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研修講義資料

名古屋会場 講義2 平成26年10月2日(木)

「新しい部落史とこれからの同和問題」

著者
灘本 昌久
寄稿日(掲載日)
2015/03/16

 こんにちは。ただ今ご紹介いただきました灘本です。よろしくお願いいたします。
 自己紹介をします。この9月末まで京都産業大学の人権センター室長をしておりました。京産大に来てから20年くらい経ちますが、その前の大学の学部時代から十数年、京都部落史研究所という京都府下の同和問題の歴史研究をする研究機関におりました。京都府には149の同和地区がありますが、そこを相当数回り歴史研究をしていました。その関係で同和問題に関して歴史的にどのように現在まで来たのかということを少し研究してきておりますので、今日はその辺を中心に、それから今後同和問題をどのように考えていくかというようなことを少しお話ししたいと思います。

【最近の部落史の研究動向】
 私が大学の学部生で同和問題を研究し始めた1970年代中頃の話です。そのころ、「同和問題はどうして起こってきたのか」、ということについては政治起源説というものが全盛期でした。これは、「時の為政者が人民を支配するために身分差別を作り、お互いを仲たがいさせて支配を安定させた。そのために江戸時代の初め、身分制が確立するときにえた・非人身分というものをつくりました」という説です。
 例えば、こちらからあちらへ歴史がずっと動いているとします。目盛りを1,100年代、1,200年代、1,300年代と、100年ずつ目盛りを打ってみます。いわゆる教科書に出て来るような歴史年表を簡単に書いてみると、鎌倉時代、南北朝、室町、戦国、安土桃山、江戸時代、明治以降現在に至る、こんな感じになります。
 私が勉強し始めた1970年代から90年代ぐらいまではどんな説明がされていたかといいますと、先ほどお話ししましたように、江戸時代に士農工商という身分制度ができる。8割方が農民なので武士の数が少ないのです。「武士が数の多い農民から年貢を搾り取るので、支配に対する不満が上に向いてこないように、一番下にえた・非人という身分をつくりました」。というような説明がされていました。まれに現在でもこういう説明をされる人がいますが、部落問題の歴史研究をしている人でこういう説明をする人は100人に1人いるかいないかです。これは全く過去の説です。ただ非常に力を持っていた説でこれを「近世政治起源説」といいます。 
 近世というのは安土桃山、信長、秀吉、家康以降の時代をいいます。戦国時代より前の鎌倉までをだいたい中世、平安時代より前を古代と、大枠このような区分をしております。近世政治起源説とは「江戸時代に身分制度を無から有を生じるようにつくって人民支配の道具にしていた。差別意識というのは時の為政者、支配階級が一般庶民に注入したものだ」という考え方です。
 しかし、例えば私が関係していた京都でいうと、京都市の南の方にある部落(同和地区)の資料を見ていくと1396年、応永3年にまでさかのぼることができます。近世政治起源説によると部落は江戸時代の初めにできていたという話だったのにもかかわらず、江戸時代より以前の1396年まで遡ることができる。この地区にどのような資料があったかというと、江戸時代になると穢多(えた)という名称に変わりますが、それ以前は清目と呼ばれる人たちがいて、田畑や家屋敷地を何反持っていた。というようことがはっきりと書かれている資料がありました。
 別にうわさ話ではなくて土地台帳にきちんと書いてあるのです。僕の学生時代の後輩で今は東京国立博物館に勤務している田良島哲さんが、このような話を「中世の清目とかわた村」というタイトルの論文にまとめています。 
 つまり、応永3年からずっとつながって現在に至っているわけです。つまり、部落は1600年代にできたという話ではなくて、少なくとも資料上は1396年までは遡ることができます。この時点で既に田畑を耕していましたし、家屋敷地があったのです。そこの地区には1396年の時点でお寺も存在していたということですから、地区の歴史は1396年よりも100年ぐらい遡ることが想定されます。そうすると1300年ぐらいには部落ができているということになります。従来言われていた、部落が江戸時代の初めにできたという話よりも300年ぐらい遡るということです。

 

 この中世という時期は江戸時代の中央集権的な時代ではなく、いろいろな地域をいろいろな勢力が個別に支配しています。あるところは武家が支配しているし、あるところは天台宗比叡山のようなところが支配している。現在、比叡山は静かな観光地ですが、平安時代の頃の比叡山というのは地域の支配階級で弁慶のようになぎなたを持った怖い僧兵がたくさんいて、自分たちの要求を聞かなければ武力にものをいわせて言うことを聞かせていたという時代です。権門勢家(けんもんせいか)と言われるいろいろな力を持った人がいろいろな地域を支配していた時代ですから、全国統一の身分制度をつくって、人々の意識にまで分け入って、隅々まで差別意識を徹底する、ということは全くできない時代です。中世というのは日本がばらばらで、特に戦国時代などは中央の通達が隅々まで貫徹するということは全くあり得ないことで、天皇家が生きていくことすら大変だった時代です。人々がその日の生活にも困るぐらいこの戦国時代というのは大変だった時代ですから、この中世社会において、中央集権的な身分制度をつくって人民に押し付けるなどということはできないのです。
 付け加えますと、江戸時代というのは、現在我々が思っているほど人民の生活の隅々まで管理できるというような中央集権的だったということはありません。今、警察庁の下にいる警察官の数は万で数える人数ですが、江戸時代では今の警察官のような人たちは何百人という規模でした。細々した注意事項のお触れなどは順番に回覧されていくような体制がある程度はありますが、我々がイメージしているような、そんな差別体制をつくって、一般庶民の隅々まで押し付けるほどの集権制はもともとありません。
 この近世政治起源説はそもそも学問的根拠があったのかと言われると非常に心もとない話なのです。第二次世界大戦前には、昔々社会的に零落した人が村をつくったというくらいの素朴な考え方でしたが、第二次世界大戦後の歴史学研究というのは、戦前の皇国史観の反動が強く出ています。戦前は第二次世界大戦に突入するに従って、右へ右へとぶれて、日本というのは「神の国で、世界で一番優秀な国だ」というようなことを言わんがための皇国史観になってしまいました。皇国史観というものは、本来はそういうものではないのですが、ものすごく神がかったような話になっていったのです。戦争に負けてその責任が問われて、今度は逆に歴史学研究が左にぶれました。第二次世界大戦後の歴史学研究を主にリードした人がマルクス主義的歴史学を打ち立て、皇国史観を徹底的に批判しました。皇国史観の解毒剤としての一定の役割は戦後歴史学にもなくはなかったと思っていますが、世界的にまれに見る左にぶれた歴史学がずっとあり、その中から支配のために差別が生み出されたという話が出て来ます。井上清さんという歴史学者は研究者として自分の考えていることをそのまま押し通すような、なかなかすごい先生でした。その先生が戦前の皇国史観を批判して打ち立ててきたのが、当時で言えば新しい部落の歴史研究でした。これは、人民を支配するために身分をつくり、その政治の都合によってつくられたものがずっと現在にまで、政治の怠慢によって温存、助長されてきたのだというものでした。
 行政に対して何か施策を要求するのにあたり、今まで何百年政治の都合で虐げられてきて、現在に至るまで政治の怠慢で、我々がかくのごとく差別され貧困に苦しんでいるという、非常にすっきりした話ができてきたわけです。ですから同和事業がどんどん進められている時代というのはこれでよかったし、行政の方も、この説に従って行ってきました。ですから1970年代、80年代、90年代ぐらいは非常にこの近世政治起源説が全盛でした。

【部落の成立】
 しかし、研究が進んでくると先ほどお話ししたようなことが分かってきました。京都の主だった同和地区は、江戸時代に新田開発が進んだころに稲の番人として派遣されて、少数点在の部落ができる地域があるものの、もともとがっちり地域に根を張って村をつくっていた部落というのは、だいたい1400年代、1500年代が主なのです。
 何故そんなことが分かるかというと、例えばその部落のお寺がいつできたのかを調べると、だいたい1400~1500年代ぐらいにできています。共同体がないところにお寺だけができるわけはないので、一定の村があってそこにお寺ができたのだろうということが想定できます。
 このようなことから、近世政治起源説は戦後からずっと40~50年ほど有力だったのですが、ちょっとこれは違うのではないかという話がでてきました。また、それと同時に、人民支配のために時の為政者が差別意識を注入していたという説では、一般国民の中に根強くある差別意識の問題などはちょっと説明できない。時の為政者が差別意識を注入していたのなら、その手をパッと離した途端に差別意識というのが消えていってもいいのではないかと考えられるわけですが、そうでもない。延々と差別意識が続くのはどうしてかということを考えると、もう少し違う部落問題の歴史的な起源を考えた方がいいのではないかということになります。
 それでは、身分制度のピラミッドの下にえた・非人身分をつくった。といようなことがもし違うのだとすると、では、いつどうやってできたのだという疑問がわいてきます。1つ非常に大きな要素として考えられるのは、南北朝から室町ぐらいに「ムラ」というものができた。どのような字を書くかといいますと、物理学の物の下に心と書く「惣」です。すべてというような意味ですね。現在、高校の日本史の教科書には「惣村」というものがこの時期、南北朝、室町期にできたということが書いてあります。皆さん、村などは縄文時代の大昔からあるのではないか、こんなときに村ができたというのは解せないと思われるかもしれませんが、昔々の人間集団というのは、この時期の村とはだいぶ様相を異にしていて、非常に有力なリーダーがいて、その下にある従属関係が非常に強いでのす。ですから下っ端の方になると、もう牛馬同然に売買されるような弱い立場の人、奴隷的な人がいます。リーダーが移動するとぞろぞろと移動するような、強固な縦の関係があるということです。
 南北朝、室町期にできた「惣村」には、一応庄屋的リーダーがいるにはいるのですが、村のメンバーとして認定されている人たちには、まあまあ平等な発言権があって、村の寄り合いでは自分の言いたいことが言えるようになっていました。庄屋というと何かすごくいい思いをしていたのではないかと思われるかもしれませんが、江戸時代においても「庄屋を三代やったら家がつぶれる」と言われるほど大変なものでした。今の自治会長の苦労を五倍にしたくらいいろいろな面倒をみていて、それほどおいしい話というものはなかったようです。三代やったら家が傾くと言われるくらいですから、権力を振るって村のメンバーに何かを押し付けたり、逆に搾り取ったりする関係ではありませんでした。
 この時期にできた惣村という典型的な村の中では、わりと平等な、学術的に言うと縦の関係ではなく横の関係でした。それから地縁的で、先祖代々この土地にいて田畑を耕しているというようなつながり方でした。血縁や同族結合ではなく、土地を基盤にしたつながり方です。ですから日本の村の場合、同じ先祖に発しているというような神話を持っている人々ではありません。アメリカインディアンの場合は、先祖を辿るとウサギだった。など、そういう同族であるというような神話がありますが、この村の場合は血縁や同族ということではないようで、先祖代々ここを耕してきたという地縁的な考え方です。
 それからもう1つ言えば、非常に自治的で村の中のことについては村の寄り合いで決めていました。これについては領主が口を挟むことができないくらい、この時期にできた村共同体の自治的な力というのはなかなかすごいものがあります。ですから年貢の割り当ても村にポーンと割り当てられて、村の中での割り当ては村で協議して決めます。それからいろいろな道の普請や道路工事、そのようなありとあらゆること、基本的なことは村が自分たちで決めます。誰をメンバーとして認めるかというのも村の総意によって決まっていて、例えば村の有力者が誰かを勝手に連れてきて、今日からこいつは村の一員に加える、というようなことはできません。村の意思として先祖代々、自分たちのメンバーであった人間はメンバーだし、そうではない人は駄目だということで、取り囲んでいる殻みたいなものが非常に固いわけです。プラスの面はたくさんあります。農作業などは、それまではそれほどしっかりした共同作業はできていなかったのに、村ができてからはお互いに助け合いで共同作業をすれば生産力も高まるし、防災などに対しても強い地域ができます。
 実は、この時代にできた村がズーッと現在にまで続いて、だいたい1960年代の高度経済成長下でつぶれていくまで、日本社会の根底において600年にも渡り地域を支えていました。この共同体は戦国時代から明治維新を通じても壊れずに、我々の生きている時代にまで来るわけです。
 これによって日本の安定性などのプラスの面がたくさんあったと思いますが、マイナスに作用する場合もあるわけです。それは非常に排他的になってしまうということで、メンバーになっている人はいいけれど、外から来た人はなかなかメンバーに入れない。あるいはメンバーだったのに何らかの事情で排除され脱落するということが村社会では起こるわけです。
 例えば天災で田畑が流出してしまうことがあります。昔は洪水が起こると昨日までこちらを流れていた川が、次の日は向こうの方を流れるということが起こりました。天災によって、昨日まで耕していた田畑が川の底になってしまうと生きる糧を失います。現在は震災住宅や、災害の応援をするいろいろな手だてがありますけれども、この時代は次の日から生きていけないという状況になります。
 昔、京都などでは、そういう被害にあった人たちが食べ物を恵んでもらおうと思って都に入ってくるのですが、都の人もそれほど生活に余裕があるわけではなく、助けてあげる手だてがないため、町中の道端で行き倒れて死んでしまうと、それを野犬が食べる。野犬が人の腕を加えてうろうろしているような悲惨な状態が災害時にはあありました。このように天災によって村のメンバーから外れてしまうということもあります。
 そこまで酷くなくても何らかの事情で年貢が払えなくなり、夜逃げ同然になってしまうということもあります。例えば目が見えなくなるなど何らかの障害を持ってしまい農作業ができなくなってしまった。障害を持つと働けなくなり乞食になって物ごいをして生きていくことになります。村人であった人が、目が見えなくなっただけで乞食になるなんいて「そんな殺生な」と思うかもしれませんが、これはわりと最近まで続いていた話です。皆さんご存じでしょうか。20年位前に亡くなった方ですが高橋竹山という津軽三味線の名人がいました。この方は目が見えないのに楽器を演奏するアーティストとして生きた人ということですから、どんないいところのご子息かと思いますが、そうではありません。高橋竹山は1900年前後の生まれだと思いますが、普通の農家に生まれました。ところが4歳ぐらいのときにはやり病で視力が弱くなってきて、10代の中ほどで完全に見えなくなりました。青森の人ですが、青森では完全に視力を失ったお百姓さんは乞食になるしかありませんでした。これは1900年代、20世紀の話です。
 彼は14~15歳で乞食にならざるを得なくて、乞食の師匠みたいなところに弟子入りをして三味線を教えてもらいました。乞食も営業がありまして、よその家に立って何にも無しに戸口を叩いてただ「お恵みください」と言うだけではだめで、何か芸的なものをしなければいけません。日本というのは乞食に対しても、乞食が玄関先で三味線をべんべん弾いて「お恵みください」と言っているのに、長いこと放っておくと、誰々さんのところは長い時間放ったらかしている、冷淡な人だというようなうわさが立ちます。そんなうわさを立てられるのは嫌だというわけで「これだけ米あげるからよそでやってちょうだい」と、食べ物やお金をもらったりすることが出来るのです。
 そこで高橋竹山さんも三味線を習い出して1カ月くらいで、乞食営業に出てべんべん弾いていました。ところがこの人には才能があったのか、弾いているうちにだんだん腕を上げてきて、あるところで民謡の大家が「なかなかええ腕をしとる、俺の巡業に伴奏で付いて来い」と言われて付いていきました。しかし、そのころの高橋竹山さんの津軽三味線の三味線というのは、ぼろぼろで人にはとても見せられない。1回棹がボキッと折れたものをもう1回くっつけてひもか何かでくくってあるような、すごい楽器を使っていたらしいです。そうこうしている間にだんだん腕を上げて、津軽三味線1本で人に聴かせられるような腕になりました。亡くなる前にはアメリカで公演をして2万人も3万人も観客を集めるような津軽三味線の第一人者にまでなったという方です。この高橋竹山さんは、元はと言えば視力を失ったので乞食になった。乞食をする上で乞食芸をしなければならないので1カ月ほど三味線を習ったという人なのです。20世紀でもこのようなことがあるのですから、室町時代に目が見えなくなったり、身体障害者になったりすると、てきめんに村の共同体からは脱落していったのです。
 もう1つの村から脱落する原因は病気です。病気の中でもらい病、現在のハンセン病です。今、我々は病気に対していつもびくびくしているということはありません。原因が分かりかなり治療法が進んでいる病気も多いですから、病気に対する恐怖心は昔より薄いです。そもそも病気が細菌によるものだと分かったのは江戸時代の後半になってからの話で、それまでは日本だけではなく世界中で病気のはっきりした原因は分からなかった。病気に対する治療法もあまりありませんから、非常に恐怖心を持っていて神様のたたりを受けないように、いろいろな神様を祭るということをしていました。現在、日本国内でらい病(ハンセン病)を発病する人はほぼいません。プロミンという特効薬ができてからは完治する病気になりました。らい病(ハンセン病)というのは発病するとだんだんと目や耳、鼻、手足など顔や体が変形します。そのため昔はらい病(ハンセン病)というのは前世のたたりや業が今に報いて病気になったのだと言われ非常に恐れられました。ですから村の中でらい病(ハンセン病)患者が出ると、てきめんに村から追放されて乞食をして生きていかなければならないということになります。
 こういう諸々の原因で村の共同体から脱落する人は、中世社会において非常にたくさんいたわけです。メンバーの人はだんだん安定してきますが、外に追い出された人たちの多くは野垂れ死にしたのでしょう。中には生き延びた人たちがいて、いろいろな集団をつくっていきます。中世社会にあっては、一般社会の外側に、社会外の社会として賤民集団をつくりました。これは地方ごとにさまざまな名前が付いています。先ほど言ったように統一権力などはありませんから、その地方ごとの都合でできるわけです。
 例えば京都では「宿」(しゅく)と書く場合と兵庫の夙川の「夙」(しゅく)と書く場合がありますが、宿(夙)という人たち、声聞師(しょうもじ)、河原者(かわらもの)と呼ばれる人たちがいました。京都は、宿(夙)・声聞師・河原者で8割方を占めています。京都の場合はそうですが、よそへ行くといろいろローカルに名前が付いています。例えば面白いところでは、お茶を点てるときに使う竹を細かく割って作った茶筅(ちゃせん)という道具がありますが、岡山地方に行くと、村のメンバーから外に追い出された人たちが茶筅と言われています。これは同和地区とは全く別物です。
 古くは清目とか河原者と当時は言っていたはずですが、資料で仮名書きされているのは大概「カハラモノ」と書いてあり「カワラモノ」と書いてあるものはありません。最近は漢字を適当に読んで「カワラモノ」ということになっていますが。これが戦国時代になると「皮多(かわた」)という名称に変わり、江戸時代になると「穢多(えた)」という名称に変わります。この系列だけが現在の同和地区になったわけです。
 その他に、これまで歴史上で確認されている中世から近世にかけての賤民集団は100では足らず、もう少し多いです。ですから地方へ行くと同和地区ではないのに、漠然と差別されているところがあります。それはこの清目・河原者系統(現在の同和地区)につながらない別系列の100以上ある賤民集団の名残があるということです。
 ですから、たとえば茶筅というのは同和地区とは関係なく、やはり差別されていました。差別する人は別に穢多系だ、茶筅系だといった区別はなく、いわゆる自分たちの社会外の社会だということで差別をしていることが多いので、差別されている人も、自分たちは何で差別されているのかよく分かりません。生活も他とそんなに変わったことをしていないし、茶筅の道具をつくっているからといって特別何か人の嫌悪感を催すようなこともしていないのに、何で差別されているのか分からない。しかし、先祖代々差別されてきているから仕方ないのか、と思っている人が多いれども、もとを正せば中世社会でできた、社会外の社会に排除されたものの1つが残ってきているということです。
 そういう中世賤民は現在の部落解放運動には基本的に加わりません。穢多(えた)系の人たちと我々は違うのだと強く思っていますから、むしろ宿の人たちは穢多系の同和地区に対しては、「自分らは一緒くたにされることは絶対嫌だ。だから部落解放運動に加わるなんてとんでもない。一番大事なことは同和地区と我々は違うということをみんなに認識してもらうことだ」という感じで、宿の人たちはいまだに穢多系と混ぜこぜに考えられることを強く拒否します。その宿差別というのも最近はだんだん薄くなって来ましたが、今から20年くらい前でしたら、同和地区のように特に貧しいということはありませんが、宿村の人も同和地区と同じような結婚差別を歴然と受けていました。
 ともかく、一般の村共同体の外側に多くの被差別集団ができました。そのうち消えたものもありますが、村として形が残っている場合は、他の一般の村から見ると社会外の社会だというイメージがずっと現在に至るまで続いてきていることが多いです。近世政治起源説ですと、そのような地域ごとのローカルな賤民集団がなぜ現在残っているのかという説明がなかなかできないのですが、村起源説でいくと村から排除された人たちが社会外の社会をつくってそれが現在にまで至っているという説明ができるので、村起源説の方がより歴史的事実に近いとは思います。
 京都の場合は宿というのが一番古くて、平安時代くらいからある集団です。それから声聞師(しょうもじ)と清目・河原者というのがあって、この宿というのは村として古くからあって、賤民の仕事をしているのですが、江戸時代に入ると、えた・非人以外の賤民は基本的に幕府や藩から見ると、賤民扱いではなくなります。ですから宿の人たちは江戸時代ぐらいに入ると法律的・制度的には賤民ではなくなりますが、地域の人は、あいつらは社会外の社会にいる賤民だと思っているので、ちょっとややこしい場合があります。
 例えば江戸時代に裁判でお白州(おしらす)に引き出された場合に、お百姓さんは砂利のところにむしろを敷いて、そこに座らせられます。えた・非人は賤民だから一番格下の形式で砂利にじかに座らされます。では、宿の人がお白州(おしらす)に行った場合はどうなるのか。幕府や藩は、宿のことは「知らん」と言います。とにかく彼らは平人だからむしろに座りなさいということになります。ところが村の人は「あいつらは賤民だからむしろに座らすなどそんなことできない」と言います。村の人にごねられると、江戸時代の奉行たちは弱く、江戸時代は村のことにあまり口出しをしないで村の慣行を尊重しますから、裁判のときに宿の人をむしろに座らせようとして、村の人から「駄目だ、我々より格下なのだ」と言われると、奉行は困るわけです。
 奉行がいて、お白州(おしらす)があって、そこにむしろを敷いて、お百姓さんはむしろに座ります。えた・非人は後ろに座りますが、そこでこの宿をどこに座らせるかということが問題になるわけです。幕府から見たら平人だからむしろに座らせないといけないけれども、村の人たちの感情も尊重しなければいけない。それでむしろの上に村の人を前に座らせ、宿の人はその後ろに座らせる。ここに賤民制度の不思議さというか本質がよく表れていると思います。ですから基本的には村が起源で、村の人たちの意思によって誰を差別するということが決まっているのです。そのことを幕府や藩は尊重せざるを得ないけれども、自分たちの法制度的なものがあり、賤民は基本的にえた・非人身分で、それ以外は平民扱いにしようとしても、村は代々の賤民としていろいろな百何十種類の賤民の人たちを差別しようとします。お白洲の話はこの差別問題をよく表していると思います。

 

【絵画資料に見る部落史】
 それでは次に、当時の賤民集団というのはどんな様相だったかを絵巻物などの絵画資料でご紹介します。これは『洛中洛外図屏風上杉本』と言われるものです。洛中洛外図屏風というのは京都の都の風景を書いた屏風絵です。洛中洛外図屏風というのは正確な数字は知りませんが、現在数百十点残っているのでしょうか。その中にできのよいのも悪いのもあります。
 この『洛中洛外図屏風上杉本』というのは国宝に指定されていて、洛中洛外図の最高峰です。これは1500年代の後半に織田信長が上杉謙信に自分の好意を表そうとプレゼントするために、当代一の絵師であった狩野永徳および門下の人たちに総力を挙げさせて描かせた屏風絵です。ここに映しているのはそのうちの一部です。これは何かというと、祇園祭の風景です。これは長刀鉾(なぎなたぼこ)といいます。これは蟷螂山(かまきりやま)です。トップは決まって長刀鉾で先頭を行っています。この後にあるのが本来のお神輿の神様を乗せているお神輿です。ですから本体はこちらで山鉾巡行(やまぼこじゅんこう)の方はお祭りの本体ではありません。今は観光資源として観光客が見に来ますが、1500年代ではこのお祭りをきちんとして神様の怒りをかうようなことがないように大真面目にやっていました。きちんとお祭りしておかないとどんな天変地異が起こって、それこそ伝染病がはやって、洪水が起こって死ぬかもしれないからです。今も真面目にやっていますが、昔はもう本当に真剣に神様をお祭りして「今年1年が無事でありますように」という、強い神様への恐れがあったうえでやっていたわけです。
 スライドをご覧ください。この先頭の六人衆が宿の中でも犬神人(いぬじにん) と言われる人たちです。社会外の社会である賤民だから乞食同然の生活で生きていたのかと思うかもしれませんが、実はそうではなくて、かなりいろいろな仕事を与えられています。 
 これはお神輿ですが、お神輿の先頭の方に行くと、六人衆が柿色の服を着て、手に警棒みたいなものを持ち頭に白いバンダナを巻いているような感じで祇園の警備にあたっています。賤民の仕事として祇園社の境内、あるいはその周辺の治安を担当しているわけです。この人たちは先頭として、お祭りの神様に不届きなことをするような人がいたらたちどころに成敗する。資料によると、ある時酔っ払った人がお神輿に悪さをしようとしたので、その場で六人衆がボコボコに殴って撲殺しました。殴り殺したから悪いというのではなくて職務として忠実にやっているのです。酔っ払いがお神輿に何かしたら次の年に都でどんな災難が起こるか分からないとみんな思っていますから、この警備の六人衆が駆け付けて棒で殴り秩序を守ったということなのです。この人たちは犬神人といいます。
 今日は時間がないのであまりお話できませんが、今から十数年前に「もののけ姫」というアニメーションがヒットしました。あの中に石火矢衆(いしびやしゅう)という鉄砲で武装した集団が登場しますが、彼らはこの犬神人の姿をモデルにしています。監督の宮崎駿さんは、「もののけ姫」というアニメをつくるときに中世賤民の話をよく勉強しました。従来の時代劇というとお百姓さんと侍だけが出て来て、年貢を搾り取られて「はい、お代官様」みたいなことになりがちだけれども、そんなものは面白くないので、この時期にいたいろいろな庶民の、賤民だけではなく狩人とか牛飼いとかいろいろな人を登場させたわけです。そのうちの1つがこの犬神人と言われる祇園を警備していた賤民です。 
 それからもう1つ、僕は「もののけ姫」を見たときに真っ先に思い浮かべた巻物がありますが、「融通念仏縁起絵巻(ゆうづうねんぶつえんぎえまき)」と言われるものです。スライドをご覧ください。ここに3人の男性がいますが、これが声聞師(しょうもじ)という人です。ちょっと派手な格好をしていますね。これは戦国時代辺りに、ちょっとアウトロー的な匂いを出す「婆娑羅(ばさら)」というファッションが当時はやっていて、「ばさら大名」と言われるような人も現れました。時代の先頭を行くぞという気概を持っている人は「ばさら」風をしたようですが、この3人の賤民の声聞師の男性はちょっと「ばさら」の風俗をしていて、一般のお百姓さんが着るような風俗では全然ありません。ですから町を行く人はある種の恐れとともに、何か格好いいというような印象を持ったのかもしれません。
 この声聞師は「もののけ姫」に出て来るジコ坊という何か諜報機関のスパイみたいな感じの登場人物のモデルです。この後ろに背負っているつづらは何かというと、「もののけ姫」では、主人公にそのつづらから旅行用具から食器やら何やら出しておかゆを炊いて食べさせる話になっているのですが、実はこの中には操り人形が入っているのです。操り人形といっても上からひもで操るのではなくて、箱の下から手を入れて操るような操り人形です。ですから、この声聞師というのはどちらかというと芸能的なことをする人です。他に芸能というと非常に特徴的なのは「万歳」です。今のマンザイは「漫才」と書きますが、もともとはこう書きました。正月三が日が主ですけれども、長い長い年月に渡り長寿を祈る、祝うという「万歳」を声聞師の人たちがやって幸せを呼ぶというような芸能的なことをやっていました。
 ですから現在も「漫才」というと、正月の行事というような雰囲気がどこかみんな記憶にあるためお正月にはお笑い番組が多いわけです。もともとこういう人たちが正月の三が日に家々の戸口に立ってめでたいことを唱えて、別に笑いを取るというのではなく、福禄寿が出て来て、ちょっとおめでたい話をして、ひねりをもらうという生活をしていました。こういう人たちも賤民として生活をしていたわけです。ですから賤民といっても村から排除された当初は大変だったかもしれませんが、賤民集団をつくり、自分たちの仕事を持つようになると、なかなか面白い専門的な仕事をするようになっていきます。

 あと1つ、2つ、絵をご紹介します。それでは、清目・河原者系の後の同和地区につながるような賤民集団はどんな仕事をしていたかというと2つあります。1つは死んだ牛馬の処理をする。当時は「けがれ」の問題が社会的には重大でした。この「けがれ」の問題を今の若い学生に説明するのは本当に苦労します。皆さんはもう少し年が上ですのでお分かりになると思いますが、いわゆる物理的な汚れ(よごれ)ではない汚れ(けがれ)。例えば人が死ぬとそこから出て来るそういうものです。「けがれ」に触れると病気になったり不幸になったりいろいろなことが生じるので、農耕に使っていた死んだ牛や馬を処理する人が清目・河原者と言われました。清目という賤民集団の名前は死んだ牛や馬を解体処理するというところから出て来ています。
 もう1つは社会を清めるということ、犯罪を取り締まるという仕事をしています。これも話せば長いことですが、鎌倉時代の始めに鎌倉仏教と言われる一般庶民向けの仏教が台頭してきますが、そのうちの1つが法然上人の浄土宗です。ご覧いただいている絵のお坊さんは鴨川の河原に連れて来られた法然上人の弟子である安楽房(あんらくぼう)です。これは当時の後鳥羽上皇のところに布教する際にそこの女官と仲よくなったことを邪推され、処刑されるという場面です。この後ろの人たちが清目・河原者と言われている人たちです。この2人が警察の一番下の位になりますが、犯人を逮捕して牢屋に入れたり処刑したりという仕事をしていました。
 現在の感覚では死んだ牛や馬を解体処理して「けがれ」が発生しないようにすることと、犯人を逮捕して処刑するという仕事は全然つながりませんが、今から数百年の前の人たちは、これを一括して清目の仕事というように受け取っていたわけです。ですから、我々からすると保健行政と警察行政とは別ですけれども、当時の人たちは保健所の仕事と京都府警の仕事は一括だと思っていました。社会を清める、正常に保つ、衛生的にも正常に保つことは一緒でした。
 京都の治安維持を担当していた人たちを検非違使(けびいし)と言いますが、検非違使のトップは今で言う京都府警本部長にあたる人で、この人は武士です。その人に使われて実際に逮捕や処刑をするのは河原者でした。逆にいうと、江戸時代の武家が支配する世の中になって、どうして賤民集団として残ったかというと、武士と非常に近い関係にあったからです。近いのになぜ賤民かということですが、武士の集団からすると、自分たちの家来として使っている賤民集団は、専門職集団で残っていてもらわないと困るからです。他の賤民である宿などはあまり武士と関係ないから、村では差別されているかもしれないけれど、幕府や藩としては関係ないという話です。この時代は、牛馬を解体してそこから皮革を製造して、鎧甲をつくるところまで行っていたので、戦国大名にしては大変重要な人たちでした。それから末端の警察行政も京都などでは、皮多村(えたむら)が請け負っていました。ですから、武士がえた身分を特別賤民集団として残した理由というのは、そんな悪意があるわけではなく、自分たちの出入りの専門職業者として重要であったからだろうと思います。非人は乞食なので別格です。宿村はどちらかというと、武士以外の権門にくっついていましたが、それらが零落すると同時に、宿の人たちは自分たちが賤民として抱えていた仕事を全部えた身分に吸い取られて、その中で純農村のようなことになってしまいました。ですから、賤民の仕事から得る収入を失うわけです。最初に賤民の仕事を取り上げられたときは大変だったと思います。しかし、どんどん農民化して江戸時代を通じて百姓としての扱いになっていきます。
 清目・河原者の方は武家と密接な関係にあったので、戦国時代にあっては鎧甲の原料を納品する役割を担っていましたし、江戸時代にあっても治安担当の警察業務を引き受けているわけですから、武士との関係は大変強いわけです。ですから賤民にしたというのは特別な悪意があってやったわけではなく、仕事の必要上のことだと思います。

【江戸時代の皮多村の発展】
 それから、江戸時代で重要なことというと、江戸時代半ば以降、雪駄(せった)という履物が一般町人に流行しました。戦国時代が終わり、全国統一がなされ平和な時代になって、経済が発展しいろいろなものが生産されるようになると町人が台頭してきました。雪駄(せった)という履物は、竹の皮で台を編んで鼻緒を付けて、裏に牛革を貼るという履物です。これを履くようになったのが江戸時代の半ばですが、この牛革を生産しているのが唯一「えた身分」だったので、雪駄の製造・販売・修繕に至るまでを「えた身分」が独占できました。これは幕府が何かしたというわけではなく、全くの偶然でした。町人の中で雪駄がはやった。この偶然により急激に生活が向上してきて、一般のお百姓さんを抜く勢いになった。江戸時代の「えた身分」といったら、死ぬか生きるかの乞食同然の暮らしをしていたと思いがちですが、そうではなくて、江戸時代の後半にはどんどん経済力を付けています。服装も結構よい着物を着るようになっていきます。江戸時代の末、1800年代になると、それが身分制度の根幹を揺るがすほどになってきたので、幕府や藩は「えた身分」に対して身分を超えた贅沢してはいけないというお触れを度々出すようになります。
 これは差別を強くするなどというのではなく、あまりにも「えた身分」の経済的台頭が甚だしいので、いくら何でも放っておけないということで、例えば1800年代に入ってからですが「渋染一揆」というのが岡山県でありました。えた身分の着る服は渋染めか藍染に限るというお触れを出しましたが、岡山県下53か村の「えた身分」は団結してそれをひっくり返してしまいます。渋染め・藍染はお百姓さんの通常の着物ですから、特別にえた身分的な服装を強制しようとしたわけでなく、百姓の生活レベルを超えるような絹とか華美なものを身につけるようなことはいけない。というものですが、皮多村の人たちは「何でそんなことを言われなあかんねん、自分たちはお百姓でちゃんと年貢も納めてまじめに生きているのに、えた身分だけ着物を強制されるようなことは嫌だ。」と言って2~3年がかりでお触れを撤廃させました。もちろん首謀者は処刑されましたが、「えた身分は、せいぜい百姓レベルまでの生活にしておけ」というお触れを撤廃させたということはなかなか大変なことでした。江戸時代後半から明治初期にかけての皮多村というのは非常に生活レベルが高いものでした。

【解放令~松方デフレ政策】
 1871(明治4)年に解放令が出ました。従来、えた・非人身分を廃止して平民同様にする、などという解放令は意味がなかったという評価が長いことありました。先ほどの近世政治起源説とワンセットで、解放令空手形論というものです。
 これは、「解放令のときに、賤民を廃止すると同時に、本来は元のえた身分の人に生活保障もするべきだった」というような議論なのですが、生活保障も何も1871(明治4)年頃の部落というのはものすごく経済力がありました。京都のある部落などは白い塗り壁の倉庫がずらっと立ち並んでいて、その中には外国から輸入したかのような財宝が埋まっていたという話です。もちろんそんなところばかりではありませんが、概して同和地区の生活というのは、この時期は非常に格別高かったので1871(明治4)年にできたばかりの明治革命政府が、えた身分に何か生活保障するというようなことは考えませんでした。当時一番困っていたのは武士身分で、いろいろな特権を取り上げられたうえ、廃藩置県で全員リストラされ、秩禄処分(ちつろくしょぶん)で毎月、毎年の給料も全部廃止されたのです。このような状況のため、武士身分を何とかしなければいけないということは当時大事でしたが、えた身分に関しての生活保障は全然いらぬお世話だったわけです。

 それでは、どうして明治期に部落の貧困が生まれたかということすが、あまり差別は関係ありませんでした。西南戦争の際、明治政府が国家財政の3倍くらいの戦争費用を使うと同時に大量の不換紙幣を刷って武器弾薬を整えたりしたので、大変な悪性インフレになったわけです。それを何とかして経済を正常な軌道に戻そうとして 「松方デフレ政策」という不換紙幣の回収政策を行いました。この松方デフレ政策のときに部落の皮革産業、履物産業が大打撃を受けました。部落産業が崩壊したのは1881(明治14)年の松方デフレ政策であるというのは、近代部落史研究の一応定説になっていると思います。部落の貧困が生まれた原因は、昔は解放令が悪かったというような話ですが、そうではなくて松方デフレ政策によるものだということが最近は定説になっていると思います。
 部落史のことは他にも言わなくてはいけないことが多々ありますが、とにかく部落の貧困というのは直接差別が原因ではなく、松方デフレ政策で部落産業が崩壊したということです。ただし、他の産業に進出できなかったのは、今のように自由な労働市場ではなく、昔はもっと縁続きでなっている経済でしたから、その中で部落の人が新しい産業に進出したり就職したりということは難しかったのです。ですから、松方デフレ政策以降、約80年、1960年代の高度経済成長と同和行政の開始までは部落は本当に貧困に苦しみました。その中でいろいろな社会病理的なものも抱え込んでいきました。

【同和問題の新しい論点】
 同和問題を巡ってはいろいろな論点がここ20年ほどで議論されてきました。例えば、よく行政の研修などでは、オールロマンス事件というものが出てきます。1951(昭和26)年に オールロマンス事件というのが起きたのですが、それは、雑誌オールロマンスに部落の貧困な生活を描いた差別的な小説が載せられたもので、こんな生活実態を放置したままでは差別はなくならないということで、差別小説を書いた人ではなく、部落の低位な生活を放置している行政の責任を第一に追及する差別行政糾弾闘争がそこから始まったというように通史的には言われている事件です。
 オールロマンス事件を根拠にして同和事業を進めてきたけれども、オールロマンスの差別小説というのは、よくよく読んだら朝鮮人部落の話で、出て来ている同和地区の人は地域の顔役のすごい面倒見のよい、いいおじさんが1人出て来ているだけではないか。あとは朝鮮人ばかりが出て来る小説を根拠にして、そういう人たちがいるところが貧困で苦しんでいる。それを行政が放置してきたのだというのであれば、今まで朝鮮人向けの事業は、ほとんど顧みられずに同和地区だけやっていたのはどういうことだということです。広く深くは難しいかもしれませんが、今までのような狭く深い同和事業からもう少し広げて、いろいろな社会的不平等を是正するような方向に持っていくべきだと思います。

【同和行政の経過】
 同和事業というのは2002(平成14)年に国レベルで終結していまして、現在は啓発活動等を中心に行政が取り組んでいるということですが、僕はいろいろな人権に関わる問題というのは、同和事業のように行政が全面的に乗り出して、上げ膳据え膳で片付けるということは財政上許されないし難しいと思っています。
 例えば一人暮らしの高齢者の問題・家庭内暴力・若い人の引きこもり・障害者の社会参加などいろいろとテーマがあると思います。しかも急を要するというか、放置できない問題が多々あります。今は人権擁護委員さんがかけずり回って一生懸命いろいろな世話をしていますが、こういう問題を解決するには地域社会全体で考えていくようにすることが大切だと思います。
 とにかく個人に責任が押し付けられている現状がありますが、例えば子どもの引きこもりの問題などは、当事者の親が子どもを何とかしようと思って、個人で努力するのは非常に危険なことだと専門家の間では言われています。それをやろうとすると、子どもの精神状態がますます悪くなって、家庭内暴力になってしまうようなことがありますので、そういうことも地域社会で考える。そこにいろいろな専門家の手助けも得る必要があります。同和問題も地域社会の問題です。これまでお話ししてきたように同和問題というのは政治権力うんぬんではなくて、地域社会の問題としてずっと続いてきているわけです。最近は差別事件はだいぶ少なくなっているので、それほど部落差別、部落差別と毎日言う必要はないとは思います。それでも差別があるにはありますから、そういう問題は地域社会で起こる諸々の問題と合わせて、地域社会で解決できるような仕組みなり、予算の措置付けをする。中学校区くらいの大きさのコミュニティーを考えて、その中でさまざまな問題に対処していくと従来の同和行政における同和事業での経験というのが非常に役に立つのではないかと私は考えています。
 ご清聴ありがとうございました。
(終了)