人権に関するデータベース
研修講義資料
「犯罪被害者とその家族の人権」
- 著者
- 諸澤 英道
- 寄稿日(掲載日)
- 2013/11/27
本日は「犯罪被害者とその家族の人権」についてお話するわけですが、「犯罪被害者とその家族の人権」というときに、3つのことを考えないといけないと思っています。まず、第一に、そもそも「被害者って何だろう」ということ。そして次に、その「被害者の人権とは何か」ということ。そして最後に「被害者の人権を確かなものにするためには、どうしたらよいのか」ということです。
◆被害者って、どんな人?
早速、本論に入りたいと思います。
まず、被害者とはどんな人かということです。被害者学では、「被害者」とか「犯罪被害者」と言っていますが、今の日本では、「犯罪被害者等」という言い方をよく聞くと思います。通常、この問題は「被害者の人権」と言いますが、日本ではこのような表現をあまり聞きません。日本政府がこの問題に取り組み始めたのは10数年前ですが、日本では司法手続きの中における被害者、つまり法律上の犯罪の被害者に限定していたために、被害者と言っても犯罪の被害者に限定した取組でした。やがて「犯罪被害者」だけではなくて、その周辺に家族や親族がいるし、あるいは支援して被害に巻き込まれた人もいるし、被害者に準じて考えるべき人たちがいるのではないかということから、「等」という言葉を付けるようになり、これが法律の中でも使われるようになってきたという経緯があります。
次に、はっきり押さえておく必要があるのは、「被害者はみんな同じではない」ということと、「被害者はいつも同じではない」ということです。世の中には、なぜか被害者を型にはめて、ステレオタイプで表現しないと納得しない人が多いので、今でも大きな誤解が起こるのですが、被害者をステレオタイプで見ないことが何よりも重要です。
それでは、実際に私が経験したお話をいたします。
従来、日本の被害者は、殺人事件の遺族でさえも、応報感情を持つべきではないと思わされてきました。ですから、長年、人前で「極刑を!」と述べた遺族はいませんでした。
1980年代に死刑廃止運動に取り組んでいる方々が開いた「死刑を考えるシンポジウム」において、被害者遺族として気持ちを語った方も同じでした。その方はご子息を亡くされた御遺族でしたが、壇上で被害者遺族としての気持ちを語り、それが夜のニュースで報道されたのです。
私はそのニュースを見て、大変驚きました。なぜかというと、この御遺族とは2年ぐらい前からお付き合いをしていて、お会いするたびに、ご子息を殺した犯人のことがいかに憎いかということをおっしゃっていたからです。ところが、このシンポジウムで壇上に上がった御遺族は、全く逆のことを話されたのです。「犯人にも、つらい人生があったのだろう。これから立ち直ってもらいたい」と。つまり間接的に死刑である必要はないというニュアンスのことを言ったのです。私は、その時は「ああ、そんなにまで回復したのか」と思いました。当時、私もまだ経験が浅かったので、「遺族って、こんなに早く回復するものなのだ」と思ったわけです。しかし、しばらくたって、この御遺族と会う機会がありました。すると、話は全く逆だったのです。
この御遺族は、加害者を「許す」と言ってしまったことを後悔し、今度は自分を責め始めました。遺された家族が息子を殺した犯人に対して、「許す」と言って良かったのだろうかと。加害者を許すことができるのは、被害者本人であって、殺人等で遺された家族は、そのような立場にないということに気づいたわけです。言った途端に、「死んでいった我が子に申し訳ないことをしてしまった。自分は、本当は息子を愛していなかったのではないか」と、自分を責め始め、ご子息が亡くなった当時より、はるかに不安定な精神状態になってしまったのです。
ここで大切なことは、被害者や御遺族はアンビバレント(二律背反)な気持ちを持っているということです。私たちが被害者を理解するときに、このことをしっかり認識していないといけません。「憎らしい、殺してやりたい」という気持ちと、「いや、相手も人間なのだ。許さなきゃならない」という、この相反する2つの気持ちを共存させている。それが、被害者であり遺族なのです。そのことを理解しなければ、被害者や遺族の支援はできません。皆さんが支援に関わったときに、たまたま聞いた被害者の言葉が全てだと思ったら大間違いです。特に重大な事件の被害者や遺族は、まず例外なく相反する2つの気持ちを共存させています。
ですから、遺族に加害者に対する感情や死刑制度などについて問うてはいけないのです。もちろん、進んで話をしたいとおっしゃっている場合は別ですが。公の場所で聞かれた御遺族が「極刑に処してほしい」などと言えますか。私は、御遺族に「許す」と言わせた、シンポジウムを企画した人は、本当に罪深いことをしたと思います。決して公の場所で、御遺族に加害者に対する感情を問いかけてはいけないのです。それを、社会の約束事にしなければなりません。それこそ二次被害なのです。
しかし、1999(平成11)年4月に起きた山口県光市のご遺族のケースは大変印象的でした。2000(平成12)年の3月に山口地方裁判所で第一審の判決があって、犯人に無期懲役が言い渡されました。すると裁判所で御遺族が記者会見をし、「許すことができない」、「もし、死刑にならなかったら、自分の手で犯人を殺す」ということまでおっしゃったのです。こういうことを人前で言った御遺族は、それまで、私の知る限りいませんでした。そんなこと言ったら、周りからものすごく責められるというのが、これまでの日本の社会だったわけです。それを聞いて、とてもハラハラしながらニュースを見ていたのですけども、何と、間もなくその方にお会いすることになったのです。たくさんのファックスやメールを持ってこられました。励ましです。「頑張ってください」と。彼を責めるファックスや手紙やメールはほとんどありませんでした。社会は変わったなと、そのとき私は感慨深かったものです。
◆被害者の人権に関する世界の動向
次に、「被害者の権利確立と支援の歴史」についてお話しします。
アメリカのステファン・シェイファーという人が1968年に書いた「The Victim and his Criminal(被害者と犯罪者)」の中で、被害者には歴史的に3つの時代があったと言っています。「黄金期(Golden Age)」と「衰退期(Decline)」と「復興期(Revival)」です。
最初の黄金期は10世紀以上にわたって続きました。ゲルマン民族の「血の復讐」や「目には目を、歯に歯を」というタリオの思想が働いた時代です。そして近代法が成立する過程で、これらが制限され、近代司法制度の中で被害者は排除されて行きました。この時期、被害者は「forgotten person(忘れられた人々)」と言われました。
欧米が被害者の人権や権利に取組み始めたのは1950年代でした。マージャリー・フライ(Margery Fry=イギリスの刑事政策学者、1874~1958)という人が、従来の被害者を排除した刑事司法制度は正義に反するとして、「被害者のための正義(Justice for Victims)」の実現を訴えました。
これまで、加害者側の人権を守る制度をたくさん作ってきたが、気が付いてみたら、被害者は全く取り残されていた。このアンバランスな状況を変え、被害者の人権を守らなければいけないということを最初に言ったのが、このフライだったのです。
黄金期には、やられた人はやり返すのは当たり前であり、それを国がきちんと認めるということが、多くの民族で長年続いてきたのです。日本を例に挙げると、江戸時代の敵討ちは誰もが知っている話です。明治になって近代化する中で、これが禁止されていくわけですが、敵討ちを法的規制の対象にした「決闘に関する件」という法律(明治22年、法34)ができ、今に至っています。今の日本は、例えば攻撃されたときにやり返すという、いわゆる正当防衛についての考え方はきわめて限定的です。先進諸国の中でも、特に日本は正当防衛を認めない国だと思います。
今年世界中を騒がせた裁判の1つに、アメリカのフロリダ州で起きたジーマーマン(Zimmerman)事件というものがありました。アメリカの一地方で起きた、よくあるような事件なのですが、なぜ世界中の注目を集めたのか。1つの理由として人種差別という側面はありますが、むしろ、被害者のことを改めて考えさせるケースということで、注目が集まったのではないかと考えています。
事件は、10歳代の黒人少年が家の近くを徘徊していたところ、怪しいと目をつけた自称自警団のジーマーマンがつけまわし、少年が「なんでついてくるのだ」と言って、取っ組み合いになり、黒人の少年のほうがジーマーマンを組み伏せて上になってしまった。そこで、急に怖くなったジーマーマンは、持っていた銃で少年を撃ち殺してしまったのです。最初に仕掛けたのはジーマーマンですから、私たちの感覚からすると、正当防衛などあり得ないと思うのですが、この陪審員裁判では、全面的に正当防衛を認め、無罪としました。フロリダ州の正当防衛法では、身の危険を感じた者に正当防衛が認められており、そもそもの原因となった行為を考慮に入れなくてもいいのです。
この裁判が示したものは、身の危険を感じた人は、自分の身を守るために何をやってもいいとされているということです。オバマ大統領も緊急の記者会見を開いて、これは法整備をしなければならないと言いました。しかし、現にフロリダ州では法律上、なお合法なのです。
国によって、自分の身を守るということについての考え方が違うということです。普通は、そもそも最初にいずれが攻撃をしたかで、行為の正当性を考えると思うのですが、その「そもそも」を抜きにして、やった行為の正当性を議論するのはおかしいと思います。それは、他人を殺害した人が、死刑制度について「何人も他人の生命を奪ってはいけない」と言って、死刑制度反対の主張をするのに、よく似ていると思います。この事例は、まさに人権をどっちの側に立って考えるのか、ということにつながります。
次に日本の状況です。日本では、「被害者の権利」とか、「被害者の人権」という言葉が社会的に認知されてからまだ10年も経っていません。2004(平成16)年12月に、犯罪被害者等基本法ができ、1年後の2005(平成17)年12月に犯罪被害者等基本計画が閣議決定されました。そこから物事が大きく動きだすわけです。基本法に犯罪被害者の権利、利益という言葉が数か所出てきますが、初めて公式にこういう言葉が認められました。
戦前までは被疑者や被告人の権利や人権というものは、ほとんどないに等しかったため、新憲法になって、被疑者、被告人の権利に関する条文を10か条もつくりました。しかし、被害者の人権については全く触れられてきませんでした。被害者の権利と一般国民の権利は別ですから、この加害者10対被害者0という比率は、全くバランスを欠いています。
私が、日本で初めて被害者の権利を指摘した論文を出したのが1975(昭和50)年で、今から39年前のことです。その論文の骨子は、「被害者とは、基本的人権を侵害された人のことをいう」「侵害された被害者の人権は回復されなければならず、それは憲法上の権利である」「国は被害者の被害回復を保障しなければならない」「被害回復の過程において、被害者は加害者が逮捕され、裁かれ、刑に服する、すべて過程に関わることができる」「国は、国民が被害を受けないように守らなければならない」という内容でした。この考えは、今でも私の基本的な考え方であり、世界的にグローバルスタンダードになっています。しかし、この「被害者の権利を保障すべきだ」という内容の論文は、当時は日本国内で全く受け入れてもらえず、多くの専門家から厳しく批判されたことをよく思い出します。
その論文を書いた時期の世界の動向をみてみましょう。1975(昭和50)年、アメリカでは全米被害者援助機構(NOVA=National Organization for Victim Assistance)という、アメリカ全体をカバーする被害者援助機構ができました。この組織はいま世界最大の被害者支援組織になりました。イギリスにはVictim Support Schemeが1974年に、さらにドイツでは、Weißer Ring(白い環)という組織が1976年にできました。この白い環は非常に活発な組織で、EU加盟国のいろいろな国に広がっていきました。そして、アメリカでは、1984年に法律上被害者の権利を明記した犯罪被害者法(Victims of Crime Act)ができています。いま国連では、近い将来、被害者人権条約を実現しようという取組を行っています。1989(平成元)年にはEU加盟諸国が第一回ヨーロッパ被害者サービス・フォーラムを開くようになり、これも現在まで続いています。
また、アメリカでは「全米犯罪被害者の権利週間(National Crime Victims' Rights Week)」を1993(平成5)年に始め、ヨーロッパでも「ヨーロッパ被害者の日(European Victims' Day)」を毎年開催しています。日本では犯罪被害者等基本計画ができた2005(平成17)年の翌年になって、ようやく内閣は犯罪被害者週間というものを始めました。犯罪被害者等基本法が成立した日を記念して、毎年11月の最後の週に開催されるようになりました。
日本における動きとしては、1995(平成7)年7月に、全国で初めてのボランティアによる民間の被害者支援センターを水戸に立ち上げました。ボランティアを募って研修をして、NOVAというアメリカの組織をモデルとして、日本でも同じようなものを作りたいということで始めたのです。
欧米の一般的な傾向をみると、実際に支援組織の中枢にいるのは、かつて被害を受けて大変な思いをし、立ち直ることができた被害者です。周りに支えられてなんとか立ち直ったその人が、よき支援者になるというプロセスをたどっていることが多いので、日本でも恐らくそうだろうと思っていました。諸外国の例から見て、ボランティアをやりたいという方の中に必ず御遺族等がいるはずだと推測をしていたのです。
ところが、組織を立ち上げた専門家の中でも多くの人が、そんなことはあり得ないとか、遺族にはちょっと辞退してもらった方が良いのではないかと考えていました。そこで、話合いを持ち、ボランティアに対して被害者かどうか聞かないことを講師陣の共通認識にして活動を開始しようということになったわけです。しかし、だいぶ経ってから、ボランティアの中には、「実は弟が殺された」というような方が少なからずおられることが分かりました。
日本の専門家は、被害者が支援者として活動することに対して危惧を持つことが多いようです。しかし、被害者と支援者を、「あなた支援される人、私支援する人」と分けることについては、大いに疑問があります。
1960年代、欧米諸国では、被害者の立ち直りを支援するための補償制度(compensation system)を作りました。
通常、加害者が被害者に賠償することはほとんどありません。これは多くの国で共通した状況です。日本でも、今以て、加害者から被害者への賠償はほとんどなされていません。このことに私は疑問を感じまして、1992年(平成4年)から1994(平成6)年の3年間、全国で大がかりな被害者実態調査を警察庁の協力を得て行ったときに、賠償の問題も取り入れました。
そのときに、私が担当したテーマの一つが、この賠償の問題でした。日本では殺人事件の遺族への賠償金の相場は平均して4,000万円~5,000万円で、収入が少ない被害者の遺族でも2,000万円ぐらいです。しかし、実態調査によって分かったことは、加害者から賠償金の一部でももらった人は15.8%しかいないということでした。しかも、その賠償金をもらった遺族も、全員が「その一部」であり、賠償金を全額もらった遺族(つまり、数千万円の賠償金をもらった遺族)は、1人もいませんでした。
私が関わった例として、1998(平成10)年に、娘を殺された両親が犯人を相手取って賠償訴訟を起こし4,000万円以上の判決が出たということが新聞に載ったことがありました。この事件では、御遺族は実際に全くもらっていないのですが、報道を見て、御遺族に嫌がらせをした人々がいたのです。「お前は娘が殺されて、お金をもらうとは何ごとか」と。新聞には判決しか載りませんので、新聞を見た人は4,000万円以上の賠償金が支払われたと思っているのでしょう。しかし、この御遺族に賠償金は全然支払われていません。これが現実です。しかも、日本には、政府が被害者のために強制的に取り立てをしてくれる制度がありません。
また別の事例です。ある県の市役所に勤めていたご子息が殺された年老いた老夫婦の話です。息子を殺した相手が職場の同僚だったので示談に応じてしまったのですが、その額も非常に低いものでした。示談が成立したので、この加害者は減刑され、懲役は5年となりました。殺人なのに5年で、しかも、仮釈放で出てきてしまいました。賠償金を支払っていないのに、です。いよいよ刑務所から出てくることになったときに、御遺族が、まだ賠償金をもらっていないのに出てくるのはおかしい、示談書が守られていないのに、なぜ仮釈放されて出てきてしまうのか、と私に突然連絡してこられました。しかし、結局どうすることもできず、今加害者は完全に社会復帰していますし、現在なお、賠償金は払われていないのです。このような不正義な国があって、いいのでしょうか。
1997年5月に起きた神戸連続児童殺傷事件も、被害者の父親、母親それぞれが原告になって一億円近い賠償額を請求しました。彼らはなぜそうしたかと言うと、当時、少年審判は傍聴できなかったために、民事裁判の場で、事件を起こした少年に問いかけようと思ったわけです。ところが、被告側が全部事実を認めたため、即、結審して判決。本来の目的は、法廷で問いかけることでしたが、これは封じられてしまいました。目的が果たされないまま、請求した額がまるまる判決文に載ったわけです。夫婦合わせて1億円近い額を要求したという部分だけが全国に報道されたために、この御遺族も大変なバッシングに遭いました。この類の話は、嫌と言うほど、たくさんあります。
◆事件後に被害者や遺族が受けるストレス障害
それではここで、事件後に被害者や遺族が受けるストレス障害について、その代表的なものを簡単に紹介しておきます。
・同じような事件が再び起きたとき
・報道やネットによって被害者の落ち度が指摘されるとき
・加害者に対する刑罰が軽いとき
・裁判官などが被告の将来を励ますような言動をしたとき
・犯人が捕まらないとき
・被疑者・被告人が真犯人でなかったとき
一番大きい問題は、自分が経験した事件と同じような事件が再発した場合です。
これも実際に私が経験したものです。
1999年12月、京都の日野小学校で小学生が殺された事件(てるくはのる事件)がありました。それから1年半後の2001年6月に大阪教育大学附属の池田小学校で、小学生8人が殺され、15人が重軽傷を負う事件が起きました。この池田小事件が起きたとき、私が御遺族を訪問したのは約2週間後でしたが、大阪府警の協力を得て、以前身内を亡くされた御遺族の方々と一緒に、池田小学校の御遺族8世帯を訪ねたのです。
そのとき分かったのは、この事件で最も衝撃を受けたのは日野小学校の御遺族だということです。自分の息子が殺されたときよりも、池田小学校で事件が起きたときの方がはるかに深刻な精神状態になっていました。国は何もしていないと怒りを露わにされました。国もそれなりに動いたのですけども、御遺族からすれば、2年後に同じような事件が起きてしまったということは、自分の息子の死が無駄になってしまったことを意味します。国も地方自治体も息子の死から学んでいないではないか、息子の死は一体何だったのだろうか、という思いですよね。これがやはり御遺族にとって大きなストレスになったと思います。
仮に犯人が捕まらなくても、身内が殺されたその事件を契機にして世の中が変わったというのであれば、子どもも、夫も、妻も、成仏してくれるだろうと思える。世の中を変えるために、できるだけのことをやったと墓前で報告できる。多くの御遺族は、そうやって、社会運動の中にかなり無理をして入ってこられるわけです。それなのに、自分が経験した事件と似たような事件が再発したとなると、被害者や遺族はとても大きな無力感を感じ、ストレスは非常に強くなるのです。
また、報道やネットによって被害者の落ち度が指摘されることがあります。これも、被害者や遺族が受けるストレスの一つです。
1997(平成9)年3月の東電OL殺害事件。キャリアの女性職員が井の頭線の神泉駅の前のある小さなあばら家の中で殺されたという事件がありました。結局、被告が冤罪で未解決事件になったのですけども、このときも、ものすごく被害者や遺族が責められました。特に、若い女性が被害者の事件では、相変わらず社会の関心もマスコミ報道のあり方も、問題が大きいようです。
1999(平成11)年10月の桶川ストーカー事件も同じです。今でこそ「ストーカー被害者に問題あり」などと言う人は少なくなりましたが、この事件でストーキングされて困っているお嬢さんと父親、母親の3人で桶川警察署に相談に行ったけれど、警察は動いてくれない。何度やっても動かない。そのときの警察の考えは、「男女間の痴話げんかに警察は関わっていられない。娘さんだって…」ということのようでした。ご遺族はマスコミを動かそうとしたけれど、マスコミも動かない。そのような中での悲劇でした。
一般的に、加害者と付き合ったのは自分だからしょうがない、あるいは、ピシッと断れば、断れるはずだったのに、優柔不断だったから結局殺されちゃったんじゃないかと考える人が非常に多いのです。
ところで、2012年11月に逗子で起きたストーカー事件を御存じですか。この事件をきっかけにして去年から今年にかけてストーカー行為等規制法を改正すべきではないかという声が高まり、2013(平成25)年7月3日に改正法が通過して成立しました。今回の改正の目玉としては、電子メールを使ったつきまとい行為をストーカー行為の対象にするということです。今まで、電子メールを使ったつきまといはストーカー行為等規制法の対象にならないという問題がありました。
この法律は13年前の2000(平成12)年にできていますが、その当時、ストーカー行為の手段として電話とファクシミリは明記されているのですが、ネット等を使った通信手段は想定されていなかったわけです。
それが、この事件では、報道によると、加害者は1,000通を超えるメールを被害者に送っていたということです。こんなに多くのメールが送られているにもかかわらず、法律に電子メールと書かれていなかったから警察は動かなかった。そこで、電子メールもストーカー行為の中に入れようということになって、今回法改正に至ったわけです。
日本の行政機関は法律に書かれている犯罪若しくは違法な行為でなければ動きません。その周辺で支えている民間も行政に準じて動く状況です。しかし、欧米では、民間がかなり積極的に、法律とは関係なく動くのが普通なのですね。被害を受けたと訴えている人、現に困っている人がここにいるのならば、なんとかできないかというふうに動くわけです。世界的にそうですね。しかし、日本では、まず、「法律はどうなっているんだ」ということを考え、ちゅうちょする。
民間が充実していればこういう問題はないのですけども、残念ながら今の日本はまだ民間の支援活動が貧弱です。むしろ行政に期待されているところが大きい。ですから、行政の窓口が拒んだ場合には被害者の行く所がないのです。被害者支援とは、法律をチェックして、どこにも書かれていないからやらないという、そういう話ではないことよく認識して支援に当たっていただきたいと思います。
◆日本の被害者は孤立している
オハイオ州のクリーブランドで起きた三女性監禁事件と、1990(平成2)年11月に拉致され、ちょうど10年後の2000(平成12)年1月に救出された新潟で起きた小学4年生の女子監禁事件は、似ている点が多いのですが、世の中の反応が全く違うので取り挙げてみたいと思います。
このクリーブランドの事件というのは連日のように世界に報道されました。10年以上監禁されていた3人の女性が2013(平成25)年5月に救出されました。その後の社会の動きが、新潟の事件と全然違うのですね。三人の女性が救出されたというので、いろいろな人たちが被害者の家に駆けつけてくる。そして励ましの言葉をかけ、ときには拍手が起こる。これがまた、全世界に報道されました。
若い女性が監禁されて、その間何百回と強姦されたのにもかかわらず、その人がメディアに出て取材も受けるし、社会がみんなで温かく励まして、その様子が世界に報道されたのです。
アメリカは検察官が聞き取った事件を全部一括で起訴します。報道によれば977の罪でカストロ被告が起訴され、当然死刑もあり得るのだけども、ここで取引が行われました。死刑を避ける代わりに全部自供しろ、認めろということで、わずか数か月で判決が出ました。結論は、終身刑プラス1,000年の禁錮で、生涯刑務所から出られません。
かたや日本では、新潟の事件が発覚したときは、腫れものに触るようにして警察がメディアを排除しました。記者クラブでも、何メートル以内に入らない、直接取材はしないと報道規制をしたのです。裁判で検察側が考えたのは、この被害者の女性を法廷に出さないということでした。この被害女性に証言させることを避けるために、10年以下の逮捕監禁致傷罪にしたのです。強姦罪を付けると15年の適用ですが、この裁判では強姦罪を避けるというのが検察の方針だったため、逮捕監禁致傷だけで行ったのですね。小学4年生を9年4か月監禁して、10年の求刑では全然正義に合わないと考えた検察は、監禁していた女性の下着を近くの店で万引きしたという窃盗罪を加えましたが、これが、杓子定規の頭しかない多くの法律家から非難されました。検察の権力乱用だ、横暴だという批判が起こったのです。日本社会には司法取引はありません。結果的に、被害者の女性が法廷に出て証言しなければならない場面が出てくるが、それだけは避けたいということで、苦肉の策が2002(平成14)年1月に新潟地裁で出された懲役14年の判決でした。この判決は控訴され、さらに上告されて、2003(平成15)年7月の最高裁で確定しました。被害者の立場を考えたときには、やはりやむを得ないことがあるわけです。
これが、例のクリーブランドの事件の被害者の女性たちは、みんな顔を出して取材を受け、裁判でも支援者に支えられて公開の法廷で意見陳述をしました。アメリカでは多くの州で法廷にカメラが入っていますし、裁判所が映像をメディアに提供し、同時中継で家庭にいながら裁判所の様子を見ることができます。
私は、日本の法廷になぜカメラが入らないのか疑問に思っているのですけれども、日本はイラストもいけない。例えば、和歌山カレー毒物混入事件の裁判で、林真須美被告を描いたスケッチで手錠が描かれているので違法であると、裁判所は判断しています。法廷にカメラが入り、撮影が認められる国では、被告人のさまざまな写真が公開されますが、違法とすることはめずらしいのです。
◆孤立無援の日本の被害者
日本で神戸連続児童殺傷事件が1997(平成9)年5月に起きていますが、その数年前の1993(平成5)年にイギリスでジェームス・バルヂャーちゃん事件が起きています。
イギリスで殺されたのは2歳の幼児で、殺したのは当時10歳の少年2人でした。日本だったら裁判にもなりません。どちらが良いかは分かりませんが、イギリスでは、これは通常の刑事裁判にかけられて終身刑の判決なのです。10歳のときにやった幼児殺しで終身刑。そして刑務所に二人は入りました。その後、この事件に目を付けたアメリカの有名な人権派弁護士が登場して、ヨーロッパ人権裁判所に訴えたのです。すでに8年ぐらい経っていて、もうこれ以上刑務所に入れておくことは人権上問題だという判決が出ました。ヨーロッパ人権裁判所の判決には拘束力がないのですが、当時のイギリスの内務省はその判決を尊重してこの2人の少年を仮釈放させました。
そのときの世の中の反応がすごかったですね。群衆が刑務所に押しかけてきて投石をする。トラックが全国から集まってきて遺族を応援する長蛇のデモをする。そして、それがまた大きく報道される事態となりました。
かたや日本の神戸の事件は、14歳の少年が10歳の少年を殺して首を切り取るという事件でした。この事件の御遺族は、どうしてこんなことになってしまったのかを加害者の少年の口から直接聞きたいと願って10年間闘ってきたわけですが、最終的にその少年が仮釈放されたときに、その願いの一部がかないました。御遺族の願いとは、今後、少年事件の処理の仕方を変える方向で検討すると約束することです。現に今、少年法をめぐる環境に変化が起っています。そのうち最も大きく報道されているのは、遺族が少年審判を傍聴できるようになったということです。これは大きな変化ですね。恐らく、少年事件における“被害者の知る権利”を実現するきっかけを作ったのは、この御遺族の10年間の闘いだったと思います。
ところで、みなさんは、1979(昭和54)年に松竹が木下恵介監督で作った『息子よ』という名作を御存じですか。これは、1966(昭和43)年5月に横浜市鶴見区で起きた鶴見通り魔事件の御遺族・市瀬朝一さん(役・若山富三郎)・みゆきさん(役・高峰秀子)夫妻が立ち上がって、国に補償制度を作らせる過程をドラマ化したものです。朝一さんは、法律が国会を通るのを待たずに亡くなってしまいました。日本における最初の被害者運動だろうと思います。
◆ASD(急性ストレス障害)とPTSD(心的外傷後ストレス障害)
それではここで、犯罪の被害者や遺族が、どのような心身の影響を受けるかについて説明をいたします。
事件後、初期の段階として急性ストレス障害(Acute Stress Disorder)が起こります。これが1か月から3か月ぐらいたっても解決しないと、長期化して心的外傷後ストレス障害(Post-Traumatic Stress Disorder=PTSD)となります。
事件後の心の回復過程を簡単に説明しますと、事件直後に心身が凍ってしまって、全ての反応が止まってしまう。やがて否定が始まるのですが、それも時間がたつにつれ徐々に解凍していく。解凍すると、その反動で大きな怒りが出てきます。それがやがて治まり、少しずつ回復し立ち直っていく。これは急性ストレス障害での反応で、殺人事件であればほぼ全ての人にこういう症状が起ってくると言われています。ですから、早い段階で専門家が関わり有効な対応をすることが必要になってきますが、今もつて日本社会では、この初期支援の態勢ができていません。
欧米を見ると、実はここにものすごく力を入れているのですね。例えば殺人事件があり、遺族が支援センターに支援を求めると、2人ペアのレスポンスチームが派遣されます。初期支援は72時間という考えが、国際的には一般的です。3日間、被害者の身近なところに寝泊りして支援活動をする。これがうまく成功するとPTSDになる率が低くと言われています。
例えば、災害で、壊れた建物の下敷きになってしまった人がいたら、生命の維持という点で、救助は72時間以内にしなければいけないと言われています。生き埋めになったり、大けがをしていたら、みんなあわてて救急車を呼んで、何とか病院へ連れて行こうとするでしょう。ところが、心の傷のほうは目に見えないために、後回し、後回しにされていく。
特に専門家の人たちの心に留めていただきたいと思うのは、心の傷も最初の3日間が勝負だということです。その仕組みを日本社会に作っていかなければいけないと思います。
遺族は、非常に不安定で、孤立無援の状態になっています。人と接触したくないと思っている人も多いので、近づこうとしたときに断られることもあります。
そこに行政や民間の支援者たちがどう関わっていくかがポイントになるのです。
遺族に対し、ストレス障害を与えているのは誰だろうかということを考えてみて下さい。遺族を孤立させ、そして目に見えないストレス障害を与えているのは、加害者、加害者の家族、弁護士、警察官、マスコミ、近所の人。その中に身近な人もいます。本来だったら支えになるはずの人たちでさえ、遺族には敵に見えることがあるのです。
そして、この事態を変えていかなければいけない。それができるのは、地域の人々、特に行政に関わっている人たちや、支援活動をやっている人たちです。その人たちが社会を変えていくにあたって、非常に大きな責任があるのではないかと、私は思っています。