人権に関するデータベース
研修講義資料
「部落差別をこえて ~取材ノートから~」
- 著者
- 臼井 敏男
- 寄稿日(掲載日)
- 2015/03/26
こんにちは、臼井敏男です。よろしくお願いいたします。僕は4年前まで朝日新聞の記者をしていました。今日お話するのは、新聞記者時代に被差別部落(部落)を取材したことと、その後も部落の人とのお付き合いがありますので、その中で考えたことや新たに発見したことです。僕は1949(昭和24)年の生まれで、今65歳です。生まれたのは岡山県です。僕の生まれた町にも部落がありました。僕は子どものときから、部落があること、大人たちが部落を差別していることを知っていました。部落に対しての差別的なしぐさも子どものときから知っていました。それらは子ども同士の話から知ったのではなく、大人の話や大人の振る舞いから知ったのだと思います。僕が岡山にいたのは高校1年生の半ばまでです。部落のことは、主に小学校、中学校時代に知ったということです。
部落差別はひどい、と思いました。僕にとって部落は、子ども心に気になる存在でした。子ども時代に部落を身近に感じていたかどうか、あるいは知っていたかどうかは、その後、部落差別をどのように考えるか、部落差別についてひどいと考えるかどうかで差が出てくると思います。子どものときに部落を知らなかった人は、部落差別がこれほどひどいということを、実感としてなかなか持てないのではないかという気がします。
そういう子ども時代を過ごして、朝日新聞に入ったのは1972(昭和47)年です。最初に行ったのは宮崎です。宮崎では部落を取材した記憶がありません。記者がそこに行かないと、新聞記事はできません。記者が行って初めて新聞記事ができるわけです。しかし、そこに記者がいても、記者がぼーっとしていると、記事は出てきません。僕の宮崎時代を考えると、部落のことは子どものときから気になる存在だったけれども、部落に対して、きちんと目を見開いていなかったということです。差別の問題はきちんと目を見開かないと、見えないことがあります。あらゆる問題に新聞記者はきちんと目を見開かなければいけないというのが、僕の反省です。
宮崎に4年ぐらいいました。その後、北九州市の南にある当時人口5万人ぐらいの町に移りました。その町へ行ってすぐに、ここには部落があると思いました。どうしてかというと、町の人同士の話、町の人が僕に話す内容に部落のことがしばしば出てきたからです。そのとき、特徴的なことがありました。それは町の人が部落についてしゃべるときに、一部の人から差別的なまなざしを僕が感じたということです。差別的なまなざしというのは、あからさまに部落を差別するわけではありません。しかし、しゃべっている表情や態度から、この人は部落に対して差別意識や偏見を持っているのではないか、と僕が感じたということです。それが差別的なまなざしです。
次に福岡市に行きました。福岡市で今でも記憶していることがあります。新聞記者は若い頃は新しい任地に行くと、サツ回りから始めます。サツ回りのサツは警察の察です。つまり警察担当です。警察署を回りながら、「まちダネ」も拾います。まちダネというのは町の話題です。サツ回りを始めたとき、先輩記者から「あそこは気をつけろよ」と言われました。「あそこは気をつけろよ」の「あそこ」が部落なのです。それは1970年代の終わり頃のことです。その頃は、新聞社の中にも部落に対して、半ば公然と差別をする空気があったということです。
「あった」と過去形で話しました。しかし、2012(平成24)年には、橋下徹大阪市長に関する週刊朝日の差別記事が掲載されました。あの差別記事を見れば、今もなお新聞社の中には部落に対する差別意識がある、と現在形で語らなければいけないと思っています。
その後、東京に移りました。東京で運動団体の取材をする中で、部落の人との付き合いができました。しかし、僕は部落の専門家ではなく、本格的に部落を取材したわけでもありませんでした。
2002(平成14)年になりました。2002(平成14)年というのは、同和対策事業の特別措置法がなくなり、同和対策事業が終わった年です。1969(昭和44)年に同和対策事業特別措置法という法律がつくられて、同和対策事業が全国各地で33年間続いたのです。同和対策事業とは、一つは公共事業です。道路の整備、住宅の建て替え、公共施設の建設といったことです。もう一つは、子どもに対する奨学金、仕事を始めるための生業資金を用意することなどです。同和対策事業が終わり、しばらくたってから、運動団体の不祥事が発覚します。運動団体の幹部が大阪や奈良で逮捕されました。それをきっかけに、運動団体に対する批判、バッシングが始まります。同和対策事業は33年間にわたる公共事業、あるいは奨学金、生業資金などですから、莫大なお金が動きました。33年間に使われたお金は十数兆円です。これだけ大きなお金が動けば、利権や腐敗、行政と運動団体との癒着は当然起きたと思います。そうした利権や腐敗、癒着は厳しく批判されなければいけないと思います。しかし、部落問題はそれだけではありません。不祥事だけの問題ではないのです。そこで、もう一度、部落を取材しようと考えました。部落が今どういう状況にあるのか、部落差別はどういうときに起きるのか、子どものときに見ていた部落差別は今どのように変わっているのかを自分で取材したいと思いました。
2010(平成22)年、朝日新聞の夕刊に「差別を越えて」というタイトルで10回の続き物を書きました。その後、連載記事をもとに、朝日新書にまとめました。朝日新書のタイトルが今日の演題になっている「部落差別をこえて」です。
次に、部落を取材することに対して周りの反応はどうだったか、というお話をしたいと思います。社内で知り合いに会うと、「今何をしているのですか」「どんな取材をしているのですか」と聞かれます。そのときに、「部落を取材しています」と答えます。すると、多くの場合、相手は「え、あの部落ですか」と聞き返してきます。それは、部落という言葉には2つの意味があるからです。一つは集落、もう一つは被差別部落という意味です。今日、僕が「部落」と話しているのは、被差別部落の意味です。
先日、テレビを見ていましたら、東日本大震災の東北の被災地の人が「うちの部落では」と話をされていました。ところが、テロップ(字幕)では「うちの集落では」となっていました。それは多分、「うちの部落では」とテロップを流すと、「うちの被差別部落では」と受け取られてしまうかもしれない、とテレビ局が判断したのだと思います。被災地の人が語っていた「部落」は、文脈から「うちの被差別部落」という意味ではなくて、「うちの集落」という意味でした。新聞を含めてメディアでは、部落という言葉をそのままの形では使いません。集落を意味するならば、集落と書きます。被差別部落を意味するときは、被差別部落と書きます。僕は最初に被差別部落と書いて、その後、略して部落と書いています。
話を元に戻します。僕が「部落を取材しています」と言うと、相手は「え、あの部落ですか」と聞き返してきます。それに対して、僕は「ええ、被差別部落を取材しています」と言います。そのように答えるとどうなるか。多くの場合、一瞬沈黙があって、そのまま話が終わってしまいます。話が弾まないのです。他のテーマの場合は、相手もいろいろなことを言います。新聞記者はもともと好奇心の塊みたいな人たちですから、どういう取材をするのですか、誰に会うのですか、どういう角度で取材をするのですか、と聞かれます。ところが、部落に関しては、一瞬沈黙があって、そのまま話が終わってしまうという特異な経験をしました。それはなぜか。一つには、何を言っていいのか分からないからだと思います。部落について何を語ったらいいのか、何を聞いたらいいのかが新聞記者も分からないということです。ほとんどの新聞記者は警察や行政、学校、企業、市民団体などの取材をしたことがあります。それらの分野では土地カンがあるわけです。だから、何を聞いたらいいのかも分かるし、どのように原稿を書いたらいいのかもだいたい分かります。ところが、部落を取材したことがある記者はほとんどいません。そのため、何を言ったらいいのか分からないのです。もう一つは、部落について下手なことを言うと、それは差別ではないですか、と逆に言い返されるのではないかと怖れているのだと思います。だから、多くの記者が沈黙してしまうのです。
取材を始めると、何人もの部落の人から「臼井さん、取材に応じるのはいいですよ。しかし、自分のしゃべったことがそのまま新聞に載るのですか。10回予定しているという連載が途中で上から圧力があったり、横から横やりが入ったりしてつぶれてしまうのではないですか」と言われました。部落の人には、新聞を含めたメディア対して不信感があるのだと思いました。それはメディアが部落と部落差別について、それまできちんと書いてきていないという不信感だと思います。現実には、どうだったのか。圧力も横やりもありませんでした。僕の書いた原稿はそのまま新聞に載りました。しかし、一つだけちょっと変わったことがありました。それは校閲の担当者が2人になるということです。
新聞社で原稿を書くと、いろいろな段階でチェックされます。チェック機関の一つとして校閲記者という存在があります。取材記者とは別に、第三者の目でチェックする記者がいるわけです。何をチェックするのか。日本語として正しいかどうか、事実関係の誤りがないかどうか、差別的な言い回しがないかどうか、などです。通常は取材記者が書いて原稿を出すと、その日の当番の校閲記者が見てくれます。それで終わりです。ところが、僕の10回の連載については、当番の校閲記者が見るだけではなく、10回の連載を通して見る校閲記者をもう1人つけてくれました。「差別を越えて」という連載は2人の校閲記者によってダブルチェックをされたということです。
校閲部長は社会部の後輩でしたから、ばったり会ったときに、「2人も記者をつけてくれて、どうもありがとうございました」とお礼を言いました。すると、部長はこう言いました。「臼井さんを信用しないわけではないのですが……」。「……」のところは言葉になっていません。多分、その「……」は、「臼井さんを信用しないわけではないのですが、部落のことを書くのは心配なのです」ということだったと思います。今もなお、部落について新聞が取り上げるときには、ピリピリする、神経を使うということがあるのだと思いました。
次に、「部落とは何か」というお話をしたいと思います。皆さんは学校で部落についてどのように教わりましたか。これは世代や地域によって違うのではないかと思います。僕は岡山県の小学校か中学校で、「江戸時代に士農工商の身分制度がありました。徳川幕府は農工商の武士に対する不満をそらせるために、士農工商の下に被差別身分をつくりました。それが現在の被差別部落の始まりです」と教わりました。シンプルな教え方でした。
今の教科書はちょっと違います。僕の住んでいる千葉県の地元の図書館で中学校の教科書を読みました。江戸時代に被差別身分がありました、と書かれていました。徳川幕府がつくったとは書いていません。どうしてかというと、被差別身分というよりも被差別民と言ったほうが正確でしょうが、被差別民は江戸時代に突然出てきたのではなくて、平安時代や鎌倉時代にもいたことが歴史の研究で分かってきたからだと思います。徳川幕府が被差別身分を制度化、固定化したとは言えると思います。しかし、徳川幕府が農工商の武士に対する不満をそらせるために、被差別身分をつくったという書き方はしていません。
被差別身分は士農工商の下、とは書かれていません。百姓、町人とは別に、と書いています。また、被差別身分の人たちは差別をされながらも、社会的な役割をそれぞれ果たしていたと書かれています。社会的な役割とは、農業にたずさわって年貢を納める、皮革製品をつくる、といったことです。社会の治安を守るための仕事をしていたとも書かれています。「差別されていただけの存在ではない」というのは、僕らの世代では教わらなかったことだと思います。
では、現在の部落とは何か、僕は自分なりにこう考えています。江戸時代の被差別身分の流れを汲む人たちが核になってつくられた地域が、現代の被差別部落だと思っています。江戸時代の被差別身分の流れを汲む人たちが核になっているということは、今の部落には、そうでない人たちもたくさんいるということです。つまり、後で入ってきた人たちもたくさんいる。それが部落の現状です。
では今、部落はどうなっているのか。1993(平成5)年に政府が全国の部落を調査した記録があります。1993(平成5)年といえば、今から20年以上も前です。政府はそれ以降、部落について全国的な調査をしていません。そのため、1993(平成5)年の調査を持ち出さざるをえないのです。
1993(平成5)年の調査によると、全国で同和地区に指定されたところが約4,500か所です。通常、同和地区と被差別部落という言葉は、同じ意味で使われます。同和地区や同和問題という言葉は主に行政が使います。しかし、同和地区に指定した、同和地区に指定された、となると、意味が異なります。
1969(昭和44)年に同和対策事業特別措置法がつくられて、各地で同和対策事業が始まります。同和対策事業は公共事業であり、奨学金を支給することなどですから、地区を指定しないといけないわけです。そのときに同和地区に指定されたところが約4,500か所でした。戦前の調査では部落は5,000か所を超えていました。部落であっても同和地区に指定されず、同和対策事業が実施されなかった地域があるということです。同和地区に指定されなかった理由として、地元の部落が反対した、あるいは地元の市町村が指定に消極的だった、といわれます。同和地区の指定の仕方は、まず都道府県が同和地区の指定候補を政府に報告します。政府がチェックをして同和地区に指定します。都道府県が同和地区の指定に動かなければ、同和地区に指定されないということです。そのため、5,000か所を超える部落のうち、約4,500か所だけが同和地区に指定されて、同和対策事業が行われました。同和地区の指定がなかった都道県があります。北から言うと、北海道、東北6県、東京都、富山県、石川県、沖縄県です。東京では戦前、部落が46か所ありました。同和地区の指定がないからといって、部落がないとは言えません。
同和地区に指定された約4,500か所に住んでいる人は220万人でした。そこにもともと住んでいた人、つまり被差別身分の流れを汲む人たちは90万人、40%でした。残りの60%は後で入ってきた人たちです。では、後から入ってきた人は部落の人なのかどうか。僕は後で入ってきた人に話を聞いたことがあります。その人は男性で、部落の女生と結婚して部落に住んでいました。この人に「あなたは部落の人ですか」と聞いたところ、答えはノー、「自分は部落の人間ではありません」ということでした。この答えには続きがあります。「でも、自分のような人間も世間からは、部落の人間と見られ、差別されるでしょうね。ずっと住んでいる人なのか、後から入ってきた人なのかは、外から見たら分からない。分からないと世間はどうするか。丸ごと差別をするのです。部落差別とは、それほどいい加減なものなのです」というお話でした。
では、部落差別とは何か。部落の人と部落外の人には何の違いもありません。何の違いもないのに、違いがあると言って差別をするのが部落差別だ、と思っています。僕は一応部落外の人間です。皆さんの中にも、自分は部落外の人間だと思っている人が多いと思います。それは割合からすれば、部落の人よりも部落外の人のほうが多いからです。僕がなぜ部落外の人間だと言っているかというと、自分の生まれた場所と、僕の父親と母親が生まれた場所がいずれも部落外だったからです。しかし、それは一応なのです。その前の世代の祖父母4人が部落で生まれたのか、部落外で生まれたのかは全く知りません。祖父母4人は部落で生まれたのかもしれないし、部落外で生まれたのかもしれません。皆さんはどうですか。祖父母がどこで生まれたのかを知っているという人がいるかもしれません。しかし、その前の曽祖父、曽祖母が部落で生まれたのか、部落外で生まれたのかは多分分からないと思います。僕が部落外の人間だと言っているのは、一応なのです。部落の人と部落外の人とは、何の違もないのです。違いがないのに、違いがあるといって差別するのが部落差別だと思います。
部落差別は外国人やアイヌの人たちに対する差別とは違います。外国人やアイヌの人たちは違いがあります。独自の言葉や文化を持っています。外国人やアイヌの人たちに対しては、違いを認めた上で、共に生きるということが大切だと思います。しかし、部落差別をなくすためには、部落の人と部落外の人とは何の違いもないのだというところから始めなければいけないと思います。
1993(平成5)年の調査では、結婚についても聞いています。部落の人同士で結婚しているのか、部落外の人と結婚しているのかが質問でした。60%の人が部落の人同士で結婚していました。しかし、35歳未満の若い人に限ると、60%以上の人が部落外の人と結婚していました。この調査は5歳刻みで聞いています。これは20年以上前の数字です。今は部落外の人と結婚している割合はもっと高くなっていると思います。
先ほど、よそから入って来た人が60%だと話しました。これを「混住が進む」と言います。今は混住もさらに進んでいると思います。
次に、差別の表れ方の話をしたいと思います。
差別の表れ方1です。「竹田の子守唄」という歌をご存じですか。この歌は1971(昭和46)年に「赤い鳥」というフォークグループが歌ってヒットしました。これは部落の歌です。知らない人もいると思いますので、僕が歌ってみます。こういう歌です。
守りもいやがる 盆からさきにゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし
またも竹田のもんばめし
はよも行(ゆ)きたや この在所(ざいしょ)こえて
向こうに見えるは 親の家
この歌をお聞きになって何か変だなと思いませんか。普通、子守歌というのは赤ちゃんをあやしたり、寝かしつけたりする歌です。これはそういう歌ではありません。僕の歌い方が下手だということもありますが、この歌を聞いて多分赤ちゃんは安らかに寝たりしないと思います。これは赤ちゃんをあやす歌ではなくて、子守奉公に行った守り子の歌です。
少年もいたという話もありますが、この歌は10歳前後の少女たちが子守奉公に行って赤ちゃんを背負って歌っていた労働歌なのです。なぜ自分は子守をしなければいけないのかと嘆き、でもそういう境遇に負けないで頑張ろう、という歌です。
この歌から幾つかのことが分かります。10歳前後の少女ということは、小学生の年齢です。子守り奉公に行ったということは、学校に行っていないということです。差別や、差別による貧しさのために、学校に行けなかったのです。この歌は明治から大正ごろにかけて歌われ、部落に伝わっていました。しかし、第2次世界大戦が終わった後も、部落では同じような子守奉公の状況が続いていました。
この歌には元唄があります。元唄はもっと素朴で、もっとテンポが速い。その元唄を部落の女性たちが合唱団をつくって歌っています。
その合唱団のメンバーのうち、4人の人に取材をしたことがあります。僕よりもう少し上の世代です。5年前に60代後半から70代の人たちでした。このうちの1人は自分も戦後、子守奉公に行っていた、とおっしゃっていました。学校に行っていないわけです。4人の人はみんな小学校も十分に行っていませんでした。読み書きが不自由だった、とおっしゃっていました。学校に行けなかったのは、差別があったり、貧しかったりしたためです。誤解してもらいたくないのは、部落の人が貧しかったのは、本人の責任ではないということです。部落の人は差別によって安定した職業から排除されていました。そのため、貧しい状態に追い込まれたのです。この差別と貧しさの連鎖を断ち切るために33年間行われたのが同和対策事業でした。
歌の中に、貧しさの象徴がもう一つあります。「久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし またも竹田のもんばめし」という歌詞があります。久世も吉祥(きっちょ)も地名です。大根めしと菜めしは僕も分かりました。大根ご飯と菜っ葉ご飯です。分からなかったのは「もんばめし」です。その4人の女性に「もんばめしって何ですか」と聞きました。そのうちの1人が「おからよ」と答えてくれました。僕は「おからだったら、おいしいですね」と言いました。すると、あんた、なんてバカなことを言っているの、というような顔をされました。「今のおからは味をつけているから、おいしいのであって、元のおからは、おいしくない」というお話でした。「おからをどうやって使うのですか」と聞いたら、ご飯の上におからを乗せてかき混ぜて食べるということでした。お米を十分に買うお金がなかったので、もんばめしをつくって、働きに出ている親の帰りを待っていた、というお話でした。これも貧しさの象徴です。先ほど話しましたように、部落の人の貧しさは、差別が原因だということを知ってもらいたいと思います。
部落の女性たちは今、「竹田の子守唄」の元唄を誇りを持って歌っています。部落の人たちが差別に負けないで頑張ってきたという誇りです。
「竹田の子守唄」をヒットさせた「赤い鳥」のメンバーはこの歌がどういう背景を持った歌で、どこの竹田なのかを知りませんでした。調べたそうです。幾つか手掛かりがあります。「守りもいやがる 盆からさきにゃ 雪もちらつくし 子も泣くし」。雪がちらつく。それほど暖かいところではないと見当をつけました。竹田という地名は全国に幾つかあります。大分県に竹田市があります。最近は兵庫県の竹田城も有名になっています。大きなヒントがありました。それは歌詞の最後のほうにある「在所」という言葉です。「はよも行きたや この在所こえて 向こうに見えるは 親の家」。在所は普通、住んでいる場所や田舎という意味です。ところが、京都では在所という言葉は被差別部落を指すことがあるのだそうです。在所という言葉が手掛かりになって、京都の竹田という地域の中にある部落で歌われていたことが分かりました。京都の竹田は広い地域です。竹田という地域の中にある部落で歌われていた歌が「竹田の子守歌」として世の中に知られるようになったということです。
部落の歌であるということが分かると何が起こったのか。テレビやラジオからしだいに消えていきます。当時、放送禁止歌という歌がありました。放送禁止、つまりテレビやラジオの電波に乗せない曲です。テレビ局やラジオ局が反社会的な歌、わいせつな歌であると判断したら、電波に乗せないという放送禁止歌のリストをつくっていました。「竹田の子守歌」は放送禁止歌ではありませんでした。しかし、演奏をさせない、レコードをかけない、ということが起きました。なぜかというと、これは推測ですが、この歌を流すと何か厄介なことが起きるのではないか、何か問題が起きるのではないか、と考えて、電波に乗せるのをやめよう、遠ざけてしまおう、ということになったのだと思います。つまり排除の論理が働いたのです。僕はそれこそが部落差別だと思います。でも最近は、テレビでもこの曲が流れています。「赤い鳥」というグループはすでに解散しています。「赤い鳥」の流れを汲む「紙ふうせん」というグループがテレビで歌っていました。テレビ局も変わってきたと思います。
「竹田の子守唄」のふるさとの部落は今どうなっているかというお話をしたいと思います。最初、地元に詳しい人に道順を聞いて、1人で行きました。駅を降りて、部落外から歩いて行きました。集合住宅が何棟か立っており、周りに1戸建てが広がっていました。このあたりが部落の中心だと思いながら、そのまま歩いて行って、部落外と思われるところへ出ました。よそ者の僕には、部落と部落外の境目が分かりませんでした。部落と部落外のたたずまいは同じです。これは同和対策事業の成果だと思います。
「昔の部落はどういう状態でしたか」と「竹田の子守唄」の元唄を歌っている4人の女性に聞きました。道路が狭い。木造住宅が密集していた。そのため、火事があっても消防自動車が入ってこられない。そんなお話でした。もう一つ、雨がちょっと降ると、水があふれて大水になったとおっしゃっていました。この地域は2つの川が合流するところにあります。そのため、川が雨を下流で受けきれず、あふれるということです。今は高い堤防ができています。かなり雨が降っても、あふれることはないと思います。「住環境は良くなりました」と女性たちは口をそろえておっしゃっていました。
「では、差別はどうですか」と聞きました。すると、「この地域は差別のまなざしで見られています」というのが答えでした。僕が新聞記者時代に感じた差別のまなざしです。これは、あからさまに差別的な言葉を投げかける、あるいは差別をする、ということではありません。しかし、差別意識を感じるということです。でも、それはなかなか分かりにくい。「具体的にどういうことがあったのですか」と聞いたところ、1つのエピソードを教えてくれました。
この部落には公営のお風呂屋さんがあります。京都市が集合住宅をつくったときに、そこに風呂がなかったために、公営浴場をつくったわけです。そんないきさつがあるので、この浴場は部落外よりも値段が安い。安いから、部落外からもこの浴場に来る人がいます。部落の人と部落外の人が裸になって付き合うのは、とてもいいことだと思います。
しかし、ある日、こんなことがありました。数人の若者が自転車に乗ってやって来ました。その中の1人が自転車の前籠に紙袋を置いたまま、浴場に行こうとしました。仲間の若者が声をかけます。「ここは在所やろ、その紙袋を持ってかなあかへんで」と言います。言われた若者は在所という意味が分からなかったようです。在所という言葉は京都では部落を指すことがあると言いました。指さないこともあるわけです。声をかけられた若者は「在所って、何や」と聞き返します。「在所って、部落やないか」という答えが返ってきます。
つまり、ここは部落だから紙袋を持っていかないと取られてしまうぞ、と言ったわけです。もちろん、自転車の前籠に紙袋を置いたまま離れるのは危ないと思います。そう言えばよかったのに、ここは部落だから、その紙袋を持っていかないと取られてしまうぞ、と言ったのです。
そのやりとりを、僕が取材した4人の女性のうちの1人が聞いていました。彼女は浴場へ行こうとして、通りかかったのです。腹が立ったそうです。当然だと思います。「部落やさかいって、誰も取らへん」と声をかけました。すると、若者は逆ギレしたそうです。若者の1人が「あんたら、何でも差別だと言う。僕は差別してへん。差別していないから、在所の浴場に来てやっているんだ」と言ったそうです。それで益々腹が立った、と女性はおっしゃっていました。その女性の感想です。「若い人が今もなお差別をする。差別をしているのに、差別をしていないと言う。腹が立ちます」ということでした。
次に行きます。差別の表れ方2です。
「そこに部落の人がいないという前提で話が進む」ということです。皆さんたちの職場や地域で、いろいろな集まりがあると思います。そのときに、その中に部落の人がいると考えますか。そう考えないときに差別の言葉が出てくるということなのです。このことを取材の中で話してくれたのは30代の男性です。彼は愛媛県の部落で生まれ、高校までその部落で育ちました。大学に進学するために大阪へ行きます、彼は愛媛県にいるときから、部落差別がどんなものであるかを知っていました。部落差別をなくすために活動をしたいと考えて、大阪の大学で部落解放研究会に入ります。そこでは自分が部落の出身だということを話すわけです。しかし、彼は大学の外では、自分が部落出身だということを言っていませんでした。彼はサーフィンが好きで、サーフィン仲間がたくさんいます。サーフィン仲間にも自分が部落出身だということを言いませんでした。仲間と一緒にサーフィンに行き、ご飯を食べたりするときに、突然、部落の話が出てきたそうです。「あそこは気をつけろよ」とか、「うちの中学校では部落の子はむちゃくちゃだった」という言葉が何の脈絡もなく、会話に出てきたそうです。
そこに彼がいるわけです。しかし、サーフィン仲間は彼を部落出身だと思っていませんので、部落に対する差別的な言葉を使うわけです。僕は彼に「そのとき、あなたはどうしていたのですか。それは差別じゃないかと抗議したのですか」と聞きました。彼は黙っていたそうです。なぜ黙っていたのか。「それは部落に対する差別じゃないか」と言うと、「おまえ、何でそんなにムキになるんだ」などと言い返される。すると、最後には自分が部落出身だということを言わざるをえなくなる。だから黙っていた。そんなお話でした。
僕は彼に、そもそも愛媛から大阪へ行ったときに、なぜ自分が部落出身だということを言わなかったのですか、と聞きました。すると、答えは次のようなことでした。自分は愛媛県で、部落が差別されていることを知っていた。しかし、周りの人は自分のことを部落出身だと知っているから、あえて部落のことを話題にしない。ところが、大阪に行くと知らない人ばかり。あらためて世間が部落をどのように見ているのか、部落をどのように差別しているのかということを知った。すると、部落出身と言えなくなったというのです。
今、部落の人の多くは自分が部落出身だと明らかにしていません。言えば、差別されるかもしれないからです。部落の人が自分は部落出身だと言えないこと自体が今の部落差別の現状だと思います。
彼はその後、サーフィン仲間に自分が部落出身だということを伝えます。なぜ部落出身を明らかにしたのかと聞きました。自分たち部落出身者が黙っていると、いつまでたっても差別はなくならないというのが一つです。もう一つは、自分たち当事者が黙っていると、もう部落差別はないのだと世間に誤解されてしまうということでした。
次に差別の表れ方3の結婚差別です。
今日のようなお話を大阪で市民向けにしたことがあります。そのときの企画は人権講座で、演題は「部落差別の実態」だったと思います。講演を終えて帰ろうとしたときに、僕と同じぐらいの年齢の女性が近づいてきました。彼女は2つの地名が書いてある紙を持っていました。この2つの地名が部落かどうかを教えてください、と彼女は言いました。2つの地名はどちらも関西のものでした。僕はこの地名が部落かどうか分かりませんでした。しかし、何とかしなければならないと思いました。これは何ですかと聞いたら、彼女の息子さんが付き合っている女性のご両親の本籍でした。相手のご両親の本籍ですから、2つあるわけです。自分の息子が付き合っている相手の身元調査をしていたわけです。なぜ、こんなことをするのですか、と聞きました。「きちんと相手の身元調査をしなきゃ駄目よ」と知り合いに言われたそうです。僕は彼女に「若い2人が好意を持って付き合って、結婚するなら、それでいいではないですか。相手が部落出身であろうとなかろうと、関係ないではないですか」と言いました。すると、彼女は「でも、気になるんです」と言いました。僕は「こういう身元調査をすること自体が部落差別ですよ。身元調査は今日限りやめたほうがいいですよ」と言いました。しかし、彼女の答えは同じでした。「でも、気になるんです」。
彼女とのやりとりで、彼女はとてもいい人だと思いました。家に帰れば、いい奥さんで、いいお母さん、近所付き合いもちゃんとできる人だと思いました。しかし、いい人でも、身内が部落の人と結婚するかもしれないと思うと、こういう差別的な行動を起こしてしまうのです。これは2年ぐらい前の話です。
次に差別の表れ方4です。2012(平成24)年10月、週刊朝日が橋下徹大阪市長についての連載記事を構えました。タイトルは「ハシシタ・奴の本性」という、とんでもないものです。橋下さんは確かに漢字でハシシタと書きます。しかし、彼はハシモトです。週刊朝日は「あなたはハシモトと名乗っているけれど、実はハシシタだ」と言っているわけです。これだけでも、とんでもない差別記事です。中身もひどい差別記事です。橋下さんのお父さんの身元調査をするわけです。さっきの結婚の身元調査と同じです。身元調査をして、橋下さんのお父さん、ひいては橋下さんが部落出身であることを暴こうとした記事なのです。暴いたと言わなかったのは、暴いたかどうかは僕には分からないからです。橋下さんが部落出身であるかどうかについて、僕は判断する材料を持っていませんし、それは確かめる必要もないと思います。橋下さんについて部落出身であることを暴こうとしたこと自体が部落差別なのです。これは先ほどの結婚差別と同じであり、就職差別とも同じです。
就職差別では、まず、就職を希望する人について身元調査をします。身元調査をして、部落出身だとみなせば自分の会社に入れないというのが就職差別です。週刊朝日は取材と言っています。しかし、実際にやったことは身元調査です。
週刊朝日は橋下さんの抗議を受けて、おわびを出して、連載を1回で打ち切りました。おわびの中で、自分たちは部落差別をするつもりはなかった、ただし不適切な記述があった、と書いています。不適切な記述というのは、部落の地名を書いたことなどのようです。それも問題だと思います。しかし、僕は週刊朝日に差別意識があったと思っています。なぜかというと、この記事は「ハシシタ・奴の本性」というタイトルからも分かるように、橋下さんを批判して、橋下さんの評価を低めるための記事です。橋下さんの評価を低めるために、なぜ部落出身であることを暴こうとしたのか。部落出身であることを暴けば、橋下さんの評価を低めることができると考えたからだと思います。週刊朝日をつくっている人たちは、部落を部落外よりも低いものと考えている、と思わざるをえません。
では、なぜこんなひどい記事が出たのか。幾つか理由があると思います。一つは、ほとんどの新聞記者や週刊誌記者は部落を取材したことがなく、部落についてよく知らないことです。何が部落差別なのかを知らないのです。
二つめに、東日本出身者と西日本出身者で部落についての知識が随分違うということがあると思います。東日本の人は西日本の人に比べて、部落に対する知識が少ないと思います。西日本の人は部落について比較的知識を持っている。比較的知識を持っているけれど、差別をする人がいるというのが現実だと思います。東日本の人の中には、そもそも何が部落差別なのかということもよく分かっていない人がいると思います。
三つめには、2002(平成14)年以降、新聞記者も週刊誌記者も部落を取材する機会が減ったということがあります。それは同和対策事業の特別措置法が打ち切られ、同和対策事業が終わったからです。そのため、何が部落差別なのかも分からない記者が増えたと思います。
四つめとして、決定的なことがあります。それは週刊朝日の記事は二番煎じだということです。その1年前に、週刊文春や週刊新潮が同じような記事を書いていました。週刊文春や週刊新潮が書いたときに、橋下さんは週刊文春や週刊新潮を批判しました。しかし、大きな社会的な批判は起きなかった。そのため、週刊朝日としては、週刊文春や週刊新潮と同じようなことを書いても大丈夫だ、と高をくくったのだろう、と思います。週刊文春や週刊新潮が橋下さんについて差別記事を書いたときに、新聞を含めて他のメディアが厳しく批判すべきだったのです。そういう意味では、他のメディアにも責任があると思います。
次に、西と東で差別の表れ方が違うというお話をしたいと思います。僕は岡山県の生まれで、高校1年の半ばから東京とその周辺に住んでいます。西と東で差別の表れ方が違う、と自分でも思っていました。取材の中で浦本誉至史(うらもと・よしふみ)さんに「西日本と東日本で差別の表れ方はどう違いますか」と聞いたことがあります。浦本さんは兵庫県の部落出身で、学生時代から東京に住んでいます。浦本さんは運動団体の機関紙に「東京の部落の歴史」という連載をしていたことがあります。浦本さんは「関西では人間関係の濃厚さが差別の舞台です。東京では人間関係の希薄さが差別の温床です」とおっしゃいました。人間関係が濃厚になるのは、親子、きょうだいを除けば、結婚するときです。関西では結婚するときに差別が出てくるというのは、僕も分かりました。しかし、「東京では人間関係の希薄さが差別の温床」という意味が分かりませんでした。浦本さんが説明してくれました。「東京の人は普段、部落のことを考えていません。しかし、世の中には部落に対する偏見や差別意識があります。東京では、何かのきっかけがあると、簡単に差別的な行動を起こします」というお話でした。
これには浦本さんの経験があります。彼は1年半にわたって、見も知らない男から嫌がらせと脅迫を受けました。頼んでいない品物が届きます。最初は値段の高い歴史の本、そして英会話の教材や芝刈り機、そのうち、「死ね」「殺す」という脅迫状が来ます。浦本さんは運動団体の機関紙に東京の部落の歴史を連載していましたから、この連載に犯人は目をつけたのだろう、と思いました。犯人は自分や運動団体に恨みがあるか、あるいは部落の人とのトラブルがあったのだろうと見当をつけました。
1年半後、東京に住む若い男が捕まりました。しかし、この男は部落との接点がありませんでした。なぜ執拗に脅迫や嫌がらせをしたかというと、図書館で運動団体を批判する本を読んで、運動団体に対しては攻撃してもいいのだと思ったそうです。
この男は、浦本さんの住んでいるアパートの周辺の住民にも葉書を出していました。「近くに部落出身者がいます。みんなで追い出しましょう」という内容です。多分、住民の多くは、その葉書を無視したと思います。しかし、数人の住民がアパートの大家さんのところに来て、「浦本さんに出て行ってほしい」と言ったそうです。そのうちの1人が何度も来るので、大家さんは困って、たまたま部屋にいた浦本さんを呼んだそうです。浦本さんはその住民に「出て行けというのは、私が部落出身だからですか」と尋ねます。「まあ、そういうことになるね」と住民は言います。浦本さんは「それは部落差別ではありませんか」。すると、相手は「差別なんかしていない。部落なんて、もう昔の話だ」と答えます。「では、なぜ私が出て行かなくちゃいけないんですか」。「あんな葉書が来たので、出て行ってほしいということだけだよ」と住民は答えます。
こうした経験を踏まえて、浦本さんは「東京では、部落は想定外です。目の前に部落の人が現れると、排除しようとする人たちがいます。しかも、部落差別をしても、差別をしているという意識がありません」と言います。
また、浦本さんは「東京では、部落差別のつらさや苦しさを話しても、分かってもらえない」とおっしゃっていました。「では、浦本さんのふるさとの兵庫県ではどうですか」と聞くと、「兵庫でも部落差別をする人はいます。一方で部落の人を支えてくれる人がいます。東京では部落差別をする人がいるけれども、部落の人を支えてくれる人はいません」というお話でした。「東京は部落出身者にとって、怖くて生きにくい街です」とおっしゃっていました。
東京の話を続けます。東京では同和地区の指定がありませんでした。東京都はどんな説明をしているのか。「東京では関東大震災があり、東京大空襲があった。戦後、地方から多くの人が流入してきた。そのため、部落の実態をつかむのが難しくなった」というのが東京都の説明です。部落の実態をつかむのが難しくなったので、同和地区の指定に動かなかったというわけです。東京都も「東京に部落はない」とは言っていません。
部落によっては、同和地区の指定に反対があった、といわれています。戦前、東京には46か所の部落がありました。運動団体に聞くと、今も40か所ぐらいを確認できるということです。では、東京都は何もしなかったのかというと、そうでもありません。東京都は都内の3か所について、環境改善事業という名前で同和対策事業とほとんど同じことをやりました。道路を整備する、住宅を建て直す、公共施設をつくる、といったことです。その3か所については、「同和問題を内包する地域」と呼んでいました。東京都は奨学金や生業資金も都独自の財源で用意しました。
東京で、今何が起きているのか。一つはインターネットによる部落探しです。インターネットには「東京の部落はどこですか」と書き込みがあります。それに対して、きわめて無責任にいろいろな地名が書かれています。僕が見ても、ここは部落ではないのではないかという地名も書かれています。そうした書き込みには、部落に対する差別意識や偏見があふれています。東京では同和地区の指定はなかったけれども、部落探しが執拗に行われているわけです。
もう一つは土地差別調査事件です。土地差別調査事件というのは、マンションや1戸建てを開発するときに、事業者が区役所に「ここは部落ですか。同和地区はどこですか」と問い合わせることです。土地を調査して、部落を避けようということだと思います。明らかになるのは氷山の一角だと思います。インターネットでの部落探しと土地差別調査事件は全国各地で起きています。
屠場差別と部落差別の関係をお話したいと思います。東京では「芝浦と場」が品川駅の海側のビル街のそばにあります。もともとあった屠場の周りにビルが建ち並んだのです。東京と大阪の屠場で働く人に、屠場差別と部落差別がどういう関係なのかを聞いたことがあります。大阪では屠場差別と部落差別はイコールだ、とおっしゃっていました。大阪で「屠場に勤めている」と言うと、「あなたは部落の人ですか」と聞き返されるそうです。大阪では歴史的に言えば、部落の中に屠場があって、そこから皮革産業が発展していった、と大阪の屠場で働く人がおっしゃっていました。
東京ではどうか。「東京では屠場差別は職業差別として出てくる。しかし、職業差別の根っこをたどっていくと、部落差別に突き当たる」というのが答えでした。
「どういうときに差別を感じるか」と聞きました。例えば、屠場の近くの居酒屋で、屠場で働いていることが分かると、隣り合わせた人から「あなたは屠場で働いていても、優しいんですね」と言われるそうです。「相手は褒めているつもりかもしれないが、非常に嫌な思いがします」と屠場で働く人はおっしゃっていました。「最近、腹が立つ言い方は何ですか」と聞いたら、「動物を殺すのはかわいそうだが、人間が生きるためには仕方がない」という言い方です、という答えが返ってきました。その話を聞いて、僕はドキリとしました。「動物を殺すのはかわいそうだが、人間が生きるためには仕方がない」と思っていたからです。「私たちは毎日、牛や豚を殺しています。この言い方では、私たちはかわいそうなことをしている人というレッテルを貼られたままなのです。こういう言い方をする人は、肉を食べる側にいるだけで、つくる側には絶対に立たない」と言われました。
確かに、この言い方は、殺される動物は見ている。しかし、動物を殺している屠場の人の姿が目に入ってない。目に入っていても、自分とは違う人たちだと思っているのではないでしょうか。屠場で牛や豚を殺している人たちは自分とは違う人だ、と勝手に線を引いていると思います。あの人たちと自分は違うと勝手に線を引くところから差別が始まる、と思います。屠場で働く人から「臼井さんも一度屠場で働いてみると、いいですよ。そうすれば、こんな言い方はできないと思います」と言われました。
僕の子どものときからのお話をしてきました。僕の子どものころに比べると、部落差別をする人は減り、部落差別の頻度も減った、と思います。しかし、部落差別はなくなっていないのが現状だ、と思います。どうすればいいのか。部落の人と部落外の人が顔を合わせて付き合うことが大切だと思います。一緒にご飯を食べる、お酒を飲む、イベントをする、何でもかまいません。お互いに知ることが大切です。僕は幸い、取材をきっかけに、たくさんの部落の人と知り合うことができました。部落という言葉を聞くと、いろいろな人の顔が思い浮かびます。顔が思い浮かぶと、差別などはできません。個人と個人、1人対1人という、顔が見える関係をつくることが大切だと思います。
部落差別に限らず差別は、集団をひとくくりにするところから始まるのではないかと思います。集団をひとくくりにするというのは、部落の人、中国人、韓国人、朝鮮人、黒人、アイヌの人というようにとらえることです。そうではなく、個人を見る、個人と個人で付き合うことが必要だと思います。
自治体や学校の役割は何か。部落問題に関する国の取り組みは、2002(平成14)年に特別措置法がなくなり、同和対策事業が終わってから、後退しました。自治体や学校はバラツキが大きいと思います。自治体によっては部落差別をなくすための取り組みを熱心にやっているところがあります。しかし、やっていない自治体もあります。このバラツキが大きいのです。学校も同じです。そういう中で、もう一度、自治体や学校がきちんと住民を啓発したり、子どもに教えたりすることが必要だと思っています。その中で、部落の人と部落外の人との間で顔の見える関係をつくるのが、自治体や学校の役割の一つだと思います。
一人ひとりがすべきことは何か。差別をしない、差別を許さないことです。これは当たり前のことです。しかし、部落の人の何人かから、次のような話を聞きました。「部落の人の周りに、部落外の人で1人でもいいから絶対に差別をしないという人がいてくれたらいいなあ」という言葉です。言い換えれば、部落の人から部落外の人を見たときに、この人は絶対に部落差別をしないと信用できる人がいかに少ないか、ということだと思います。僕は部落の人から臼井という人間を見たときに、絶対に部落差別をしないと信用してもらえる人間になりたいと思っています。まずは、そこから始め、差別を許さないところへ行きたいと思っています。
どうもありがとうございました。