境に置かれていてもやはり死亡する、つまり重大な結果に至る危険性が極めて高いということであります。
これが0日・0か月児の死亡です。0日というのは、生まれたその日に命を絶たれてしまう子どもさん、それを0日児と呼んでいます。0か月児は1か月未満の子どもです。1か月未満で命を絶たれてしまった子どもさん、それを0か月児と呼んでいます。これが0日・0か月、だから0か月児の死亡、グリーンの線が実数、人数になります。赤がパーセンテージです。ですから、パーセンテージというのは虐待死全体に占める0日・0か月児の割合です。どういうわけか第6次は突出して多くなっているのです。実に虐待死全体の6割近くが0か月、1か月未満で命を落としているということです。
次にネグレクトの割合です。これは年によってかなり違いがあるのですが、年によっては4割近くがネグレクトが原因で死亡している。つまり栄養が足りないとか、幼い兄弟に留守番をさせていて、火事が起きて子どもたちが焼け死ぬ、こういったものがネグレクトになるわけですが、一般的にネグレクトというのは身体的虐待に比べると死亡するリスクはそんなに高くないように言われたりするのですが、決してそうではないということです。年によっては4割近くが、ネグレクトが原因で死亡している。したがって、ネグレクトも侮れないということであります。
これが直接の死因です。これも毎年そうなのですが、頭部外傷が4割近くです。硬膜下血腫とかいった頭蓋内出血、これが大体毎年4割近くを占めています。あとは頸部絞厄、いわゆる窒息死です。あとは車中放置による熱中症・脱水、毎年夏になると親がパチンコに熱中していて子どもが車の中で死亡するという事件、何件も起きています。
加害の動機です。これを見ていただくと一番多いのが子どもの存在の拒否・否定、さらにはしつけのつもり、泣きやまないことへのいら立ち、こういったものが主な加害動機になっています。ただ、加害動機と亡くなった子どもの年齢を掛け合わせてみると、3つのグループができます。つまり、年齢によって加害動機が変わってきます。子どもの存在の拒否・否定というのは、ほとんどは0日児です。つまり、妊娠期からおなかの赤ちゃんの存在を受けとめることができていない。それで生まれると同時に命を絶ってしまうということで、これはほとんどが0日児です。しつけのつもり、これはやはり2歳以上に集中しています。それと泣きやまないことへのいら立ち、これは0か月児から1歳までです。したがって、子どもの年齢といいますか、月齢と親の加害動機とは密接に関連しているということであります。
次に妊娠期・周産期の問題です。これは複数回答ですが、妊娠期・周産期の問題として、望まない、計画しない妊娠、これが非常に多くなっていて、22.4%。さらに顕著なのは若年妊娠、10代の妊娠、これが全体の14.3%を占めています。この辺から浮かび上がってくる課題としては、やはり必要に応じて妊娠期から支援をしていくということです。現行の制度では、妊娠届を役場に持っていくと、これと引きかえに母子健康手帳が手渡されるわけです。ただ、多くの自治体では事務の人が極めて事務的に母子健康手帳を渡してしまっているのです。そうではなくて、専門職、助産師さんとか保健師さんとかいった人が少し面接をする。そのことで、「ああ、この妊産婦さんはどうも気になるな、おなかの赤ちゃんに対して非常に複雑な思いを持っているな」とかがわかれば、やはり妊娠期から支援していく。10代の妊娠は妊婦さんの年齢を見ればすぐわかるわけですから、そういう場合はハイリスクだということで支援していく。そのことで、少なくとも0日児というのは、かなり減らせるのではないかと考えられます。
それと、これは乳幼児検診の未受診の割合です。3~4か月児健診、1歳6か月児健診、3歳児健診。グリーンが全国平均の未受診率、赤が死亡事例の未受診率です。3~4か月については全国平均のデータがないのですが、これを見ていただくとやはり虐待死では極めて未受診率が高いということです。健診に来ない人にこそ重い虐待が隠れている。だから、健診の未受診者へのフォローをきちっとやっていくことが重要な課題となります。ところが、現状のシステムでは来た人は見てあげるけれども、来なければそれっきりというところが少なくないのです。最近、未受診者のフォローに取り組む自治体も増えてはきましたけれども、全国的に見るとまだ浸透していないということであります。
それと親の心理的・精神的問題です。例えば、養育能力の低さとか、育児不安とか、このあたりは子育て支援です。親の負担軽減を図って、いろいろと支援することでかなり防げると考えられます。
グラフが錯綜して見づらいと思うのですが、関係機関の関与状況です。亡くなった事例について、どの機関がかかわっていたのか。顕著なのはグリーンの線、児童相談所が関与していた、かかわっていながら子どもを救えなかった。第1次報告が50%です。亡くなった子どもの半分は児童相談所がかかわっていたのです。そのことで、児童相談所は何をしているのかということで、社会的批判にさらされてきたというのは周知の事実です。ところが、この後ずっと見ていただくと、減る傾向にはあるのです。第7次報告で少し比率が上がってしまいましたが、大幅に減る傾向にあります。それだけ児童相談所の取り組みが積極的になってきたということは言えると思います。
それに対して、非常に高い比率で推移しているのが黄色の線です。これは関係機関との接点あるも支援の必要性はないと判断していたものです。関係機関がかかわっていた。例えば、保育所に通っていた。保育所が子どもを見ていた。しかし、虐待を見抜けなかった。支援の必要性を見抜けなかった。また、健診で保健師さんが見ていたのだけれども虐待を見抜けなかった。これらが非常に高い比率で推移しています。したがって、やはり人権擁護委員さんも含めて関係機関の方々がいかに虐待に対する、虐待を見抜く感度を高めていくか、そのための研修が非常に重要になってきます。
これは通告の有無です。亡くなった事例についてそれぞれ通告はあったのか、なかったのか。毎年そうなのですが、通告なしというのが8割近く、年によっては9割が通告がなかったということです。したがって、通告さえなされておれば多分8割近くの子どもは命を落とさなくて済んだと思うのです。だから、いかに通告が大事であるかということであります。
以上が、虐待死事例から見たポイントです。
8.虐待防止制度のあらまし
次に制度の話をさせていただきます。虐待が発見されて、児童相談所とか市町村が介入していって支援が行われる、その制度的なあらましについて話をさせていただきます。まず虐待の発見者は、児童相談所か、市町村か、都道府県が設置する福祉事務所、これら3つのいずれかに通告しなければならない。これは我が国にいる全ての人たちに課せられた義務です。いわゆる通告義務というものがあります。ここで括弧して疑いを含むと書いています。疑えば通告できるということです。つまり、確証がなくてもいいことになっています。
児童虐待防止法は2000(平成12)年にできたのですが、当初、どういった子どもについて通告しなければならないとされていたか。それは「虐待を受けた児童」なのです。虐待を受けた児童を発見した者は通告しなければならないという規定だったのです。ところが、虐待を受けた児童だと虐待を受けているのだという確証が要ることになりますよね。ところが、虐待というのは一般的には家庭という密室の中で起きるわけですから、目撃でもしない限り確証を持てないのです。ですから、青あざが絶えないな、これはいつも親に殴られているのではないかとか、食事の時間になるとがつがつ食べる、これは家で十分食べさせてもらっていないのではないか。つまり、子どもの様子から我々は虐待を推測するしかないのです。したがって、確証を求めてしまうと、ほとんどのケースは通告できないことになります。
やはり、それはおかしいのではないかということで、2004(平成16)年に児童虐待防止法が改正されて「虐待を受けた児童」ではなくて、「虐待を受けたと思われる児童」を発見した者は通告しなければならない、「思われる」という4つの文字が入ったんです。ひょっとしてこの子は虐待されているのではないかと思えば、つまり確証がなくても疑えば通告できるというか、通告しなければならないと改正されています。
では、どこに通告するのか。これはどこでもいいのです。どこでもいい。あとは行政機関同士で調整をして、どこが担当するか、そこは話し合いで決めることになっています。なかなか線引きはできないのですが、主に市町村と福祉事務所は兼ねているところが多いですから、大ざっぱな言い方をすると児童相談所か市町村が通告先として位置づけられている。
それでは、児童相談所がどういうケースを持って、どういうケースを市町村でやるか、なかなか線引きが難しいんですが、大まかな言い方をしますと、児童相談所はかなり重いケースです。もう今日、明日にでも、ひょっとして親子を分離しなければいけない。さらには親が全然虐待の事実を認めずに、周りの介入を強く拒否している。こういった場合は、立入調査とか、職権で子どもを保護するとか、そういう法律で定められた権限を行使しないといけないわけですから、そういった権限は児童相談所にしか与えられていないので、そういった対応が必要なケースは児童相談所が扱う。
市町村の最大の強みは、例えば保育サービスとか、健診とか、またいろいろと訪問して相談に乗っていくという子育て支援サービスを提供しているところがあります。市町村はそういう子育て支援サービスを自前で提供しているということですね。別の言い方をしますと、子育て支援サービスの活用で何とか解決できると思われるケースは比較的軽いケースです。重いケースになると、子育て支援サービスだけではうまくいかない。法的な介入も必要だし、カウンセリングとか、いろんな専門的な対応が必要になってきます。いずれにしても、通告先はどちらでもいいということです。
次に、通告を受けて調査までの流れです。通告を受けると安全確認を含めた調査に入ります。児童虐待防止法などで、児童相談所は通告を受けると48時間以内に安全確認を行わなければならない。安全確認の方法は、原則として子どもに会う、つまり目で確認することとされています。子どもがどういう状況に置かれているのか、通告があると2日以内に子どもに会いに行くことになっています。
そこで、例えば学校とか保育園から通告があると、児童相談所は学校とか保育園に行くと子どもに会えるわけです。つまり、子どもの安全確認ができます。しかし、例えば家にいる子どもさんは家庭訪問するしかないんですよね。親がそういう安全確認をスムーズに受け入れてくれれば問題ないわけですが、中には自分は虐待なんかしていない、帰ってくれということで、全然子どもに会わせてくれない。会わせてくれない事例は一層危険なのです。虐待がばれてしまうから会わそうとしない。そういう場合は、立入調査を行うことができることになっています。立入調査では、これを拒んだり、虚偽の答弁、うそを答えた場合は罰則が科せられる。つまり、罰則を科すことで強制力を持たせているのです。
ただ、親が家の中に閉じこもって鍵をかけてしまって、全くあけてくれないという場合があります。ところが、鍵を壊すのは立入調査ではできないのですね。そこで、2007(平成19)年の改正で臨検・捜索の制度が設けられています。これは直接強制力を持つのです。これはいろいろと手順が煩雑なのですが、最終的には裁判所、これは地方裁判所でも、家庭裁判所でも、簡易裁判所でもいいわけですが、裁判所の許可でもって児童相談所は臨検・捜索を行う。臨検ですから、直接強制力をもって家庭に入る。窓ガラスを破るとか、鍵を壊すとかいう形で立ち入って、子どもを探し出して安全確認をする。そういった仕組みも設けられています。
次に調査から一時保護までの流れです。いろいろと安全確認もします。いろんなところからいろんな情報を集めます。それらを踏まえて、ここが一番大事なのですが、リスクアセスメント、つまり危険性の評価ですね。そのケースの危険性・緊急性がどうなのか、ここは非常に難しい判断を迫られるわけです。判断を誤ってしまうと取り返しのつかないことになります。そのために、国のほうもアセスメントシートといいますか、アセスメントを行うためのチェックリストなどのツールをガイドラインの中で示しています。そういったツールを使いながらリスクアセスメントを行って、その結果、危険性・緊急性が高い、もうこれは何とかすぐに親子を分離しないと大変なことになると判断されると、一時保護が行われます。ただ、一時保護は非常に強い権限で、親が反対してもできるのです。親というか、厳密にいうと親権者とか未成年後見人、そういう親が反対しても児童相談所の職権でできる。普通、親が反対しているのに子どもをどこかに連れていくと誘拐罪になるのですが、緊急性、緊急避難措置ということで行政機関の判断で一時保護ができることになっています。
これは、診断から援助方針の決定までの流れです。児童相談所には、児童福祉司とか児童心理司とか医師、一時保護所は子どもを預かっていますから児童指導員とか保育士がいます。こういった専門職を配置しなければならないというのが、児童福祉法等で定められています。それぞれがそれぞれの専門性を背景として、社会診断とか、心理診断とか、医学診断とか、それぞれの見立てを持ち寄って援助方針会議の場で援助方針を決定する。ここには所長とか、相談課長とか、ほかの職員も出席して、児童相談所という行政機関として援助方針を決定することになっています。
援助の内容として、主なものは2つです。1つは在宅指導。これは比較的虐待の程度が軽い場合です。親子分離せずに訪問したり、また来てもらったりして援助をしていく。一方で親子分離、これは虐待の程度が重い。一緒に生活させると取り返しのつかないことになるのではないかと判断された場合は、親子分離です。具体的には、施設入所措置等か里親委託です。「等」というのはグループホームなのですが、主に施設入所か里親委託です。比較的軽くても親が虐待を認めない、そのために全然アプローチできない、援助が成り立たないという場合は、親子分離がとられることもあります。
最後に処理別内訳、通告があったケースについて、どういう援助が行われたか。面接指導というのは、いわゆる在宅指導です。これが8割を占めています。親子分離は9%、1割弱です。だから、通告をすると、何か親が逮捕されて子どもは施設に入れられてしまうのではないか、そういう結果の重大さを考えると通告に二の足を踏んでしまうこともあるかもわかりませんが、実態としては大半のケースは在宅で援助が行われるということであります。
9.虐待防止における市民の役割
ここから、これは皆さん方、県、市町村の立場におられて、日ごろ市民に接しておられる立場にあると思うのですが、そういったところから、虐待防止における市民の役割について、これから最後まで話をさせていただきたいと思います。
まず、市民の役割として、1つは虐待の発生予防です。我が国の虐待対策というのは、事後対策で来たと言わざるを得ないのです。だから、虐待が発生しているという前提で、発生した虐待にどう対応していくのか、これは結構きめ細かく規定されています。また、法改正のたびに制度の完成度は高くなってきています。ところが、問題は虐待は病気と一緒で、やはり未然予防、発生予防が大事なのです。ところが、残念ながら我が国は発生予防という観点からの取り組みが極めて遅れていると言わざるを得ないのです。
それでは、発生予防を図るにはどうすればいいのか。「申請主義の限界とアウトリーチ型支援」と書いています。確かに発生予防するには親が追い詰められないようにすればいいんです。そのためには、いろんな子育て支援サービスを提供していかないといけない。ところが、子育て支援サービスというのはそれなりにかなり充実されつつありますね。少子化対策として、年々子育て支援サービスというのは充実されていることは間違いないです。
ところが、少子化対策としての子育て支援サービスを虐待の未然予防という観点から捉えると、1つ大きな弱点があるんです。それは何かというと、全て申請主義なのですね。つまり、本人がアクションを起こさないといけない。足を運んで、勇気を振り絞って相談に行かないといけないのです。
ところが、考えてみると、もう子育てに追い詰められてしまっている。自分は親の資格はないのだ、親失格だ、自分みたいにひどい親はいないと毎日責め続けている親というのは、いろんなサービスが用意されても自ら積極的にアクセスできないのです。そう考えると、本人はアクションを起こせないわけだから、こちらのほうからアウトリーチ、つまり訪問しておせっかいをやいていく支援が必要なのです。そういう意味で2008(平成20)年の児童福祉法改正で、こんにちは赤ちゃん事業と養育支援訪問事業というのが法定化されています。初めてこういうアウトリーチ型支援が法定化されたということで、非常に画期的なことなのです。
例えば、こんにちは赤ちゃん事業というのは、かなり大がかりな事業で、生後4か月までの赤ちゃんのいる全ての家庭を訪問していこうという事業です。全ての家庭を訪問するわけですから、まさにアウトリーチ型支援の典型になります。これは自治体の実情に合わせて、かなり自由度が高いわけですが、国のひな形からすると、訪問する人というのは基本的にはボランティアです。研修を受けたボランティア。例えば民生委員・児童委員さんとか、愛育班員さんとか、人権擁護委員さんもなり得ますよね。こういった人たちが家庭訪問をする。出産祝い品を届ける。これは市町村のほうで予算化されたりするわけですね。出産祝い品を届けて、「このたびはご出産おめでとうございます。お母さん、体調はいかがでしょうか。赤ちゃんどうですか。私はこのすぐ近くに住んでいる民生委員の何々です。何か困ったことはありませんか。さらにはこれを機会に私、また街であなた方を見かけたら声かけさせてもらうので、私の名前と顔とよく覚えておいてくださいね」ということです。現に街でその若いお母さんを見かけると、「この間はどうも。その後どう?」とかいうことで声かけをする。
どうしてそれをするかというと、いざというときに相談してもらいやすいように顔の見える関係を築くということですね。だから追い詰められたときに、「そういえばあのおばさん、いつも声かけをしてくれている。あのおばさんだと何でも聞いてもらえそうだな。優しそうな人だな。今度顔を合わせたときに一度相談してみようかな」ということになるのです。ところが、顔も見えない、もちろん性格もわからない、ただ困ったときは最寄りの民生委員に相談しましょうといっても、子育て不安を抱える親、虐待している親というのはまず相談しないんですよね。そういう趣旨の事業であります。
養育支援訪問事業というのは、もう少し専門的な支援内容になりますが、例えばお母ちゃんが一生懸命離乳食をつくっている。だけど、子どものほうは全然離乳食を受け入れてくれない。それで母親がパニックになってしまっているということであれば、市から助産師さんとか栄養士さんが派遣されて、何とか問題を解決するまで訪問を重ねる。ポイントは当事者から願い出がなくても、市町村が必要と認めた場合にこういう支援員さんを訪問させるという事業であります。当事者から願い出がなくてもこちらから積極的におせっかいをやいていく、そういう支援が今後ますます重要になっていくだろうと考えられます。
市民の役割としては、今申し上げたこんにちは赤ちゃん事業とか、養育支援訪問事業の担い手になるということが考えられます。養育支援訪問事業というのは、必要とする家庭に必要なサービスを提供することになっていますから、より専門的な知識、技術が要るサービスについては、そういった専門家が派遣されます。ところが、例えば多子家庭、子どもの数が多くて、お母ちゃんは家事もしないといけないし、子どもに振り回されていてパニックになっているということであれば、研修を受けたボランティアの人が訪問して、家事をお手伝いするとか、少し子どもの遊び相手をするとか、そういった部分については市民として担っていけるだろうということです。
それと、2つ目は茨木市「子どもわいわいネットワーク」と書いていますが、これは茨木市には限らないのですが、最近そういう子育てボランティアの活動が非常に活発になってきました。冒頭に申し上げたように、どうしても今のお母さんは部屋の中にこもりがちなのですね。孤立してこもってしまいがち。何とかそういったお母さん、子どもに出てきてもらおう。そのためには、例えば料理教室をするとか、親子でゲームを楽しもうとか、いろんなイベントを企画して、それで出てきてもらって、そこで親同士が友達になる。そういうきっかけをつくろうといった取り組みです。これはどんどん全国的にも広がってきています。そういった子育てボランティアの担い手として、市民の役割があるだろうと考えられます。
ただこの2つ、アウトリーチ型支援の担い手、または子育てボランティアというのは、かなり組織的な動きが必要になってきます。そこで、個人として誰でもできるのは、気軽な声かけですよね。ですから、子育てに追われて子育てがちょっとうまくいかないと、自分は周りから変な目で見られているのではないか、あの人はもうお母さん失格だ。周りの人はそうは思っていないのでしょうけど、当事者からするとそう思い込んでしまいがちなのですね。世の中はどんどん先へ進んでいる。自分たちだけがポツンとそういった動きから取り残されてしまっているのではないか、そういった孤独感といいますか、閉塞感といいますか、そういう感覚を持ちながら子育てを行っている人は多いです。ところが、近所の人が気軽に声かけをしてくれる。「こんにちは」とか、「どこへ行くの?」とか、「子どもさん、かわいい服着てるね」とか、一言言ってもらえるだけで、当事者からすると何か社会とのつながり、接点といいますか、それを見出せる、そういうきっかけになり得るだろうと考えられます。
今3つ申し上げましたけれども、これらは虐待の発生予防における市民の役割です。もう1つ大事なのは、虐待の早期発見と通告です。まず、虐待に気づく必要がある。我々は、「虐待に気づくための3つの不自然」と言っています。親が不自然、子どもが不自然、親子関係が不自然。例えば親が不自然。子どもの状態に関し説明が不自然である。保育園なんかで見ていますと、時々青あざをつくって登園してくる。保育士のほうが気になるから、「あれ? このけがどうしたの」「いや、今日こけて、どこそこで打ったのです。この子はよくこけるんです」という説明を親がしたとします。だけど、保育園で観察しているとその子だけが転びやすいと思えない。たびたびけがをしてくるわけですから、転びやすいはずなのですが、保育園で様子を見ていると別に転びやすくもない。しかも、大体転んでできるところというのは、おでことか関節の出っ張ったところですよね。ところが、背中とか、ふくらはぎとか、首筋とか、そういうところに時々青あざをつくってくる。
つまり、子どもの状態に関し、親の説明が不自然なのです。また、ころころ説明内容が変わるとか、人とのかかわりを避けようとする。こちらは気になるのでちょっと話しかけようとするのだけど、何だかんだといってかかわりを避けようとする。訪問してもなかなか子どもに会わせようとしない。挑発的態度が見られる。転居歴が多い。こういった場合は親が不自然であって、虐待が疑われる。「ひょっとして虐待ではないか」ということで、注意深く見るか、抱え込まずに周りに相談するか、通告するかということになります。
2つ目は、子どもが不自然ということです。攻撃的・乱暴である。すぐほかの子をパチンとたたいたり、かみついたりする。片時ともじっとしていない。身体的接触を極端に嫌う。「お利口ね」と頭をなでてあげると、ぱっと身構えたりする子がいますよね。さらには、べたべた節度なく甘える。初めて会った人には、普通人見知りがあります。ところが、全然人見知りがなくて、べたべた甘えてまとわりついてくる。表情が乏しい。「凍りついた瞳」とか言われます。こういった場合はやはり子どもが不自然であって、虐待が疑われるということであります。
それと、親子関係が不自然。これは親だけを見ていてもわからない。子どもだけを見ていてもわからない。親子を前にして気づく不自然さというのがあります。親の子どもを見る目が鋭い。こちらがびっくりするほど子どもに強い口調で罵声を浴びせかける。よくよく見ているとお互いの視線が全然合わない。子どもへの態度が冷たいなどです。
こういった場合は、虐待が疑われるので通告しなければならない。そこで、そもそも通告とは何かということです。通告は相談と同義である、同じ意味であるということです。だから、何か通告というと通告用紙みたいなものがあって、事実経過を書いて、署名して判子を押してみたいなイメージがありますが、相談と同じですから、もとより通告用紙というのはないのです。したがって、電話でも手紙でも、何でもいいのです。匿名でもいいのです。要は、その子が救われるきっかけをつくってもらえればいいのです。
通告は確証がなくても可能。これは先ほど申し上げたとおりです。通告は親子の人生を救うきっかけです。何か通告というと、どうも密告とか、チクるとか、非常に暗いイメージがありますよね。だけど、決してそうではないんです。密告とかいうのは、密告されたほうはいい迷惑ですよね。ところが、虐待を受けている子どもは地獄の苦しみです。苦しいけれども自分ではどうしようもないんです。周りが救われるきっかけをつくってあげるしかないのですよね。実は、好き好んで我が子を虐待する親はいないんです。虐待せざるを得ないほど精神的にいろいろと追い詰められてしまっているのです。だから親も苦しんでいる。苦しい、いろんなストレスがあって、つい子どもを虐待してしまう。虐待した自分に対して非常にみじめな気持ちになって、それがまたストレスにつながってという悪循環の中で苦しんでいるわけです。ということは、通告は子どもだけではなくて親をも救う、親の人生を救うきっかけでもあるのですね。だから、冷酷な行為ではなくて、チクるとか、密告するといった行為ではなくて、非常に温かい行為だと考えられます。要するに、親子が救われるきっかけをつくるのが通告ということです。
それと、通告者の秘密は守られる。これは児童虐待防止法で児童相談所や市町村などはどこから通告があったか、通告者の秘密を漏らしてはならないという守秘義務が課せられています。これに違反すると罰則が科せられることになっています。しかし、通告者の秘密は守られるのだけれども、それでも心配だという場合は匿名でもいいんですね。それと通告義務は守秘義務に優先する。確かに公務員とか、お医者さんとか、それぞれ秘密を守る義務というのが法律で課せられています。ところが、別の法律では、通告しろとなっています。つまり、法律によって片や口を閉ざせ、片や口を開けとなっていて、矛盾していますよね。そういうことを踏まえて、児童虐待防止法は守秘義務があることを理由に通告をためらってはならない、つまり、守秘義務よりも通告義務が優先するんだということをはっきりと書いています。
通告に際して伝える事柄を書いていますが、これを全部満たすのはまず不可能です。できればこういうことがわかっておれば知らせてもらえるとありがたいという意味です。
そこで、3つの不自然に気づいて、どうも気になるなということであれば、どうすればいいのか。ひとりで抱え込まないというのが鉄則です。これは絶対ひとりで抱え込まないということであります。周囲に相談する。やはり気になるということであれば、児童相談所か市町村に相談というか、通告ですね。
相談、通告は同じであると申し上げましたが、例えば保育園で虐待が疑われる。保育園のほうは、最初は気になるのでお母さんと話し合おうとしたのだけれども、お母さんのほうは何だかんだと言って保育所とのかかわりを避けようとした。ところが、最近やっと少し心を開いて話をしてくれるようになった。また、虐待の事実も打ち明けてくれた。だけど、相変わらず同じようなペースで青あざをつくって登園してくる。保育園としてどうしたらいいのでしょうか。もうそろそろ通告すべきでしょうか。それとも、もうしばらく様子を見ていいのでしょうかということで、市町村なり、児童相談所に相談したとします。だけど、もうその相談というのは既に通告になっているわけです。
つまり相談、通告すべきかどうかについて相談した、そのこと自体が通告義務を果たしたことになるのですね。なぜならば、それを聞いた市町村とか児童相談所というのは、その瞬間、判断の責任が発生するわけです。ですから、様子を見ようとなって、何か不幸な事態が起きれば、当然責任が追及されてくるからです。だから、自分たちは聞いた以上は48時間以内に子どもに会うことになっているので、これから保育園に行きましょうかといって、子どもの安全を確認する、そういう対応というのもありですよね。いずれにしても相談と通告は同じであるということを心に留めておいてほしいと思います。
10.虐待死事例から学ぶ対応のポイント
あとは、虐待死事例から学ぶ対応のポイントですが、この辺はすでに申し上げました。この中で大事なのは、安全確認と関係機関、近隣の協力です。2年前、冒頭に申し上げた大阪市西区の餓死したという事件ですね。あのとき、1人の女性が3回にわたって児童相談所に通告しているのです。その都度、児童相談所は48時間以内に家庭訪問しているのです。ところが、インターホンを鳴らせど全く応答がなかったのです。子どもの安全確認はできなかった。やはり、こういった場合は、管理人さんに簡単に事情を伝えて鍵を開けてもらうべきであったと考えられます。なぜかと言いますと、児童虐待防止法では、児童の安全確認を行うに際しては、関係機関及び近隣住民の協力を得つつ、これを行うということになっているのです。つまり、安全確認を行うには関係機関とか近隣住民の協力を得なさい、そういう規定になっているのです。したがって、これは法律で保障された協力要請であるから、いわゆる守秘義務違反とか個人情報保護法違反とかいうことにはならないのです。そこが、1つポイントです。
それともう1つ、(4)乳幼児の受傷機転不明のけが、受傷機転不明というのは非常に難しい言い方ですが、そのけががどうして起きたかわからない。親による虐待なのか、不慮の事故なのか、なかなかつかめない。そういうケースもよくあるのですね。
ある事例、これは私たちが検証を行った事例なのですけれども、生後5か月の男の子で、硬膜下血腫、頭蓋内出血で亡くなるんですね、5か月でまだ小さいのに。その子は実は2か月の時に右足の骨折で病院に担ぎ込まれるのです。病院のほうは虐待を疑って児童相談所に通告するのです。当然、児童相談所は親に会いますよね。ところが、親のほうは「絶対心当たりがない、帰ってきたらこうなっていた」ということを言い張るわけです。もちろん児童相談所は家庭訪問します。大体家庭訪問すると、親の言っていることが真実なのかどうかについて、結構手がかりがつかめるんですよね。だから親が幾らいいことを言っても、例えば家庭訪問して、全然子どもの年齢に合ったおもちゃが用意されていないとか、生活環境が極端に不潔であるとか、監護状況、親が日ごろ子どもに対してどういう気持ちを持っていて、どういう監護を行っているかというのは、家庭訪問するとかなりわかるのですね。この事例についても、当然、児童相談所は家庭訪問します。ところが、清潔度は保たれているし、育児書もきちんとあるし、ガラガラとか子どもに合ったおもちゃも結構あるのです。だから、児童相談所としては半信半疑ですよね。
そうこうしているうちに、生後4か月のときに、今度は後頭部の複雑骨折で同じ病院に担ぎ込まれるのです。さすがにそのとき、児童相談所は虐待を疑うんですね。短期間にそんな大きなけがというのは普通あり得ないですよね。ところが、親のほうは「絶対していない、帰ってきたらベビーベッドから落ちて、後頭部を打っていたんだ」ということを言い張るわけです。しかし、さすがにもう児童相談所は、「いや、それはちょっと信じ難い」と考えるわけです。しかし、一時保護する決め手がないのですね。親の意に反して、行政処分として職権で子どもを引き離す決め手になる確たる情報がない。そこで苦慮して、児童福祉司指導という行政処分としての指導があるのですけれども、それを決定したのです。ただ、くしくも決定したその日に、その5か月の子は硬膜下血腫で亡くなったのです。
その事案について我々は検証し、どういう報告を出させてもらったかというと、乳幼児の受傷機転不明のけが、特に3つ、頭部、顔面、頸部の受傷機転不明のけがについては、原則として保護を行うということです。その傷が親の虐待によるものでないことが明らかでない限りはということですね。だから、たまたま近所に犬がいて、その犬にかまれていたということがはっきりすれば別ですけれども、少なくとも乳幼児であって、しかもけがをする場所が頭であるか、顔であるか、首であるか、その場合は親が否定しても原則として保護するべしということで、今は国のほうの通知でもこのことが示されています。
それに関連してですが、乳幼児の頭部、顔面、頸部への暴行は、傷の大小にかかわらず極めて危険。普通、親はいたいけな乳幼児の頭とか顔を殴ったりしないですよね。ましてや、ちょっとしたけがであっても、普通けがが残るほど殴るということはあり得ない。それだけでもう親の怒りのコントロールが効いていない証拠ですよね。ということは、いつ大事に至るかわからないということになります。だから、非常に極めてリスクが高いと緊張感を持って受けとめる必要がある。
それと、親の反省の言葉は全く当てにならないです。これは結構あるのです。もう二度としませんと親が言っているから経過を見ることにした。しかし、その晩に殺されている事例が幾つかあるのです。私は、親がうそをついているとは思いたくない。もう二度としたくないという気持ちの表れだと思うのですね。親も虐待して、それで自分自身傷つくわけですから、二度とそういう虐待なんかしたくないという気持ちの表れが、「二度としません」という言葉になって出てくるのだと思うのです。だけど、二度とするまいと思っても、いろいろな複雑な事情から虐待を繰り返してしまうのが虐待の本質なのです。したがって、親の言葉は全く当てにならないということであります。
あとは、見守り。我々は、市町村や保育園、学校などに「見守りをお願いします」ということをよく言います。だけど考えてみると、「見守り」という言葉は非常に曖昧ですよね。これも検証したある事例ですが、保育園に通っていた子で、5歳でその子は亡くなるのですよね。市が主担当機関というか、中心になってそのケースにかかわっていたのです。ところが、市は行政機関ですから、日常的な見守りはできないのです。たまたま保育園に通っていたので、保育園は毎日子どもの様子とか、送り迎えのときの親子の様子を観察できるわけですから、今後、保育園のほうで見守りをお願いします、何かあれば市のほうに連絡してくださいという対応になっていたのです。
その後、その子は亡くなるわけですが、我々、検証すると過去極めて大事な出来事が保育園で3つあったのです。1つは、ささいなことで保育園と親とがトラブルになって、数日間休ませたのです。無断で数日間休ませるというのは非常に大きな出来事なのですね。ところが、保育園からは市のほうに全然連絡がなかったのです。その後も、もう1回同じようなトラブルがあって、無断で休ませたのです。それでも保育園から市のほうに連絡はなかった。きわめつけは転居したのですね、引っ越し。ところが、その転居先がもとの住所とあんまり離れていないものだから、同じ保育園には通っていた。だけど、転居というのは、例えば近所の人から虐待を疑われるとか、近所とのトラブルがあるとか、何かおりづらくなるとか、非常に重要な意味があるのです。これは極めて重要な出来事なのです。だけど連絡はなかった。
何を言いたいかといいますと、見守りという言葉は曖昧だけれども、使わざるを得ない。だけど、見守りを依頼する以上は、まず文書で依頼する。そのときにどういう状況が見られたらどうしてほしいのかということを、文字にして相手に手渡すということですね。それも国のほうの通知で示されています。
最後に、DVと虐待の関係について、簡単に話をして終わらせていただきたいと思います。「子どもへの対応」と「保護者への対応」は、時間の関係もありますし、細かく書いていますので、また後ほどお目通しいただきたいと思います。DV、ドメスティック・バイオレンスも虐待と同様、相談件数が年々増加の一途をたどるなど、非常に深刻化しています。しかし、DVは子どもにとっては虐待以外の何ものでもないのですね。
そこでDV絡みの虐待のパターンを3つ書いています。アは加害者、大体DVの加害者というのは夫が多いですよね。逆の場合もありますけれども、少ない。アのパターンは、夫である加害者が妻である被害者に暴力を振るっている。同時に子どもに対しても暴力を振るっている。つまり、夫が妻と子ども両方に暴力を振るっている。これは、子どもにとっては父親からの虐待ということになります。米印をご覧ください。これは母子生活に入所している方々を対象とした調査結果の一部です。母子生活支援施設調査というのは、DVなどから避難してきて、着のみ着のままで避難して、お金もないし住む家もない、もちろん仕事もない。今後生活をどう立て直したらいいのか、このような課題を抱えた母子の自立を支援する組織です。
父から逃げて施設に入ってきた母子、特に子どもについて、別れたお父ちゃんから暴力を受けていたかどうかという結果の結果の一部を紹介しています。非DV、つまりDVが起きていないケースで、父親から暴力を振るわれていたというのは8.5%にとどまっているのに対して、DVの場合、子どもも暴力を受けていたというのが62.3%となっています。したがって、妻が暴力の被害に遭っている、DVの被害に遭っているということは、相当な確率で子どもも暴力を振るわれているはずだという認識、これが大事になってくると思います。
イのパターンは、これはあくまで加害者である夫は妻にしか暴力を振るわない。直接子どもには暴力を振るわない。ところが、夫から暴力を振るわれるとか、いろいろなストレスをため込んだ妻が子どもに対して暴力を振るう。これは、いわゆる暴力の連鎖と言われています。家族の中の連鎖、より弱い者に暴力が受け継がれていくということです。
ウのパターンは、加害者も被害者も子どもに暴力は振るわない。だけど、子どもはDVを目撃している。これは明らかに虐待なんですよね。DVを目撃させるというのは、子どもにとって虐待。子どもにとって何がつらいかというと、口争いだけでもお父ちゃん、お母ちゃんがけんかすることですよね。ましてや、ひどい暴力を大好きなお母ちゃんがお父ちゃんから振るわれている。それを目撃する。最近いろいろな研究から睡眠障がいとか対人障がいとか摂食障がいとか、いろいろな問題が子どもに出てくることがわかっています。そのために、2004(平成16)年に、児童虐待防止法第2条、これは虐待の定義規定なのですけれども、第2条が改正されて、DVを目撃させるのは心理的虐待に当たるのだという定義がつけ加えられています。
ところで、DVの本質は、被害者の行動、考え方を徹底して支配するところにあります。徹底した支配のもとで被害者は主体性も自尊感情も全て奪われてしまうので、一般的には「あれだけひどい暴力を受けているのにどうして逃げないのだ」ということになるのですが、主体性や自尊感情が奪われているわけですから、逃げることができない。逃げるという発想がない。「このままでは自分はだめになる」ということで、逃げようという行動につながるわけですが、もう完全に支配されているのですから、自尊感情を持ち得ないんですよね。だから、逃げるという発想に至らない。
したがって、対応のポイントとしては、被害者の心情を十分理解するとか、寄り添いながらエンパワメントしていくところにあると言えます。本人の主体的な力量を回復する支援こそ重要になります。奪われた主体性、自尊感情、それが取り戻せるように寄り添いながら援助していくということです。加害者からの強引な引き離し、援助者に全て依存させることは不可と書いています。
私も児童相談所にいたときに、非常に苦い経験があって、DVがあって、あさって何時にどこそこの駅で待っているから、着のみ着のままで子どもさんを連れて来てよといって約束して、福祉事務所の人と一緒に母子生活支援施設に連れていったのです。しかし、もう2日後には夫のもとへ帰っているんですね。それはどうしてかというと、徹底した支配で、夫がかわいそうだとか、罪悪感を持つのです。夫を残してきたとか、自分が家庭を崩壊させてしまったとか、崩壊するのではないかとか、そういう不安から結局もとに戻ってしまっている。このように自分を責めること自体がマインドコントロールされている証拠なのです。したがって、エンパワメント、本人の主体性が回復されないのに、全てこっち側がお膳立てしてもうまくいかないということであります。
それでは、時間が来ましたので、私の話は以上にさせていただきたいと思います。
どうもご清聴ありがとうございました。