人権に関するデータベース
研修講義資料
「日本のハンセン病対策と人権侵害」
- 著者
- 神 美知宏
- 寄稿日(掲載日)
- 2013/11/27
皆さん、こんにちは。それぞれお忙しいお立場であると思いますけども、時間の調整をしてお集まりいただきましたことに対してお礼を申し上げたいと存じます。
私に関わること、あるいは日本のハンセン病問題に関わること等、なるべく全体を網羅する形でお話を申し上げようかと思います。
まず、自己紹介を兼ねまして、私のこれまでの人間としての経過をご紹介させていただきます。私は1934(昭和9)年に福岡県で生まれて今年で79歳になります。ハンセン病を発症したのは、17歳のときでありまして、1951(昭和26)年にいろいろな経過があって、ハンセン病療養所に入ることになりました。私は、福岡県にある神社の神家の子どもとして生まれ、きょうだいは5人おりました。なぜか、私の家族、親族、親戚、先祖、そういうところを徹底的に調べたのですけれども、ハンセン病を発症したのは私だけなのです。5人きょうだいで真ん中3人が男で、一番上と下が女という構成ですが、身近なところでハンセン病の患者さんを見る機会がまったくありませんでした。
ある日、大腿部に赤い直径3センチくらいの斑紋が3つばかり出てきたため、何だろうということで、母親が市販の薬を買ってきてくれて、その薬を塗るようにいうので私は熱心にそれをつけていたのですけども、全く赤い斑紋が消える様子もなく、むしろだんだん広がってきたため家族みんなが大変心配し、「いったいこれは何だろうか、早期発見、早期治療と言われるけれども、専門医に診察を受ける必要があるのではないか」ということになったのです。
家の近くに、ご高齢の開業医がおられまして、母親はまずここに相談に行ったようです。母に連れられて初めて受診した病院の先生から、「ひょっとしたらあなたの息子さんは、昔はらい病と言われていたハンセン病の初期症状かもしれないよ」と診断されたときには、家族はずいぶん衝撃を受けたようです。
まずは、皮膚科の専門医に診てもらって、確定診断を受けることが大事なのではないかということになりまして、福岡県の大学病院に行き皮膚科の専門医の診察を受けました。裸になって、ずいぶん丁寧に検査をしたり触診をしたり、さまざまな形で診察をしていただきましたけども、結局、何の皮膚疾患かは分かりません。ほとほと困り果てた家族は、それでは県立病院もあるし、市立病院もあるので、そちらのほうに行ってみようかということになり行ったのですが、やはり結果は同じでした。そこで再び家の近くの開業医の所に出向いて、大学病院に行っても、県立病院や私立病院に行っても分からなかったと申し上げたところ、その先生は、「昔自分が東南アジアで開業していたときにハンセン病患者を診たことがある。ハンセン病の専門医は国の方針によってすべて国立のハンセン病療養所に集められているから、まずどこかのハンセン病療養所を尋ねて、そこで専門医の診断を仰いだ方がいい」というアドバイスをくださいました。
その当時、社会にはハンセン病に対する非常に厳しい偏見、差別の事例がたくさんありましたので、両親も家族も大変な衝撃を受けました。家族からハンセン病患者が出たということで一家心中をしたり、家族がその土地にいられなくなって離散してしまったりという話は珍しくなかった時代のことでしたので、もしハンセン病であった場合を想定して、確定診断が出ても周囲に絶対分からないような方法を考えなくてはならないということになりました。神社の経営にも影響するし、家族がどういう差別を受けるかもしれないということをまず心配したわけです。
九州には熊本、鹿児島に国立ハンセン病療養所があるということは調べて分かっていたのですが、もしものことを考えて、なるべく遠い所にある療養所を尋ねたほうがいいのではないかということになりました。四国、香川県の瀬戸内海に周囲4キロほどの小さな島があって、そこに大島青松園という国立のハンセン病療養所があるということが分かりました。そこは、高松市から船で約30分、距離にして約8キロの所でかなり遠隔の地であるので、もしハンセン病と診断されたとしても秘密が保たれるのではないかと考えたのです。さっそく、夜行列車に揺られて母親に連れられて大島青松園という所を尋ねました。前もって連絡しておりましたから、私の診察をしてくださる先生が桟橋まで白衣を着て出迎えてくださいました。すぐ医局に連れて行かれ裸にされ、10分もしないうちに、付き添っていた母親に、「あなたの息子さんはらい病と言われているハンセン病の初期症状にある」と、確定診断が下されたわけです。1951(昭和26)年3月のことでした。
実は1949年(昭和24)年、私が療養所に入る2、3年前から特効薬プロミンという薬がアメリカで開発されて、それを日本にも導入して、全国の療養所の患者さんたちの治療がすでに始められていたのです。これは非常によく効く薬だったといまでも言われていますけれども、私が1951(昭和26)年3月に大島青松園に行ったときには、その薬の効果が顕著に表れていて、入所者全員が治療を受けていたので、皆ずいぶん快方に向かっているという明るい話を聞くことができました。母親も、ひょっとすれば治るかもしれないということを想像したようです。
しかし、そこで主治医に言われたことは、「不幸にしてハンセン病を発症した方は国の方針とらい予防法によって療養所に隔離をされることになります。あなたはまだ高校生であるけれども、ハンセン病ということが明らかになった以上、もう家族の元にお返しをするわけにいきません。この大島青松園で専門的な治療を受け、この療養所の中で生きて行かなければなりません。化学療法が発達してきたので、熱心に治療を受ければやがて治癒をするだろうけども、国のハンセン病政策によって、たとえ治ったとしてもハンセン病療養所から退所させることはできないのです。あなたは、この療養所で一生を終えることになりますので、そのように決心をしてください」。こんなことを言われました。
私はまだ17歳の学生で、すべての判断ができる年ではありませんでしたが、大変なことになったということは母親の様子から読み取ることができました。主治医から、「間違えなくハンセン病、らい病の初期症状にある。治療すれば治るかもしれないけれども、生涯この療養所で生きることになる」と、そこまで言われたことに対して母親は顔面蒼白になり、その衝撃に耐えられないというように全身がワナワナ震えておりました。私はまだそのとき、それほど危機意識はなかったのですけども、やがてそれを実感することになりました。
事務官が出てまいりまして、「確定診断が出たその日にさっそくだけども、入所の手続きを始めてください。これからこの療養所の一員として生活していくことになるので、その手続きをしてもらわなければなりません。らい予防法という法律があって、それによって私たちは仕事をしているので、納得できないことがあるかもしれないけれども、従ってもらわなくてはいけませんよ」と言われ、生年月日から始まって、名前、家族構成からすべての事項を書類に記入して必要な登録を済ませました。
らい予防法とよく似た法律に、結核予防法というのがあります。結核予防法は俗に入口があって出口があるという言いかたをしますが、入所規定があるけれども、治ったら退所させる、社会復帰をさせる。そのことが法律の中に明記されていますが、一方のらい予防法は、入所規定はあるけれども退所規定がない、入口があって出口がない法律です。そういう法律が厳然として日本の社会の中に、ハンセン病対策の基本として存在しているということを、そのとき初めて知り、「これは大変なことになった」と、子どもながらに思ったわけです。私は次の日から高校に通学することもできなくなりました。「さっそく退学届を出しなさい」とアドバイスされたことを思い出します。
母親は、まだ気持ちの整理ができないようでした。「なぜうちの次男坊が、ただ1人病気になったのだろうか」という思いもあったのでしょう。ふるさとには、私を除いて4人のきょうだいがいるわけで、しかも父親は神官という立場で、神社の経営にも携わっている。そういう神社の神官の息子がらい病になって家を出てどこかに行ったということがもし近所の人に分かってしまうと大変なことになると、母親の頭の中はいっぱいだったようです。
入所の手続きを始めたときにまず、「この大島青松園の入所者は700人ぐらいいるけども、半数以上の人が本当の名前を使わず、療養所の中だけの通用名を持っている。あなたもそうしたほうがいい」と言われました。「あなたが病気になって大島青松園に入所したということがもしふるさとに知られたならば、ご家族は大変な差別を受けることになる。そういうことを防止するために、多くの人たちが通用名を使っているのです。だから、あなたも本当の名前は使わず、お母さんと相談をして通用名を登録しなさい」と言われて、母親の意見が強かったせいもありまして、「神崎正男」という名前を思いつくままに登録しました。それからというもの、私は神美知宏ではなくて、神崎正男という名前で生きていくことを強いられたのです。
もう一つ、「入所の手続きとして、皆さんから解剖願書という書類を出してもらっている」とも言われました。ここにあるのは実物をカラーコピーしたものです。1951年(昭和26)年、私が療養所に入ったときに、提出を強いられた解剖願書の写しです。
「解剖願書」には、患者の立場で「どうぞ、私が死んだときは遺体を解剖してください。お願いをします」という文言が書かれてあり、宛先はその療養所の所長になっています。全国に13か所の国立ハンセン病療養所があるけれども、治ったとしても療養所から退所させるわけにいかないので、患者さんはその療養所で人生を終えることになる。もし亡くなったときには、医学の進歩のためにあなたの遺体を解剖させてもらいますよと。だから、患者さんの立場で解剖願書に署名捺印をしてくださいと言ってこれを出されました。
私には、一つひとつのことが全く納得できませんでした。不幸にしてハンセン病を発症して療養所に入ったその瞬間から、人間としての尊厳も自由も全く認めないよと言わんばかりの扱いを受けたからです。
母親は3日ばかり大島青松園におりましたけども、家のことも気になって、4日目の朝、船に乗って高松市に帰って行きました。それから、夜行列車に乗りついで九州まで帰るのです。当時の私はまだ子どもでしたので、親の気持ちを十分推し量ることができず、桟橋から船が見えなくなるまで、母親の姿が全く視界から消えるまで手を振っていたのですが、その間ずっと母親は涙をハンカチでふき続けました。
それからというもの、全く世間を知らない高校生であった私は、700人前後いる大島青松園の患者さんたちの中に突然投げ込まれ、これからの自分の人生をどう考えたら良いのか悩み続けることになるのです。それと同時に、私自身がどういう立場に立たされたのか知りたいという気持ちも起こりました。療養所に入ったのだけどもこの療養所とはいったいどういう所なのか、どういう運営がなされているのか、一つひとつ納得したい、そういう思いもあって、始めのうちは療養所の隅から隅まで毎日毎日歩き続けていました。
療養所と言えば国立の医療機関であるわけで、医療機関ということは病気の治療をする場所です。治ったならば、当然そこから退所させるというのが当たり前だけれども、それが全く考えられていない。療養所とは名ばかりの、ここは刑務所よりももっとひどい隔離収容施設ではないかということをなんとなく認識することができました。
療養所の中を回って見て、衝撃的なものにいくつか出くわしたからです。小さな島の中でありますけれども、その一角に火葬場がある。治ったとしても、その療養所から外に出さないというわけですから、遺体を処理するための準備がちゃんと整えられている。そして、その隣には納骨堂がある。さらに、監禁室があったのです。鉄格子の入った監禁室、これだけ見ただけでも、この施設はただごとではない国の施設だと思ったわけです。
化学療法の進歩によってハンセン病は治るというふうに主治医から説明を受けたけれども、治っても療養所から退所させないとはどういうことなのか。罪を犯して刑務所に拘禁をされた犯罪人は、罪の程度にもよりますけれども、一定の償いをすれば、例えば何年かすれば無罪放免で社会復帰するではないかと。私たちは何もそういう悪いことをしたわけではないのに、不幸にしてハンセン病を発症したというだけで、人間としての価値を認められなくなり、国立のハンセン病療養所の収容患者になってしまったわけです。火葬場があり、納骨堂があり、監禁室があるということは、病気が治ったら社会に送り出すというシステムがもともとどこにも見当たらないということです。しかも、国の医療機関と言われながら、その療養所を管理、運営するために必要な職員定員というのはほんのわずかで、ほとんどは軽症患者の労力を利用して施設の管理、運営が行われていました。
私など、ほとんど後遺症もなく病気も軽いほうでしたから、何でもやらされました。「おまえはここで国の世話になるのだから、多くの仲間のために働かなくてはならないよ」と。それが療養者の義務であると職員からは言われまして、重度の障がい者の付添い看護から、ごはん運び、衣類の洗濯、看護師の代わりとして皮下注射なども強制的にさせられたのです。
やはり一番衝撃的であったのは、亡くなった先輩の遺体を火葬する仕事でした。職員はその仕事を行わず、外から人を雇用することもせず、仲間の火葬は患者がやるべしという制度がそこには確立されていたのです。
当番制度になっていましたので、私にもその順番が回ってきました。「今度、あの人が亡くなった場合は、おまえさんが火葬の作業に当たらなければならない」と、職員からそう言われ、まだ大人になりきれていない私は、想像するだけで身震いするほどの恐怖を感じました。当時亡くなった人は、座棺という大きな桶の中に座った形で中に遺体を入れて、開けにくい鉄の扉を開けて、かごに押し込んでいく。のこぎりで大きい松の木を切って、それを窯と座棺のすき間に押し込んで、戸を閉めて火をつける。それらはみな患者さんの仕事なのです。なぜか夕方から火葬作業は始められ、火葬が完全に終わるのは明け方になっていました。1回目に薪を挟んで火をつけただけでは遺体が十分に焼けないということで、夜中にもう一度鉄の扉を開けて、まだくすぶっている遺体の周りに薪をくべて再び火をつけて朝を迎える。恐ろしくて私は全身が震え上がったのを忘れることができません。
職員は患者にそういう仕事をさせて、そのことをどう見ていたのか、私はそっちのほうにも興味がありました。彼らは遠くから腕組みをして、患者がそういう仕事をしているのを監督するかのようにただ見ているだけだったのです。ハンセン病療養所の管理、運営の実態というのは、軽症患者の労力を最大限に引き出して、ようやくそのハンセン病療養所の管理運営がなされている、それが当たり前のこととして全国どの療養所でも行われていたのです。
療養所に入ったときには、早く治療を受けて治って、再び学校に行きたいという思いでいっぱいでしたけれども、それが許されないことだと分かってからは、私はもう人生をあきらめて、どういう方法でいつ自らの命を断とうかと考えていました。家族は、あの子さえ病気にならなかったら、みんな平和で幸せにいられたのにと思っているのだろう、私が生きていること自体が家族にとっては不幸なことに違いないと思われて、最初の2年間は死ぬことばかりを考えていたのです。
ところが、私が療養所に入って、7、8年経ったころでしたか、まだ30歳にもならないある日のことです。療養所に入ったときに、私の主治医になったお医者さんがまだおられ、「医局にちょっと来てください」と呼び出されました。「神崎さん、あなたは非常に熱心に治療をしたので病気は治ったようです。本来は治ったとしても療養所で人生を終えることになるのですが、まだ30前の青年であるあなたをそういう立場に置きたくないので社会復帰させたい」という話でした。
さっそくふるさとの両親に連絡をしたら飛んできました。自分としてはどのように判断したら良いか分からない、両親としてどう考えるか聞かせてほしいと言うと、「もうおまえは子どもではないので、今後の自分の人生については自分で決断をしなさい」と。それが両親の答えでした。
療養所に入って10年も経たないうちに、入所者みんなの病気がどんどん快方に向かって社会復帰をしていく人が出始めました。良心的なお医者さんも中にはおりまして、非公式に社会復帰を黙認するという形で外に出ていく患者がいたことも事実です。さまざまな形で療養所を後にする仲間が増えてきた時期に、「社会に出て働きたいと思わないか」と問われたわけです。
ところが、その頃、私はらい予防法をそのまま放置しておくこと自体がおかしいと考え始めていたので、自治会の運動を社会的な運動にまでつなげていこうではないかと、自治会活動に専念をするようになっていました。ですから、社会に出て働くか、療養所に残るのか、私は自分のこれからの生きかたについて、そのとき本当に真剣に考え悩みました。そして、悩み抜いた末、私が選択をしたのは、療養所に残る道だったのです。
両親に相談をし、考えた末の自分の結論を主治医に申し上げました。それは、「病気が治って社会の一員として外に出ていくということも立派な人生の選択であるし、すばらしいことだと思うけども、多くの仲間たちが国の政策の過ちによって、あるいは一般社会の偏見や差別によって、全く人間として認められない状況にあるのを見捨てるようにして、自分だけの幸せを求めて社会復帰をすることはどうしてもできない」というものでした。
主治医の先生に、「せっかく先生のお勧めを頂いたけれども、私はいち人間として、ハンセン病療養所の現状を見てきましたが、何ひとつ納得できない。そこで、この状況をまともな状況にするための運動に人生をかけたいと考えるようになりました」と、そう申し上げました。黙って主治医は聞いていましたけども、「わかった。きみのそういう考えかたを尊重しようではないか」と言ってくれました。私は、まだ30歳になる前でありましたけれども、それからというもの患者運動に全身を投げ打っていくことになるわけです。
もちろん、療養所を1日も早く抜け出したいというふうに考える人たちの気持ちは痛いほどよく分かります。けれども、私はそういう形で自分だけが幸せになっても本当に幸せだと思えるのかと自分自身に問いました。そして自分が100歩進むよりも、仲間と一緒に1歩でも前に進むという選択をして、ハンセン病問題の解決のために人生を賭けようという決断をしたのです。
今年、私は79歳。人生の選択をしてから、50年余りが経過しましたが、一貫して当時の判断を貫き通して今があります。ハンセン病療養所の入所者は、私が療養所に入ったときにはまだ全国の療養所に1万人前後おりました。平均年齢も50代です。しかし、それが今年の厚生労働省の調査によると、全国の入所者を合わせても2000人に満たなくなり、平均年齢が83歳です。平均の在所年月も60年を超えています。
私も今日まで62年間療養所の中で生きてきたわけです。60年間いっしょうけんめい運動の先頭に立っているつもりなのですが、日本国憲法があることで世界的に有名なこの日本において、未だ社会から見捨てられたような存在であることに忸怩たる思いがあります。
厚生労働省は、毎年データを取って調査をしていますが、ここ何年も日本の国民がハンセン病を発症したという例はありません。ハンセン病は感染症であるけれども、この日本に限って言うならば、克服されたという状況になっています。しかし、残念ながらプロミンという特効薬が治療薬として用いられなかったときに療養所に入った方々は、かなり進んだ後遺症に苦しみ続けながら最晩年を療養所の中で暮らしています。
人間だれしも70歳を過ぎると自分の人生の終末期のことを考えるようになります。3人集まれば「あと何年生き延びることができるだろうか」という話になる。必ず口の端に上るのは、「自分はもう長くは生きられないと思うので、せめて生きているうちにふるさとの墓参りをしてから死にたい」という言葉です。みんなそういうふうに願っています。
しかし、ふるさとに帰ることができない人たちがほとんどです。「いまになって戻ってきてもらっては困る」という家族の本音が聞こえてくるからです。療養所で晩年を迎えて、余命いくばくもないという立場にあっても、家族にだけは迷惑をかけたくないという思いが、自分の意思よりも先行するのです。「50年ぶりに墓参りをして死にたい」という思いを押し殺し、静かに「自分の終の棲家はここだ」といって、みんなあきらめながら人生の晩年を過ごしています。
少し話が変わりますけれども、北朝鮮の国家犯罪によって日本の国民がたくさん北朝鮮に拉致をされていますね。まだ、どれだけ生き残っているかわからない。けれども、家族は「絶対うちのあの子は生きているはずだ」と信じて、ひたすら日本に帰ってくることを待ち望んでいます。夜道を散歩していたときに、突然屈強な男に襲われて、後ろ手に縛られ、毛布をかけられ、船に積み込まれ、どこかに連れて行かれた。拉致された人たちを小泉総理が北朝鮮に行って5人連れて帰りましたね。その当時からテレビでもよく放映され、拉致という言葉が日本の社会に多く聞かれるようになりました。私たちも、ひとごとではなくそういう情報に耳を傾けておりましたが、非常に複雑な思いでそのニュースを見てきたわけです。
療養所に入ってみてわかったことなのですが、一方的に官憲の手によって手錠までかけられて療養所に引っ張って来られ、強制隔離をされたという仲間がたくさんいるからです。
北朝鮮の国家犯罪によって日本国民が拉致をされた。これこそ、許すべかざることだと私どもは批判をしておりますが、振り返って自らのことを考えてみるときに、私たちは他国の国家犯罪ではなくて日本の官憲の手によって一方的にふるさとから拉致をされてハンセン病療養所に強制隔離をされたという経験をみんなが持っているのです。
無らい県運動という言葉がありますが、ご承知でしょうか。日中、日露戦争に勝利した日本は、先進国、文明国の仲間入りをするために富国強兵政策を取るようになりました。
戦時中のことでありますから、皆さん方ご承知ないと思うのですが。戦力にも生産力にもならない日本国民は非国民だと、私たちは子どものときによく聞かされました。国のために役に立たない人間は人間ではない。日本国民ではないというふうに強引に考えさせられた暗い時代、ましてや、らい病になった私たちは、国の役に立たないだけではなくて、ごみのように国からも社会からも見られ、全く余計な存在だと見なされたのです。
無らい県運動というのは、政府の指導の下に市民の方々が無批判に政府のその方針を受け入れて、官民一体になって一般社会からハンセン病患者をことごとく排除する、そういう運動です。昭和のはじめから戦後まで、日本の社会の津々浦々において展開されたとたくさんの記録が残されています。
具体的にどういうことが行われていたのかというと、いろんな記録を私も読み漁りましたが、わかりやすい例を一つだけご紹介します。ある農家の主人が、どうもらい病らしいと隣近所から噂され、そういえばあの人はおかしいということになって、その情報が保健所と警察に連絡された。これは放置できない、隔離をしなければいかんということで、警官と保健所の職員がその農家に駆け付けたところ、零細な農家で、家族が総出で畑の作物の手入れをしていたそうです。白衣を着た保健所の職員が来る、警官が来るということで、あっという間にたくさんの人が遠巻きにしたところ、警官が強引に、「あなたはどうもらい病らしいではないか、そうだとすれば、直ちに療養所に行ってもらわなくては困る、それが国の方針なのだ」とまくしたてたために押し問答になった。主人は、「あなたがたの立場はよくわかるけれども、私の家族は貧乏な農家で、私が療養所にいま入ると、みんなが食べていけなくなる。いま手入れをしているこの作物がすべて収穫できるまで待ってくれないか」と懇願したけれど、全く警官は聞く耳を持っておらず、嫌がる主人に手錠をかけたということです。
犯罪人に対する扱いと同じなのですね。みんなが見ている前で強引に、その患者さんとおぼしき人を引き立てて、乗用車ではなくてトラックの荷台に家畜のように積み、客車ではなくて貨車に積み込み療養所に送ったという記録がありました。みんなが見ている前で犯罪人のように手錠をかけられて引っ立てられていったその人の足跡を消すように、噴霧器で消毒をした。これみよがしに、大げさな措置をやったものだというふうに思うのですけども、そこには国の政策と狙いが見て取れるわけです。
その当時、日本は文明国の仲間入りをしたいと望んでいました。しかし、諸外国から、日本では多くのハンセン病患者を放置しているではないかと批判を受けたものですから、政府は、ハンセン病患者はただちに強制隔離しなければと考えたのです。一刻も早く患者狩りを行って療養所に強制隔離すべしというのが国の基本方針になったため、「あの患者を放置しておくと、みんなハンセン病に感染して大変なことになるぞ」というふうに恐怖をあおりながら患者を強制隔離していったわけです。
これまでにハンセン病療養所で働いたお医者さん、看護師さん、介護人等、何万人という人たちが100年前から施設を管理、運営するために働いてこられたわけですけれども、ただの一人もハンセン病に感染をしたという記録はありません。夫婦の片方がハンセン病になり、何十年も一緒に暮らしても、配偶者に病気がうつったという例もない。それは事実なのです。それほど、らい菌というのは弱い菌であるということが科学者によって証明をされているのに、戦後になっても、無らい県運動が日本の津々浦々において続いていたという記録がたくさん残されています。つまり、「ハンセン病という病気は、発見したらただちに強制隔離しないとみんなに病気がうつってしまうぞ」ということを国が意図的に宣伝したために、市民の皆さんは必要以上に恐れて、無らい県運動に加担をしていったということなのです。
2つの大戦に勝ち、欧米のように先進国の仲間入りをしたい。そういう野望を達成するためにはハンセン病患者を社会の目から覆い隠す必要があったということです。国が設置をした検証会議の結論も、ハンセン病に対する偏見、差別は国が意図的に助長したものであるというふうに報告されています。
かつて1万2000人もいた療養所の患者さんが、いまは2000人を切ったというお話をしましたが、100人にも満たない療養所が13のうち5つもあります。九州の熊本の療養所がもっとも大きくて300人ちょっとですが、1年に約150人から160人の方が高齢のために亡くなっているわけですから、10年もすればどうなるかが推定できるようになりました。
それではこれからのハンセン病療養所をどうするのかということが、いま大きな課題となっています。国は、ハンセン病療養所をどうしようとしているのか、国会や厚生労働省に出向いて話をするのですが、全く考えていない。ハンセン病療養所の将来のことは皆さん方自身が当事者として考えてプランを出してほしいというのが厚生労働省の現在の態度です。そこで、これからの療養所はどうあるべきか、全国の療養所の中で真剣に議論されています。
すでに13ある国立ハンセン病療養所の中で、東京にある多摩全生園と熊本にある菊地恵楓園の中に保育所ができました。いま、待機児童が社会の大きな課題になっておりますが、保育所に入れたい、保育所に子どもが入ってくれないと自分は働きに出られないというお母さんがたくさんいらっしゃる。そういう社会的なニーズにハンセン病療養所も応えられるのではないかということを議論しています。さまざまな社会的なニーズがあるけれども、ハンセン病療養所として応え得るものはそうたくさんはない。しかし、保育所のようなものであれば広大な土地が利用できる。広大な敷地の中に保育所を作って、そこに子どもたちが入ってくると、新しい療養所の姿がそこから生まれるのではないかと、東京と熊本の療養所に保育所ができました。昔は、子どもは絶対にハンセン病の施設に近付けてはならないと言われていましたから、子どもが療養所の中で遊ぶということは考えてもみなかった。そういう時代が長く続いたのですが、今は感染源になる人が一人もいないので、子どもたちは安心してハンセン病療養所の中で遊ぶようになりました。
もう一つは、福祉施設です。社会保障政策が不十分であるために、いま、お年寄りたちの居場所がなくなっている。若いころには額に汗をして日本の高度経済成長のために必死になって働いてきた人たちが、いま70歳、80歳になりました。昔の大家族主義時代には家族みんなが高齢者を大切にした。しかし、いまでは少子高齢化社会とか核家族という言葉があるように、お年寄りの面倒を見きれないので、うちのじいちゃんは福祉施設に入れてほしいという家族がたくさんいらっしゃる。そこで、岡山県に2つあるハンセン病療養所の中の一つ邑久光明園に老人福祉施設を作ることになりました。平成27年のうちに光明園の中に老人福祉施設ができるということが決まりいま作業が進められています。
あちらこちらにそういう話があるようです。このように、ハンセン病療養所の今後を考えてみるときに、何らかの形で社会的なニーズに応えられるのではないかと私たちは考え始めています。
しかし、まだまだハンセン病問題を全く知らない、とても恐ろしがっている、そんな所には死んでも行きたくないという市民の方がかなりいらっしゃることも事実です。老人の福祉施設がハンセン病療養所の中にできるよと話したときに、「うちのおじいちゃんを1日も早く引き受けてほしい」というご意見が出される一方で、「死んでもそんな所に行くもんか」という意見も出てくる。それがまだ日本の社会の実情なのですね。
私の末の妹は、結婚話が出ても、兄に当たる私がハンセン病療養所に入っているということが障害になって、ハンセン病患者がいるような家からは嫁にもらう気はないと、4回も5回も破談を経験しています。ようやく今度は話がまとまりそうだと母親からの連絡を受けたとき、よく話を聞いてみると、やはり私のことが障害になっていることが分かりました。当人同士は相思相愛で結婚したいという願望を持っているけども、相手側のご家族が頑としてそれを許さない。しかし、最終的に本人たちの強い気持ちにほだされたと言うのでしょうか、そのご家族がハンセン病療養所に調査に来たようなのです。私の病気は治っているということを専門医から聞き、徹底的に教育を受けたそうです。そこで、相手方のご家族が、「私たちの考えかたが間違っていた」と、そういうふうに展開が変わっていった。しかし、当人同士の気持ちを尊重して結婚は認めるけども、療養所にいるその兄と接触することはまかりならんと。その条件を飲むのであれば、私の妹との結婚を認めるということになりました。まことにもっておかしな話ではあるのですけども、妹としては、どうしても彼と結婚をしたいということを優先し、「悪いけれども生涯お兄さんとは会わないという誓約をしました」と言ってきました。子どものころ、母に命じられてその妹を背中におんぶして、おしっこをかけられたという記憶まで鮮明に残っている妹です。妹のご主人は転勤が多くて、いま私が住んでいる東京の東村山市の療養所の近くに住んでいるのですが、すぐ目と鼻の先に妹が暮らしていても会うことはできません。子どもたちも一人前になっていて、30年も40年も時間が流れているのに、全く会いたいとも言ってこない。そういう状況がまだ続いているのです。
東京都内に出るときには、ひょっとすると、妹と同じ電車に乗り合わせるかもしれないという思いがいまだに去来をするのですけども、自分から会いに行くようなことだけはすまいと、私は何も手出しをせずに、遠くから妹の幸せを祈っているのです。
私は各県や大学、高校から呼ばれてよく話しに行くのですけども、福岡だけは招かれても行ったことがありませんでした。全部お断りしてきたのですが、ちょうど10年ほど前、福岡県から、「あなたはいろんな所に出向いて講演をしているけれども、なぜあなたの地元でハンセン病の講演をしてくれないのですか。ぜひ福岡で講演会をやってください。県は全面的にそれを支援したい」と、積極的なお話を頂きました。
そこで家族、親戚にさっそく相談をしてみたところ、みんなから反対されました。ようやく私の存在を周りの人は忘れてくれたのに、いまになってふるさとに帰って、いくら病気が治っているといっても、みんなの前で講演なんかしてもらってはおおいに困ると。それだけはやってくれるなというのが、家族、親戚の意見でした。
説得するのに2年かかりました。辛抱強く説得しましたが、それでも「どうぞおやりください。よくわかった」という言葉は最後まで聞けませんでした。しかし、私はどうしても地元で講演をやりたかったので、県にお願いするとさっそく県は動き始めました。私の町の市民会館で講演会を開くことが決まり、神美知宏が元気で帰ってきて、ふるさとで講演会をやることになったということがマスコミに知れて、テレビや新聞で宣伝されることになった。そうなると、やはり大変なのは家族と親戚なのですよね。「こういうことがあるから、私たちは反対をしたのだ」と。寝た子を起こすなという言いかたがありますけども、「とにかくおまえはわれわれの目の前から消えてくれればいい」という思いがあるに違いないというのが私の正直な気持ちでした。
しかし、新聞やテレビを見た地元の皆さん方の目に留まり評判になりました。小学校の同級生がまず衝撃を受けたようです。とっくに死んでいると思っていた私が地元に戻って講演会をやるということが知れ渡ることになって、遠くからたくさん集まってくれた。当日700人くらいの方にお集まりいただいたのですが、講演会が終わったときに中央に陣取っていた17名のお年寄りがドカドカと壇上に上がってきたのですね。なぜ高齢の皆さんがステージの上に駆け上がってきたのだろうかといぶかしく思っていました。ところが、その人たちの中から、「みっちゃん、みっちゃん」という声が聞こえる。ドキンとしましたね。「じいさん、ばあさんがなぜ」っていうふうに思ったけど、自分と同じ年の同級生なので、さもありなんということがすぐ納得できて、ステージの上で大騒ぎになった。お帰りになり始めたお客様が、また戻ってきて、何事かということになった経験があります。
今では、毎年九州に里帰りをしておりますが、何の抵抗もない。小学校の同級生が畑でこういうものが採れたよと言って持ってきてくれる。偏見と差別があるというけれども、人間相互の気持ちが通じ合えば、そういうものは理屈じゃなくていっぺんに吹き飛ぶという経験をたくさん重ねてまいりました。
皆さん方は人権問題に積極的に取り組んでおられる、私どもからすると神様、仏様のような立場の方々ばかりだというふうに思います。人が人を差別するということはどういうことなのか、新たな角度から偏見と差別、人権、人間の尊厳という問題を、これからも引き続きお考えいただいて、ハンセン病問題についても根本的に解決するためのお働きをしていただければこれに勝る喜びはございません。
思いつくままにさまざまなことを1時間半にわたってお話させていただきました。心から皆さん方にご清聴いただいたことに対して、改めてお礼を申し上げて、私の話を終わりにします。
ありがとうございました。