人権に関するデータベース
研修講義資料
「“ちがい”を豊かさに ~共に生きる社会をつくるために~」
- 著者
- 岩山 仁
- 寄稿日(掲載日)
- 2015/03/16
皆さんこんにちは。岩山仁と申します。よろしくお願いいたします。今日は「ちがいを豊かさに」というテーマでお話しをさせていただきたいと思います。私から一方的にお話しをするのではなく、少しワークを交えながら、皆さんと一緒に考えていければと思っています。
現在世界では、自然災害を含め、いろいろなことが起きていますけれども、すべての人が本当に安心して暮らせる社会というのが、大きな意味で人権の尊重された社会ではないかと思います。特に今回の東日本大震災以降、原発の問題なども、単に被災地の支援や災害復興ということでは終わらない問題が提示されており、やはり私たちの社会の在り方というものを見直していく必要があるのではないかと思います。
今日はそういうことも含めて、単に違いをどう認め合うかということだけではなく、社会のすべての人が安心して共に生きられる社会をつくっていくためにはどうしたらいいのかということを一緒に考えていければと思います。
まず、皆さんに白い紙を1枚お配りしました。この1枚を大きく使っていきます。紙を横にして、真ん中に楕円を書いてその中にできるだけ大きく名前を書いてください。次に、4つの枠に区切ります。これから4つのことを書いていただきますが、一通り説明をしていきますのでまず聞いてください。
お互いに全く知らない人同士が集まる会合だと仮定して自己紹介をします。まずは名前を言います。次に、名前の他に1つだけと言われたら何というか考えてみてください。「私は何々です」という感じです。それを1つ目の左上の枠に書いてください。次に、「せっかくなので所属も教えていただけますか」と言われたら何というか。「私は何々の一員です」という形で2つ目の左下の枠に書いてください。書いていただく所属のグループ・カテゴリは全く自由です。仕事などは全く関係ないところで、何かの一員だと言わなければいけないとしたら何というか考えてみてください。次に「ちなみにどちらのご出身ですか?」と言われたらどこと答えるか、3つ目の右上の枠に書いてください。最後の4つ目の枠には、どこか外国に行って自己紹介をするとしたら、名前の他に何というかを書いてみてください。よろしいでしょうか。後で使いますので、必ずこの4つを埋めておいてください。
それでは早速、皆さんと一緒にワークをするところから入っていきたいと思います。その準備として、私が今から皆さんの背中にシールを貼らせていただきます。シールは文房具屋で売っているいろいろな色の丸いシールです。これも後でワークに使いますので、他の人のシールを見てもシールの色については一切しゃべらないでください。貼られていない気がするという人は手を挙げてください。大丈夫ですか。
それではワークショップのお約束ですけれども、例えば「あのとき、あの人ね、こんなこと書いていたわよ」といったことを外では決して言わないということを約束してください。よろしいでしょうか。では、その場でお立ちいただけますでしょうか。もし足が悪いとか、腰を痛めているという方がいらっしゃいましたら、その場に座ったまま笑顔で迎えていただければ結構ですので、無理はなさらないでください。
それでは今からグループ分けをします。どのようにするかというと皆さんの背中に貼ったシールの色が同じ色の人同士で集まっていただくのですが、1つだけルールがあります。今から一切言葉を使ってはいけません。口パクも駄目、筆談も駄目、指文字も駄目です。ですから自分の背中に貼られた色が何色か分からないわけですが、どうやって同じ色の人と集まるのかはご自分で考えて行動してください。一切質問は受けません。いいですか、では言葉を使わずにグループ分けをどうぞ始めてください。同じ色は1つのグループにまとまるように、同じ色の人が見つかっても、他に同じ色がいないかなと探して仲間を見つけてください。さあ、だいたい分かれてきた感じですか。ではストップしてください。
それでは質問をしていきたいと思います。どうしたら同じ色のグループに分かれることができたのでしょうか。同じ色の仲間の方に導かれてという方が多いですが、皆さんそんな感じでしょうか。他の人に同じ色の人を教えてもらって分かったという人も多いですね。
このワークで大事なことが2つあります。1つは言葉を使えないことの難しさです。言葉を使えれば赤の人、白の人と言ってしまえば簡単に分かるわけですが、言葉が使えないことで本当に簡単なことでもとても難しくなってしまいます。また、このワークでは言葉を使わなくても、色のついたものを指さして教えることができたわけですが、そのような簡単なことにほとんどの人が気づきませんでした。つまり、言葉が使えないことが引き起こすある種のパニック状態、それが余計に多くの困難を引き起こしてしまうわけです。私がこういう活動に関わる大きなきっかけになったのは阪神淡路大震災だったのですけれども、まさに震災のときなどは、実際にそのようなことが起きているのです。阪神淡路大震災のときには、被災地に約8万人の外国の人がいて、そのうちの2万人は言葉が全く分からない人でした。そうすると、本当にその場で何が起きているかさえも分からないわけです。そして、普段、ただでさえ困難なことが余計に困難な状態を引き起こし、どうしたらよいのかわからないという状況になってしまうのです。
もう1つは、今日は自分の背中にシールを貼られてしまったわけですから、自分の色が分からないわけです。ですから言葉を使ってはいけないと言われたときに「え、どうするの」と、一瞬どうしていいか分からなかったという人もいましたよね。自分自身ではどうすることもできない。しかし、他の人が見ればすぐに分かります。ここが大事なポイントです。要するに自分自身では分からない、どうしようもないことでも、他の人がちょっとサポートしてあげれば簡単にできることがいろいろとあるわけです。社会の中でもこういうことが実はたくさんあります。ある人には非常に困難なことでも、誰かが気付いてちょっとサポートしてあげれば、簡単にできることというのがたくさんあるのではないかと思います。しかし多くの人は気づくことができない、または気づいても一歩を踏み出すことができないのだと思います。
先ほど阪神淡路大震災の話をしましたが、最初ボランティアから始まった外国人のサポートが、多文化共生センターというNPOになりました。そのとき、私たちがボランティアを募集すると、ほとんどの人は「私は、外国語ができないから無理です」と言われるわけです。でも実は外国語が分からなくても、日本に住んでいて日本のことがよく分かっていればサポートしてあげられることが実はたくさんあります。そこに気付いてちょっと一歩を踏み出せるかどうかがかぎになってきます。誰かが一歩踏み出したことで、困難から救われる人も実はたくさんいるのではないかと思います。
しかし、そこで一歩を踏み出せるか否かの違いはどこにあるのでしょうか?例えば、町中にごみが落ちている。まずそこに気付く人もいれば気付かない人もいますし、気づいていてもそのままにする人もいるわけです。町を歩いていてごみが落ちていたときにどうしますか? 家の前に落ちていたら拾いますよね。「誰だ、こんなところにごみを捨てたのは、腹立つわ」みたいな感じで拾いますね。しかし、駅前に落ちていた場合は拾わないかもしれません。この違いは一体何かということです。要するに社会に起きる出来事を自分のことと思えるか、思えないかということです。
また、今日のワークでは、最初は「え、どうしたらいいの?」と、分からなかった人も、誰かが気付いて引き合わせいるのを見て、「あ、何だ、そうすればいいんだ」と思って自分も他の人を引き合わせたり、自分も背中のシールを見せに行ったり、積極的に動き始めてグループができてきました。
しかし、この社会の中ではなかなかそうはいかないことが多い。誰かに任せてしまって「あ、この人がやっているからいいわ」と通り過ぎてしまう。そうするとなかなか社会は変わっていかないのではないかと思います。多くの人たちが社会で起きている出来事に気付いて、自分たちの社会の出来事なのだから、自分にも関係のあることだと思って意識して行動に移す。ここが非常に大事なポイントではないかと思います。
さて、そんな話をしている中でも、「いったい俺は何色だったんだ?」と思っている方がひょっとしたらいるのではないかと思うのですが、最終的に色がはっきり分からなかった、グループに入れなかったという方がいらしたら、ちょっと前に出て来ていただけますか。はい、ありがとうございます。
実はこの方たちのシールは二色や一人だけの色だったのです。何かみんなから追い出されてしまった気分、何か居場所を失ったような感じ、「自分は一体どこに行けばいいんだ」といった感じですよね。はい、すみませんでした。しかし、実は社会の中でもこういうことがたくさんあるのではないでしょうか。二色で同じ色が入っていても、他にも違う色が入っていると「この人、ちょっと違うんじゃない」ということになってしまう。周囲の人は、別に排除しようだとか、のけ者にしようと思ったわけではないけれども残されてしまう。例えば両親の国籍や人種が違う人にとっては、国籍や人種でグループをつくられてしまったら一体どこに自分が入ればいいのかと思うでしょう。もちろんグループをつくった方は、この人たちをのけ者にしよう、排除しようと思ったわけではありません。けれども、結果として排除してしまったり、傷つけてしまったりということが実はたくさんあるのではないかと思います。
私たちが人権問題や差別ということを考えるときには、往々にして、あからさまな攻撃的なことばかりを考えます。自分はそんなことはしない、関係ないと思ってしまいがちですけれども、気づかないことで、結果として排除してしまったり傷つけたりしている。グループに入れない人たち、排除されてしまう人たちを生み出すことになっているのではないかということです。
今日、残されてしまった方々は、何となく微妙な不安な気持ちになったかと思います。内心嫌な気持ちになられたという人もいらっしゃるでしょう。実は以前にある研修でこのワークをやった後、研修終了後、残された立場になった方からクレームのメールが来たことがありました。「いくら研修のワークとはいえ、こんな嫌な思いをさせても良いと思うのか」ということでした。確かにそのときにはとても嫌な思いをされたのだと思います。しかしそこで気付いてほしいのは、確かに嫌な思いをされたかもしれませんが、それは研修の10~15分の間です。しかし、社会の中でこういう立場に立たされている人は、社会が変わらない限り一生そういう思いを背負って生きているということです。そこが大事なポイントだと思います。私たちは気付かないうちにそういう人たちを生み出しているのかもしれません。そういう社会を作っているのかもしれません。ではそれをどのようにしたらいいのか、そこを今日は考えていきたいと思います。
ちなみに、私が言うまで、別の色のシールがあることに気付かなかったという人はいらっしゃいますか。はい、ありがとうございます。やはり、これは小さいシールですし、人数が増えれば増えるほど気付かないということも起きてくるわけです。実際、これが社会の中で起きていることなのです。まずは自分自身が不安な状態の中にあるわけですから、あるグループに入れたことでホッとする。そして自分自身に問題がないと、問題を抱えている人たち、困難を抱えている人たちがひょっとしたらいるかもしれないということに思いが至らない。こういうことが実際にあるわけです。マジョリティ(多数派)は、数だけでなく社会的に有利な立場に立っている人という意味で使うこともあります。そのマジョリティ側、多数派側の人間が、マイノリティ(少数派)の人がいるかもしれない、困難を抱えている人がいるかもしれないということを意識しないと、マイノリティの存在にすら気付くことができない。自分自身が何か困難に直面しないと、または家族や友人、身近にそういう人がいないと、そこに気付きさえしないということになりかねません。それが結果として排除や差別につながってしまうのです。
今回のワークでも、皆さんは、「自分たちは、ただ言われたようにグループをつくっただけ」と思っていると思います。誰かを排除しよう、ましてや傷つけようなどとは思ってもいないわけです。この社会の中でも、そのつもりはなくても結果として誰かを排除し、傷つけているという、無意識のうちに差別しているということがたくさんあるのではないかと思います。まずはそこを意識していくということが非常に大事なポイントになるわけです。
例えば、日系ブラジル人の方なども同じような思いを抱えて生きています。ブラジルでは日系と見られ、日本に来てみればブラジル人と見られ、常に生きにくさを抱えることになります。しかし、子供さんの場合は、年齢が低ければ低いほど適応力も高く、どんどんなじんでいきます。ところが、過剰適応と言って、一生懸命なじもうとするあまり、自分が持っている文化的背景や言葉をどんどん忘れ去ってしまうことがあります。すると日本語はどんどん覚えていきますが、一方でポルトガル語を忘れていってしまう子どももいます。親御さんはそれほど簡単にはいきませんから、だんだん親子の会話が成り立たなくなっていく。または日系ですから見た目は日本人と変わらないので、ポルトガル語をしゃべっていると振り返られたりじろじろ見られたりする。それが嫌で親御さんとは外出しない、一切ポルトガル語をしゃべらないといったことになって、親子関係が難しくなっていくということがあります。
その子が日本になじんで自分は日本で生きていくのだということであれば、それも1つの選択肢かもしれませんが、事は簡単にはいきません。例えば小学校のときに来日して、「ブラジルから来た○○ちゃんです。仲良くしましょうね」と言われると、小学生のときは周囲の子も余計な世話まで焼いたりして、いろいろと仲良くしたりするわけです。けれども、だんだん高学年になって中学生になってくると、心ない子も出て来て、ちょっと変わった弁当のおかずが入っていると「おまえの弁当くさい」といったことを言ったり、中学に入って、事情を知らない子が悪気なく「何か、あいつのアクセント変だよね」みたいなことを言う。事情を知っている子も悪気なく「あいつ、ブラジル人なんだよ」と言ったりすれば、いつまで経っても「自分は違うんだ」と思わざるを得なくなってくる。または学校でも、不自由なく日常会話ができるようになってくると、よく分からない先生は、「もう、こいつは大丈夫だ」と思ってしまうわけです。
しかし、日常会話と、その言語を使って新しいことを学習するということは、また違って大変なことです。言語学では日常言語と学習言語と分けて言ったりするぐらいです。私たちも外国語で日常会話くらいできるようになったとしても、その言葉を使って全く知らない新しいことを勉強するとなったら、どれだけ難しいかお分かりいただけるかと思います。ですから例えば宿題を出されても宿題ができない。それを日本語で理解して日本語で書いていくことは大変なことです。それを親に聞いても親の方が自分よりも日本語ができない。結果としてそれをできないでいくとサボっていると思われてしまう。またはテストで解答が分かっているけれども、日本語を書くのに時間がかかって結果として点数が取れずに、この子は能力が低いと思われたりもする。すると自分の居場所を失っていくようなことになるわけです。そして本当に居場所を失って、最悪生きる場所を失い自殺をしてしまうというケースも今まで本当にたくさんありました。これをアイデンティティークライシスと言います。日本語では自己喪失の危機と言ったりしますが、これは新しく始まったことではなく、在日コリアンの方などもずっとそういう思いをされている。今は5世、6世の時代になってきて、ほとんどの方が日本で生まれ、日本で育ち、日本で教育を受けています。ところが国籍を変更しない限り選挙権はありません。北朝鮮で何かがあると、すぐに朝鮮学校の生徒が嫌がらせを受け「朝鮮へ帰れ」といったことを言われたりする。最近はヘイトスピーチが問題になっていますけれど、そういうことは今でもたくさんあります。では朝鮮半島に帰る場所があるかといえば、いまさらないわけです。では自分たちの祖国はここだと思えるかというと、そうは思えない現状がたくさんある。そうすると本当に自分たちは一体何者なのか、自分たちはどこで生きればいいのだという、本当に生きる場所を失ってしまうということが起きたりするのです。これは人生の根幹に関わる問題です。
しかし、アイデンティティーというのは、実は国籍や人種だけで決まるわけではありません。では、なぜ国籍や人種をもとにアイデンティティークライシスが起きるのでしょうか?
例えば、皆さんは先ほどの自己紹介シートにどのようなことを書かれましたか。いろいろ違うかと思いますが、例えば外国においての自己紹介のときに、「私は日本人です」のように、日本という言葉を使った方はどのくらいいらっしゃいましたか? やはり多いですね。それでは、外国という条件付けがないときに日本人と書かれた方はいらっしゃいますか? ほとんどいらっしゃいませんね。日本にいて日本国籍を持っていて日本語が喋れれば、自分が日本人であることは当たり前なので、あえて「私は日本人です」とは言いません。しかし、外国に行ってみて、周りの人の言葉が違う、見た目も違う、何かの手続をするときに日本国のパスポートを出さなければいけないとなったときに、自分は日本人だということを意識せざるを得ない状況になります。
自己紹介シートを見せ合うときも、先ほどのグループワークでグループに入れなかった方たちが、4人で見せ合っていました。もとの同じ色のグループはそのままで、グループに入れなかった人同士が何となく一緒になる。何となく共通なところでグループをつくる。実際にグループをつくらなくても心理的に「この人は仲間なんじゃないか」と思うわけです。これは人間の本能的なところで、社会心理学では内集団を形成すると言います。
例えば外国に行って、何か困ったときに全然知り合いじゃないけれども「あ、日本人だ」と思ってつい声をかけることがあると思います。それはこういう心理が働いているのです。しかし逆にいうと、こういうグループをつくるということは、そうでない人たちを生み出すということになる。これは社会心理学で外集団と言います。例えば日本の中で、見た目がちょっと違う、言葉の違う人を見て「外人さんや」と思うとき、まさにこれは外の人なわけです。では内の人は何かというと日本人ということです。あえて自分がそう思っていなくても、こういうグループを心理的につくっていることになります。
例えば「障がい者」という言葉を考えてみましょう。普段は自分のことをわざわざ「健常者です」と思っている人はいないかもしれませんが、「障がい者」という言葉を使うとき、無意識に自分はそうではない、というグルーピングをしているかもしれません。または「部落」という言い方もそうですね。「部落」に対して「一般」と言ったりします。「一般って一体何だ、どこが違うのか?」と思いますが、こういう言葉を使って、なんとなくグルーピングをしてしまうことが、結果として排除につながっているということを意識する必要があります。ちなみに「外人」「障害者」「部落」という差別的な用語をあえてここで使いますが、こういう言葉もそういうことを気にしない人にとってみれば「何が悪いの?」という話になってしまいます。ですから自分が無意識に、何か攻撃しよう、排除しよう、傷つけようと思っているわけではないけれども、結果として、そういう行為につながっているかもしれないということがたくさんあるということに気づいていただきたいと思います。
ところで、人が持っているアイデンティティーを形成する要素、属性、そういうものは全くすべて同じ人というのは、世界広しといえども1人もいないわけです。例え親きょうだいといっても当然顔も違えば骨格も違う、年齢も違います。人のアイデンティティーを形成する要素というものは、国籍、人種だけではなく様々なものがあります。ここが大事なポイントですが、皆さん、ここに挙げた「人種」「民族」「第一言語」「出身地」「性別」「年齢」「顔」「骨格」「障碍(がい)」などには、ある共通点があります。それは何でしょう。そうですね。自分では選べない、自分では変えられないものです。ほとんどが生まれたときに決まっているものなのですが、障がいのあるなしについては後天的なこともあります。しかし、それが自分では変えられないとなったときに、アイデンティティーを形成する要素は他にもいろいろあるにもかかわらず、この人は障がい者というくくりに入れられてしまったりします。次に「学歴」「国籍」「宗教」「使用言語」「居住地」「職業」「収入」「子どもの有無」「既婚、未婚」「体型」「性格」などは、変えることができなくはないけれども、人によっては非常に難しいものです。最後の「生活習慣」「趣味」「嗜好」「思考様式」「行動様式」「髪型」「服装」などは物理的・技術的に変えることは簡単だけれども、その人のアイデンティティー、パーソナリティーを形成するのに重要な役割を持っているものです。こういうものがたくさん積み重なって、さらにはその人がずっと生きてきた間に、いろいろな経験が積み重なり、その人のアイデンティティーが形成されていくものだと思います。ですから、個人個人が本当に多様で、みんな違ってみんないい、ということです。
ところが、人間が社会生活を営むにあたって、どうしても何々の一員として行動しなければならないことがあります。あるところでは会社の一員、学校の一員、地域の一員、パスポートなどを出すときは日本国の一員として見られています。こういう何々の一員として自己を理解し、行動するということを社会的アイデンティティーといいますが、そういう社会的アイデンティティーを求められる場面で、自分では変えることができない、あるいは変えることが非常に困難な要素を持ち出されてしまうと、どうしてもそこには入れない人を生み出してしまいます。その人の努力ではどうしようもないことや、努力しようにも、もすごく大きなハンディを負うことを持ち出されてしまうと、その人はもう社会参加できない、または社会参加することを阻まれてしまうということが起きてきます。
ですから、こういうグループをつくったら困る人がいるのではないか、こういう制度や法律があったら困る人がいるのではないかということを常に気を付けていく必要があるということです。
グローバル化していく社会の中で、人も経済もどんどん変化しています。それを今までの枠組みの中で押さえようとすると、やはり排除されてしまう人を生み出してしまうことがあります。そこはあえて意識しないと見えてこない部分ですし、そこを意識していくことが非常に大事です。
皆さんもうお気付きかと思いますが、例えばここに「障碍」のガイという字を、あえてこのように書きましたけれども、もともと「障碍」のガイはこういう字を使っていたわけです。これが常用漢字から外れたときに音が同じだということで、「障害」に統一されてしまいました。しかし、漢字の意味は全然違います。「碍」は動きに差し障りがあるという意味で、「害」は何かに迷惑を及ぼすという意味の漢字です。そのように考えれば、「障害者」と使うのは当然よくないことが分かります。しかし、そのことを知らない人は「何が悪いの?」と思ってしまう。まだまだ「障害」という漢字を使っているところもたくさんあります。
かく言う私も高校を卒業するまで、全然そんなことを考えてもみませんでした。学生のときにある障がい者のグループのケアに入っているときに、そこの会報では必ず「碍」の字を使いました。恥ずかしながら私はその当時、この字を知らなかったものですから「何でこんな字を使うんですか」と聞いたのです。すると意味を教えてくれました。そこで初めて「あ、そうか」と気付いたのです。それから30年ほど経って、ようやくいろいろなところで、「障がい者」と、ひらがなで表記されるようになってきていますが、それでもなぜひらがなで表記されるのかを知らない人も、ひょっとしたらいるかもしれません。
また、今日の自己紹介シートですけれども、私がこれを表示したのを見て「え、それはまずいんじゃないの?」と思った方はいらっしゃいますか? はい、どんなことに気付かれましたか。
そうですね。「氏名」の「氏」というのは身分を表す言葉です。また、氏名と書くことによって、嫌な思いをする人もいるのです。本名を出すことによって差別を受けるために、普段は通称名で生きている人たちがいるからです。または在日コリアン1世の人たちのように創氏改名で無理やり自分の名前を日本名に変えさせられたという辛い歴史を持った人たちもいます。「氏名」と書くと、そういう人たちに、多少なりとも嫌な思いをさせることになるので、普段のワークショップのときには、おなまえとか今日呼んでほしいニックネームなどとするのですが、今日はあえてここに氏名と書きました。でも、そのような背景を知らなければ「あ、フルネームを書けばいいのね」とスルーしてしまいますよね。ですから、まず気付こうとする意識を持つことが大事ですが、それと同時に、何が問題なのかということを知らなければならないと思います。
または「何処どこの出身です」というのも同じです。自己紹介をするとき、または相手のことを聞くときに、「どちらのご出身ですか」と聞くことがあります。別に差し障りのない言葉だと思う方もいるかもしれませんが、人によっては出身地を理由に差別を受けてきた人もいるわけです。
たとえば、そのことについて本も出されているので例に挙げますが、猿回しの村崎太郎さん、彼はいわゆる被差別部落の出身で、最初に人気が出た頃、いつそのことを聞かれるかもしれないと思って、いつもびくびくしていたそうです。だんだん精神的に追い詰められてしまい、あるときに覚悟を決めて「自分は同和地区出身です」とカミングアウトしました。何が起きたと思いますか。放送局から生放送の番組に「来週から来ないでください」と言われ、テレビ出演のオファーが一気に減ったということです。日本の社会というのはまだそのような状況だったのですね。彼は打ちのめされてしまって、本当にうつになってしまい一時メディアから姿を消しました。その後、様々な葛藤を乗り越えて立ち直っていかれるのですが、このように何気なく出身地を聞くことによって、相手が嫌な思いをするということもあるわけです。
自己紹介シートの「私は何々です」という欄に、私は健聴者です、耳が聞こえます、と書いた方はいらっしゃいますか?「そんなこと当たり前だから書かないよ」と思うかもしれませんが、その逆だったらどうでしょうか。その逆だったら必ず書くと思います。あるとき私のワークに参加してくださった人の中に難聴の方がいらして、その人は「私は難聴です」と書かれました。それを書かないと、自分が相手の話をきちんと聞いていないと思われたりするからです。しかし、自分自身がそういう困難を抱えていない、周囲にそういう人がいない場合、そういう人がいるかもしれない、ということにさえなかなか気付くことができません。
今日のワークでも、グループができた色のシール意外に、2色や変わった色のシールがあることに気付かなかったという人がたくさんいました。小さいシールですし、人数が増えれば増えるほど気付かない人が増えていきます。このような閉じられた空間の中でさえ気付かれないのですから、実際の社会ではどうでしょうか。いろいろなことに困っているのに誰も気付いてくれない。助けを求めているのに誰も助けてくれない。そんなことが実はたくさんあるのではないかと思います。目が見える、耳が聞こえる、手が使える、足で歩ける、日本で日本国籍を持っている、日本語が話せる、それができる人に取ってみれば本当に何でもないことかもしれません。しかし、逆にそれができない人にとっては、それはとてつもなく大きな壁になってしまうのです。ある意味そういうものが、この社会で生きるための社会的特権になっています。なぜそんな当たり前のことが社会的な特権になるのか、要はこの社会がマジョリティ側に都合のいいようにできているからです。
例えば日本では日本語をしゃべれる人にとって都合のいいようになっている。日本なのだからそれはあたりまえと思われるかもしれません。しかし、日本語が不自由な人は生きる権利を少し奪われてしまっても、それは仕方がないことなのでしょうか。
もっと身近なことで言えばハサミや包丁、いろいろな道具や機械はほとんど右利き用にできています。ちなみに自転車もほぼ100%右利き用だと知っていますか? 全部チェーンが右側に付いていますね。あれは右足を上げて乗りやすいようになっているわけです。僕は子どもが4人いるのですが、1人だけ左利きがいます。その子に自転車を覚えさせるとき初めて、自転車って右利き用なのだということに気付きました。僕自身が右利きですからそれまでは全くそんなことを気にもしていませんでした。人間ってそんなものかもしれません。自分が困るだとか身近にそういう人がいないと、なかなか気付けないものかもしれません。
そのようにすべてのものがマジョリティ側に都合のいいようにできているわけです。日本は民主主義の世の中ですから、多くの人の意見が反映されてこの社会が造られていくはずなのですが、最終的にたくさんの人の意見を集約しようとすると、まさに選挙がそうであるように、最終的には多数決になることがほとんどです。そうすると大抵の場合、マイノリティの意見は聞き入れてもらえません。ほとんどの場合、無視されてしまうのです。いくら声を上げても、その声は社会に届かないのです。例えば在日コリアンの人に、「そんなに日本に住みたかったら日本国籍取ればいいじゃん」といった強引なことを言う人がいますが、そんな簡単な話ではないのです。いくら日本国籍に変えても、それに対して誹謗中傷されるようなこともあります。やはりマジョリティ側の人間が「あ、これで困っている人がいるかもしれない」と、そこに気付いて変えていかなければ社会は変わらないということです。知らない、気付かないということが結果として誰かを排除したり傷つけることにつながっているということに、まず気付いていくということ、そこが大事だということです。
日本の社会は、一見、物が豊かで平和な世の中です。けれども毎年3万人近い人が自らの命を絶っています。2011(平成23)年までは13年間連続で3万人を超えていました。一昨年は3万人を切ったといっても、東日本大震災で亡くなった方、行方不明の方を含めた数よりも、もっとずっと多い人たちが毎年自ら命を絶っています。こうして一日過ごしている間にも日本のどこかで100人近い人が自らの命を絶っているというのは、異常な世の中です。そんなことがあっていいはずがありません。もちろんその原因にはさまざまな個人的事情があるとは思いますが、共通しているのは本当に追い詰められている人がいるのに、そのことを知らない、そういう状況について気付かないことがあるという現状です。都会の中でたくさんの人たちが一緒にいても、お互いに挨拶をしないこともあります。今の社会というのは、たくさんの人たちが一緒にいることはいる、共存してはいるようですが、共には生きていないのではないかと思います。要するに社会の中で、コミュニケーションや思いやり、つながりなどがなくなり、共に生きることのない社会になってしまっている、それが大きな問題ではないかと思います。
では共に生きる社会をつくるためにはどのようにしたら良いのでしょうか。ここで皆さんに一緒考えてほしいと思います。ちょっとスクリーンを見てください。ここに「口」という漢字があります。この口に2本足すと田んぼの「田」になります。今から30秒ほど時間を計りますので、「口」に2本足してできる別の漢字をできるだけたくさん書いてください。相談や質問はなしです。実際にある漢字です。適当につくらないでください。では30秒で、どうぞ。
はい、ストップです。さあ、どうだったでしょうか。10種類以上書けた人、30秒では難しいですかね。では、5種類以上書けた人、何人かいますね。では実際はどのくらいあるのか見てみたいと思います。ほとんどが簡単な漢字ですが、これだけたくさんあるわけです。私は、「口」に2本足してできる別の漢字と言っただけですが、先入観や固定観念に捉われて、「口」の外に文字を出すことに気付かなかった人や、曲線を使うことに気付かなかった人がいるかもしれません。私がここに田んぼの田を書いたことも影響しているでしょう。
つまり、私たちは、先入観や固定観念があると簡単なことでも見えなくなってしまったり、気付かなくなってしまうこともたくさんあるということです。ですから、そのような先入観や固定観念を取り払っていろいろなものを見てみることが大事です。中には、自分にとって当たり前のことが相手にとってはそうでないことも、たくさんあるわけです。しかし、その違いを間違っていると言ってしまったら、そこで終わってしまいます。間違っているのではなくて、お互いの違いと捉えることが必要です。そこで、「どうしてこの人はこういうふうに考えるのかな、こういうことを言うのかな」と考えてみる。そしてお互いに別の次元で解決策を考えてみることが大事なことです。
また、この違いというのは、往々にして乗り越えなければいけない壁のように、障がいのように思われてしまいがちなのですが、実はそうではないと思います。ちなみに今自分が書いた漢字をお隣同士、隣がいない方は3人で足してみてください。数ではなく種類です。同じものがあったらそれは一種類としてカウントします。足してみたら何種類になるか、見せ合って足してみてください。さあ、どうでしょうか。足したら増えたという人。足したけど増えない人。同じものを書いたら増えないですよね。では、足したら減ったという人?それはいませんね。ここが大事なポイントです。共生する、共に生きるというのはそういうことなのではないでしょうか。例えば3種類ずつ書いて、全く同じものを書いていたら「あ、同じだね」という共感はあるかもしれませんが、そこで種類は増えないわけです。しかし、違うものを書いていたらプラスになっていく、豊かになっていくのです。このような違いを社会の豊かさにしていくということが、これからの社会の中では非常に大切なことではないかと思います。
私は、先ほどお話した多文化共生センターでボランティアから事務局長になり、その後外国人向けに情報提供をする会社をつくりました。その会社をつくったときに日本国籍を持つ人は私を含めて2人だけでした。あとはブラジル人、ペルー人、カナダ人、フィリピン人、スリランカ人もいました。最初は「こんなことまで説明しなければいけないの」と思うこともありましたが、その後、ブラジル人のスタッフが家族の都合でブラジルに帰らなければいけなくなったので、ブラジルで情報を集めてサイトにアップロードしてもらうことにしました。すると、すぐにブラジルのニュースを見ることができて、それがすごく受けたのです。「ペルー人のスタッフの弟がリマにいるからそこでも同じことができるよ」、「フィリピンに知り合いがいるからそこでもできるよ」ということになり、本当に小さな会社だったのですが、日本にいながら世界中のニュースをオンタイムで見られるというサービスを提供できるようになりました。これが日本人のスタッフだけでしたら、現地に行ってスタッフを採用して大変な話だったと思います。もともと違いがあるからこそ、豊かになっていくということがたくさんあるのではないかと思います。そういうことがこれからの社会ではとても大事なことなのではないでしょうか。
違いをプラスにしていく、違いを社会の豊かさにしていく、これだけ言うと非常に聞こえのいい言葉ですが、実はそこでも乗り越えなければいけないことがたくさんあります。
これまで人権研修というと、どうしてもこういう差別事象がありました、こんな言葉使いはやめましょうといった表面的な事象についての研修が多かったかもしれませんが、根本的なところが変わらなければいつまで経っても同じような事が出て来てしまいます。たとえば、今は町中に差別落書きをするようなことは少なくなってきたかもしれません。しかし、ネット上では誹謗中傷も絶えませんし、本当にひどいホームページがあります。ですから根本的なところを変えていかない限りはなくなっていかないと思います。この、違いを社会の豊かさにしていくということもそこを考えていかないといけないと思っています。そういう意味で、次に、人間の行動のメカニズムを見ていきたいと思います。
人間は生まれてからいろいろな体験をし、五感からいろいろな情報をインプットしていきます。最初は脳内の海馬などの短期ファイルに入り、次にそれを自分の脳内のデータベースに長期保存、長期記憶していく、または潜在意識の中に封じ込んでいくのです。そして、そのデータベースを基にしてその後の行動を決めていきます。ですから最初にインプットされる情報は、よい悪いはなく、単なる情報です。しかしそのときに周囲の人たちがどのように反応するのか、自分がどのように感じたかによって、いろいろな感情が結び付いていきます。それを後から検索していくのですけれども、普段からやっていることは無意識のうちに行動することがあります。これは条件反射的行動です。大人になると8割、9割が条件反射的行動だと言われています。特に深く考えずにサッと行動してしまう。普段あまりなじみのないような現象が起きると、その体験データベースを基にして、全く同じことでなくても、「これはこういうことかもしれない」と解釈をしてその行動を判断します。その判断基準もごく単純に言えば、痛みを避けるか、快感を求めるかのどちらかになります。そしてここから行動の選択をするわけですが、これも大きく分ければポジティブな選択かネガティブな選択かの2つに1つになります。例えば、皆さんは頭痛があるときにどうしますか。ポジティブに頭痛を治すにはどうしたらいいでしょうか。そうですね、頭痛の原因は何だろうと考えて、普段から体調を整えていくようにする、健康になるようにしていくというのがポジティブな選択といえるでしょう。その一方で、痛み止めを飲むというのは、ポジティブに痛みを治しているようで、長期的に見ると根本的な改善にはなっていませんよね。それどころか、副作用などもあるかもしれません。つまり、視点を変えれば実はネガティブな選択です。しかし、それまでに刷り込まれた判断基準に基づいてそれをポジティブな選択だと勘違いして行動してしまうこともあるわけです。
今度は、快感について考えてみます。快感を求めるのだからすべてポジティブな行動のように思えるかもしれませんが、たとえば「積み木を積み上げて、どのチームが1番になるかを競争する」という場面を考えてみてください。どのようにしたら1番になれるでしょうか。「バランスよく崩れないように積み立てていく」。これはポジティブな選択です。ネガティブな選択としては、他のチームのものを壊すという方法がありますね。これは快感を得るために他者を貶めるというネガティブな選択をするということです。実は人間は無意識のうちにそのようなことをしています。例えば職場で同僚のミスを他の人にちょっと言ったりするのは、自分が優位に立ちたいという、どこかそういう深層心理が潜んでいるのではないでしょうか。そういうことが人間の行動に表れてきます。
次に、その選択に基づいて実際に行動するわけですが、その行動がまた体験となって再びインプットされていきます。ですから最初の体験というものが非常に大きな意味を持つわけですが、たいていの場合最初の体験は幼少期にあり、ほとんどの人は自分の潜在意識のプログラムを形成することになる最初の体験について覚えていません。ですから、なぜ自分がその選択をするのか、根本的なことに気づくことなく行動しています。
また、動物と人間の違うところは、人間は他者の行動を参照することができるということです。これが人間にとても大きな影響を与えています。特に小さいうちは、親きょうだいや一緒に住んでいる大人、学校や幼稚園の先生、友だちなど、いろいろな人からいろいろなことを言われて、この社会の中で生きていくための術をいっぱい刷り込まれていきます。その時の体験はほとんど記憶の奥底にしまわれてしまうのですが、その時のルールは残っています。それはある意味社会的な刷り込みです。この社会の中でこれが当たり前ということが、刷り込まれていくのです。そういったことが潜在意識のプログラムになってほとんどの人は動いています。ですからそこに気付かない限り、表面的なことを変えても根本的には改善していきません。
その潜在意識のプログラムが思い込みになって、差別や人権侵害を生むメカニズムになっています。ある人権研修で、企業の事例報告をしに九州から来た人が話してくれました。九州のある地域では部落差別が非常にひどい時代がありました。その方も小さい頃、おばあちゃんから「部落の子とは絶対に遊んではいけないよ」と言われて育ったそうです。ですから、被差別部落の子どもをいじめたこともあったと言われていました。ところが、大人になってその人が勤めた会社が、部落地名総監を買ったために問題になったそうです。企業が就職採用をするにあたり、被差別部落の地名が書かれた図書を買ってそこの出身者は採用しないという事件がありましたが、その会社も部落地名総監を買っていたということが発覚し、その対策のために人権研修をすることになったのですが、彼はたまたまその研修担当になったそうです。彼は正直なところ嫌だなと思ったのですが、担当になっていろいろと学んでいくうちに部落差別というものは根拠のないことだと分かったそうです。しかし、それなのにも関わらず、初めて同和地区出身者との懇話会に行くときに、会場の前で足が震えたと言っていました。それくらい、小さいころの体験は潜在意識の中に刷込まれてしまうのです。
そのような思い込みは偏見につながっていきます。その偏見をそのままにしていると、条件反射的に差別行動が起きてきます。今ヘイトスピーチをしている人たちも深く考えずに、全く根拠のないことを真に受けて差別行動を行っているのだと思います。
さらには自分を守るために他者を攻撃する場合もあります。例えばいじめが悪いということは分かっていても、「やめろよ」と言うと自分が攻撃されてしまうから、攻撃する側に回ったり、傍観したりしてしまう。
また、先ほどの積み木の例ですが、自分の利益を確保するために他者をおとしめるというようなことも起きてきます。こういうことが、いじめ・排除・差別につながっていきますし、人権侵害になっていくわけです。さらに怖いのはこの行動がまた体験となって再びインプットされることです。人間というのは自分の行動を肯定化しますから、そこであえて自分が意識して、客観的に見て改めていかない限りまた繰り返してしまうのです。ですから人権侵害が繰り返されることになりますし、さらにメディアや社会的影響力の強い者によって肯定されると、これがまた大きな社会的刷り込みになっていきます。
では、共に生きる社会にするためにはどのようにしたら良いでしょうか。まずは気付こうとする意識が大切です。まずマイノリティへの視点を持つということです。そのためには自分が当たり前だと思ってきたことを見直さなければなりません。しかし、何が問題かということが分かっていなければ、いくら見直しても発見できません。
例えば今日のシールには、全部に字が書いてありました。私が全部マジックで書くのですが、なぜだかおわかりでしょうか?それは色の識別ができない方が中にはいらっしゃるからです。しかしそのことに気づかずに色だけでワークをすれば、そのような方を傷つけることになりますし、その方はワークに参加できないことになります。ですから文字を書くことで判別するようにしているのです。
まずはこの社会で何か困っている人がいることに気付いてください。そして何が問題かを見極め、それを解決するためには、どのようにしたら良いのか考え行動するということが大切です。気づこうとする意識、偏りのない知識と客観的な視点を持って解決のための行動をとるということです。
そして平等な社会参加を可能にする制度をつくっていくことが必要だと思います。。例えば今日のシールに話を戻すと、シールが2色だった人のことを、周囲の人が気づいて、どちらかの色のグループに入れてあげることができたかもしれません。では、一人だけの色の人はどうすれば良かったのでしょうか?実は全員のシールに黒で字が書いてあったので、全員が黒で一緒のグループになってもよかったのかもしれません。そんなことに気付いて、みんなが参加できるようにしていくということが大切ではないでしょうか。一人ひとりがそのような意識を持って変えていくということが重要なのです。
それなのに、先ほどのヘイトスピーチなどは違いをあげつらっていて、ひどいものです。ネットで検索すると出て来ますが、本当に聞くに耐えないひどいことを朝鮮学校や在日コリアンの集中地域に向かって集団で叫んでいる。警官はその周りにいるのにそれを止めることもしません。日本では人種差別を禁止する法律がないからできないというのです。
しかし、日本は国連からも対処勧告をされています。日本は人種差別撤廃条約に批准しているにもかかわらず、そういう法律をつくっていないということ自体が問題であると思います。こういったことは、単に「みんなで仲良くやっていこう」だけではどうしようもない部分があるので、きちんと法律や条例をつくって対処していく必要があると思います。ヘイトスピーチをしている人たちは、自分では正しいことをやっていると思っているのかもしれませんが、根本的に間違っていますし、ある人が振りかざす「正義」というものが、相手の人を傷つけることになっているのでれば、それは本当の正義ではないと気づくべきだと思います。自分の正しさを主張するよりも、お互いにハッピーになれることを考える、当たり前のことですが、これが本当に大事なことなのではないでしょうか。
1つの例をご紹介します。実際にあった話です。サンリオのキャシーちゃんを知っていますか。キティちゃんのお友達という設定のうさぎのキャラクターです。そのキャシーちゃんが、ディック・ブルーナという絵本作家のキャラクターであるミッフィーの盗作じゃないかとブルーナさんから訴えられました。しかし、サンリオは「これはキティちゃんの仲間ですよ、ほら、耳を取ったらキティちゃんです」と言って、裁判になりました。ところが東日本大震災の後に、ブルーナさんから、「こんな訴訟をするよりも、その費用を被災地の復旧に充てよう」という提案があって、お互いの訴訟をすべて取り下げて当時のお金で1,760万円を被災地に寄付したということです。
お互いの主張は平行線で、どちらも正しかったかもしれませんが、そんなことで争うよりも、もっと社会のためになることに力を注ごうということで合意したのです。このように違う次元で解決策を見出していくということも大事なことなのではないかと思います。そのようにお互いを認め合って、共に生きる社会をつくっていくことができたら良いなと思います。
人権とは人が生きる権利と言われていますが、単に生きられればそれでいいというものではありません。人権とは、人が「幸せに」生きる権利なのではないかと思います。そのためにまず自分自身の枠を超えて考えて行動する、自分の当たり前を超えて考えて行動する、そして組織の枠を超えて行動する、そしてまた地域の枠を超えて、または国境の枠を超えて考えて行動することが大事だと思います。それまでの物事の捉え方を根本的に変えることを「パラダイムシフト」と言いますが、そういったことが必要だと思いますし、そういう意味では、時間の枠を超えて考え、行動することも大切だと思います。
私が学生の時に、障がいのある方のグループのケアに入ったことがありました。その時に、生まれつき腰も手足も曲がってしまって、前後に腰と首が動かせるだけという方がいました。しかし、その方は言語障がいがなかったので施設を出て、自分でアパートを借りて、自立生活をして、電動車いすでいろいろなところに講演に行ったり、口で棒を加えてワープロを打って原稿を書いたりして、社会にいろいろなことを訴えていました。その方にある時言われたことがあります。「岩山君、僕も本当は施設にいる方が楽なんだよ、君たちみたいにボランティアに迷惑をかけることもないし」。彼はそのとき迷惑という言葉を使いました。障害のある人たちに、「迷惑をかけている」と思わせている社会があるということに気付いたのはだいぶ後でしたが、そのとき彼は確かにそう言ったのです。実際はボランティアを集めるだけでも大変でしたし、腰が曲がっていますから寝返りも打てないので、寝る時も、もともと見ず知らずのボランティアがほとんど24時間側にいることになる。そのストレスも相当なものだったと思います。何度も胃潰瘍になって手術をしているほどでした。しかし、そこまでして、なぜ施設を出たのか。彼はこう続けました。「でもな、僕たちが施設にいたら、僕たちみたいな人間がいるということにいつまでたっても気付いてもらえないんだ。だから僕のできることって大したことじゃないかもしれないけど、でも後から生まれてくる僕たちみたいな子どものために少しでもできることをしたいんだ」と。
その方はそれからしばらくして亡くなりました。でも、その町はどこの町よりもスロープがあって、手すりがあって、リフトバスが走って、日本で初めて自立生活のできる支援付きのアパートが作られる町になったのです。もちろんその方1人の力ではありませんが、彼の思いが一緒に活動する仲間をつくり、それを支えるグループをつくり、本当に社会を変えていったのだと思います。私たちは社会で起きる出来事を目の前にして、「自分一人がやったって」と思ってしまうようなこともあるかと思います。本当に無力感を感じることもたくさんあります。しかし、だからといってやめてしまうのではなく、ほんの小さな一歩でも前に進むことが必要です。そのような行動を取るか否かによって、その後の状況がずいぶん変わってくるのではないでしょうか。ひょっとしたら私たちが生きている間に社会は大きく変わらないかもしれません。でも、その思いを、「時間を超えて」次の世代に伝えていくことで、少しずつでも変化が起き、少しでも多くの人が笑顔になり、幸せに生きられる社会になっていけば、それこそが、私たちが人として、この社会に生きる大きな意味なのではないかと思います。
今日お話したことは、ある意味当たり前のことが多かったかもしれませんが、ぜひその「あたりまえ」を見直すきっかけにして頂き、皆さんと共に、多くの人が笑顔になり、幸せに生きられる社会を、共に生きられる社会をつくっていければと思いますので、これからもよろしくお願いいたします。今日は皆さんどうもありがとうございました。