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研修講義資料

広島会場 講義5 平成27年10月21日(水)

「同和問題のこれまで、そしてこれから ~同和対策審議会答申50年の節目に考える~」

著者
馬場 周一郎
寄稿日(掲載日)
2016/03/09

【1】何が進み、何が残っているのか ~同和対策審議会答申50年の成果と課題~

 こんにちは。ただいまご紹介いただきました馬場周一郎です。
 今日は、同和問題が今まさに、大きな転換期を迎えているということについてお話ししたいと思います。
 同和対策事業は、1969(昭和44)年に同和対策事業特別措置法(特別措置法)が制定されてから、2002(平成14)年まで33年間にわたって実施されてきました。2002(平成14)年にこの法律が失効したと同時に同和問題は終わったという空気が、国民全般に大きな気運となって流れているような気がするのですが、法律が終わったことが同和問題の解決を意味するものではないことは、お分かりいただけるかと思います。
 同和対策審議会答申(同対審答申)が出されたのが1965(昭和40)年。今年は50年目にあたる年ですから、これまでとは違った発想で、同和問題のこれまで、そしてこれからを考えるいい機会だと思います。

 近年、部落史の研究が進んだことによって、被差別部落の起源について、いままで有力だった近世政治起源説は否定されることになりました。近世政治起源説では、徳川時代に士農工商その下に賤民身分を置くといういわゆる身分制度を完成したといわれてきましたが、もし身分差別を強化することが目的で、士農工商の下に賤民身分を置いたのであれば、全国にもっとバランスよく被差別部落を配置したことでしょう。なぜ西日本に偏りがあるのかということも解明されていません。
 ところで、徳川幕府が打倒され、明治新政府が誕生したのが1868(明治元)年です。その7年後の1871(明治4)年に明治政府は、太政官布告というものによって「賎民廃止令」、いわゆる「解放令」を公布し、身分制度を廃止しました。なぜかというと、明治政府が一種のカースト制を残していては文明国の仲間入りができないからです。もっと厳密に言えば、「賎民廃止令」には、地租改正、徴税の基礎を固めるという面もありました。いずれにしろ、新政府は徳川幕府が確立した身分制度を撤廃したのです。
 このように、解放令によって身分制度が廃止されたのですから、本来であれば、被差別部落の問題はもうこの時点で終わっているはずではないでしょうか。しかし、1871(明治4)年から、もうすでに140年以上の月日が経過しているのにも関わらず、現在も被差別部落の問題は解消していません。
 これは実に不思議な特殊差別だと思いませんか。女性に対する差別、あるいは障害者、外国人、そして今日大きな問題となっている高齢者の問題など、様々な人権問題がありますが、同和問題は、それらとは明らかにフェイズが違う問題であると私は思います。同和問題の場合、140年経った今もなお、土地差別にしろ、あるいは結婚差別にしろ、折に触れて差別が惹起されるということは、いったいどういうことなのでしょうか。
 制度が原因なのであれば、太政官という権力者が出した一つの布告によって差別は消え去っていくものだろうと思います。ところが差別はなくなりませんでした。解放令が実効性を持たなかったということは、つまり、被差別部落の問題(同和問題)は単に制度の問題だけではなくて、私たち日本人の心の奥深くに潜む意識の問題が関係しているのではないかと思います。

 解放令が出された1871(明治4)年から約140年間、政府は被差別部落のためにほとんど何もやってきませんでした。客観的事実として放置されてきたのは間違いありません。
 それでは、同和対策審議会答申が出される前の被差別部落はどのような状況だったのでしょうか。同和対策審議会答申が出される5年前に制作された全国各地の被差別部落の実態を描いたドキュメンタリー映画「人間みな兄弟-部落差別の記録」を観ると、その実態が分かるのではないかと思います。
 これを作ったのは、戦前戦後に活躍した亀井文夫という有名な映画監督です。亀井監督が1958(昭和33)年くらいから2年あまり、全国40か所くらいの被差別部落でカメラを回し完成したのがこの作品です。この作品は、極めて限られた映画祭などでしか見ることができないので、私が非常に印象的なシーンだけをお伝えします。
 まずは導入カット。ぱっと上映されるといきなり道が出てきます。「その道が細くなっている所に部落がある」というナレーションが入ります。このフレーズだけで、同和問題の本質的なものが、すぐに分かるようになっているわけです。続いてカメラは、ハローワークの求人票に移ります。公共職業安定所に張り出された企業からの求人票が映し出されます。ところが、この求人票には被差別部落の地名が書かれ、この地区は除くと書いてあります。つまり、1958(昭和33)年頃は、被差別部落に住んでいた子どもたちはこの求人票を出した企業には応募できなかったわけです。
 続いて銀行の採用試験を受けた二人の少女を映し出します。学校の成績が優秀な女の子と、彼女より成績が落ちる女の子。銀行の採用試験でも、普段成績の良い女の子の方が一次試験の成績が良かったのですが、最終面接で採用されたのは成績の低い女の子の方でした。採用されなかった女子生徒は被差別部落の出身であったのです。そして少女はそれを苦にして鉄道に飛び込み自殺をする。さらにカメラは続き、中学校を卒業後、河原で鉄屑を拾ってわずかな金を稼ぐ少年がスクリーンに描かれます。
 亀井文夫監督が「人間みな兄弟」というドキュメンタリー映画を作る前後に、藤川清という若手のカメラマンが全国の同和地区を回りシャッターを切った藤川清写真集というものがあるので、この写真集の中の2枚の写真についてもお見せします。この写真は、少しでもお金になるように、いわゆるドブ川で鉄屑を集めている少年です。もう一つは京都最大の被差別部落のまさにスラム状態の写真です。このスラム化された被差別部落の真ん中にドブ川が流れているのですが、雨が降るとこの川は水が溢れて1つしかない共同トイレに流れ込み、汚物が外に流れ出して1週間経っても、10日経っても水が引きません。当時は、トラホームという目の伝染病がしばしば発生しましたが、トラホームの発生源として犯人扱いされたのがこの地域です。実際、衛生上も非常に悪い場所でした。しかし誰も本格的にこの住環境の整備に本腰を上げようとはしなかったのです。
 当時の被差別部落の主要な産業は皮革産業でしたが、皮革産業の伝統がない所は行商です。シッタイ(失業対策事業の略)だとかニコヨン(日雇い労働者のこと)といった極めて不安定で、雨が降ったら今日の稼ぎはないというような暮らしの中で生きているのが現実でした。
 これがまさに同和対策審議会答申(同対審答申)に至る前の歴史なのです。

 このような中で、1965(昭和40)年に同和対策審議会答申が出されました。さすがに国もこの問題を放置することができなくなったわけですが、そこに至るまでには色々なファクターがあります。 一つは運動団体の闘いです。京都のオールロマンス事件というエポックメーキングなる行政闘争、これをきっかけに非常に勢いを増し、「自分たちの人権が侵害されているのは、いわゆる近代的な民主主義の人権がまさに保障されていないからであり、行政による差別、それが我々の基本的人権を侵害しているのだ」という意識になったのです。それまで運動団体の主要な闘争目標は、差別的な言動をした人たちに対して糾弾闘争をすることにありました。もちろん、糾弾闘争も継続するのですが、これだけでは恐らく差別の現状は変えられないという認識に立ち至って行政闘争を本格化させていったわけです。
 では行政は何もしなかったかというと、そうではありません。行政もまた、戦前の友愛事業というものを引き継ぎながら、西日本の各地でいろいろな取り組みを行っていました。同和問題をこのまま放置できないと思っている心ある行政の方もたくさんいたのです。でも、それはなかなか本格的な成果に繋がりませんでした。
 しかし、ようやく同和地区の改善が可能になる時が到来。それが、1955(昭和30)年前後から始まった高度経済成長です。それまでは同和問題を解決しなくてはいけないという思いは持っていても、予算もありませんし社会的な気運がまだそこまで醸成されていないという時代的背景もありましたが、ちょうどこの頃、日本は高度経済成長という、ある意味では天運に恵まれるようなことがあったのです。当時出された経済白書に「もはや戦後ではない」という有名なフレーズがありますが、まさにこの言葉によって日本の高度経済成長は始まったわけです。何が始まったかというと、人手不足です。
 1955(昭和30)年の有効求人倍率があります。有効求人倍率というのは、1を基準に1よりも上であれば、企業がたくさんの人を欲しがっているということを示し、1以下であれば、1人に満たない人しか欲していないことを示す指標ですが、1955(昭和30)年度の中学校の有効求人倍率は0.95、高校は0.72で、1より大きく下回っています。ところが、その7年後には中学校の有効求人倍率はなんと2.92になります。高校は2.73。わずか7年間で中学校も高校も有効求人倍率が実に3倍になったのです。
 この頃、まさに「金の卵」という言葉が生まれました。集団就職列車が上野を目指し、全国津々浦々から中学校を卒業した坊主頭の男の子や、セーラー服のお下げ髪の女の子が、次から次へと東京にやって来た時代でした。
 つまり、高度経済成長というものが、被差別部落の子どもたちを生産関係の中に組み入れる役割を果たしたと言えます。これは決して道徳的な側面から行われたものではなく、いわゆる中立的な経済政策の結果、このような事態が起きたということです。そして国もまた同和対策事業を行う経済的な余力ができました。
 その時代背景に立って同和対策審議会答申を見ると一層わかりやすくなると思います。

(1)『いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。
そしてその解決は国の責任であり、基本的課題である』と。これは有名なフレーズですね。

(2)『市民的権利、自由とは、職業選択の自由、教育の機会均等を保障される権利、居住及び移転の自由、結婚の自由などであり、これらの権利と自由が同和地区住民にたいしては完全に保障されていないことが差別なのである。これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就業の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である。』

同和対審答申のポイントはいくつもあるのですが、私が重視するのはこの部分です。「これらの市民的権利と自由のうち、職業選択の自由、すなわち就業の機会均等が完全に保障されていないことが特に重大である。」こう言っているわけです。それで3番目に、

(3)『したがって、同和地区住民に就職と教育の機会均等を完全に保障し、同和地区に滞留する停滞的過剰人口を近代的な主要産業の生産過程に導入することにより生活の安定と地位の向上をはかることが、同和問題解決の中心的課題である。』

と言っているのです。
 「停滞的過剰人口を近代的な主要産業の生産過程に導入する」の部分ですが、停滞的過剰人口というのはその地域、その集落に留まって外に出て行こうにも出て行けず近代的な主要産業の生産過程に入れない人たちのことです。同和地区にいた人たちは、教育を受けて来なかったことや、就職差別をされたことにより、行商や日雇いなどの不安定な就労にしか就けませんでした。このことによって差別の拡大再生産が行われ、貧困の連鎖が続いているという認識に同和対策審議会は立ったのです。これこそが正にポイントです。
 少し難しい話になりますが、皆さんは、差別意識はどこからくるのだと思いますか。これについては様々な分析がなされていますが、いわゆるマルクス主義では、私たちの意識は経済の反映だといわれています。この同和対策審議会答申もマルクス主義的な色彩が強いですね。つまり、実態的差別と心理的差別というものを挙げ、心理的差別はいきなり出てくるのではなく、実態的差別からきているというのです。例えば、貧困や不衛生な環境など、非常に劣悪な環境が差別意識を引き起こしていると考えます。
 同和地区の非常に劣悪な環境が心理的差別を生んでいるという視点に立って、「まずやるべきことは就労を保障することです。きちんと収入が得られるような環境を作り出すことに主眼を置きなさい」こういう答申を出したのです。
 さて、結論に入ります。同和対策審議会答申から50年、いったいどのような変化があったのでしょうか。
 まず、同和対策事業特別措置法という法律ができたことが挙げられます。それまでは法的根拠がありませんでしたから、同和対策事業を各地でバラバラに取り組んでいたのです。この問題に目覚めた首長さんがいる自治体や地域の声を受けて非常に熱心に取り組んでいる自治体もありましたけれども、全く関心を持たない首長さんのいる自治体では、この問題は手つかずの状態というのが同和対策事業の現実でした。
 これではいけないということで、取りあえず10年間の時限法による特別措置法を作ることになり、この法律施行後、一気に劣悪な地域の環境改善が進みました。1969(昭和44)年から2002(平成14)年までの間、公共費だけで約15兆円が投入されましたが、この効果は絶大でした。例えばこの法律ができる前はいわゆるスラム状態にあった被差別部落が、法律が出来たことにより、近代的な公団の鉄筋住居が建てられたりしましたし、高校進学率がものすごくアップしました。例えば、1965(昭和40)年時点において一般地区の高校進学率が80パーセントだとすると、同和地区の子どもたちの高校進学率は40パーセントくらいでしたが、今は高校進学率の格差はほとんどないと思います。
 そして中でも就労アップが成果を上げました。就労に関しては、企業に優先枠の採用を依頼してもなかなか動かなかったため公務員として採用するということが行われました。これは過渡的な措置として必要だったと思いますが、時代とともに優先枠採用の在り方も問われる時に来ているのではないかなと思います。
 企業が採用時に、いわゆる社用紙から統一応募用紙に切り替えたことも大きな出来事でした。1975(昭和50)年に全国200社の企業が被差別部落の地域の名前、所在地を一覧にした部落地名総鑑を購入したことが発覚し、これ以来企業が人権問題に取り組むようになったわけですが、その成果として、全国一律の統一応募用紙を使用するようになったのです。社用紙には本籍地、家族全員の名前、仕事、健康状態、そして宗教、支持団体、政党支持、これらを記入する欄が延々とありましたけれども、今になって考えると、本人の能力、適正に何の関係もないのに、よくこのようなことが行われて来たと思います。
 これらは同対事業特別措置法によって劇的に変わってきたものですが、最も強調したいのは、次の2つです。

【2】「同和」はなぜ「人権一般」へ吸収されつつあるのか。 ~見えにくくなった「差別の厳しい現実」/多様、拡散する人権の諸相~

 まず同和地区住民の流動化が進みました。それまでは、教育を受けていませんから地区の外へ出て行っても仕事がありません。つまり、その地域の中で人生を終えるというライフプランしか描けなかったのですね。しかし、同和対策審議会答申以降の革命的な政策によって、同和地区の方々は教育を受け大学にも大学院にも行くようになりましたから、新しい出会いがあり、ここで新しいステージを作ることができるようになったのです。教育を受け経済的に富裕層となった方が外へ出て行き、次第に旧同和地区の解体が始まりました。これに連動し、部落外との通婚が進み、部落以外への転出者が増大し、部落内への転入者が増大し混住が進行してきたのです。そうなるとそもそも被差別部落とはいったい何なのか、被差別部落民とはいったい誰を指すのか、その定義すら誰もできないような状況になってきたのです。
 このようなことが、部落解放同盟中央本部の出版社が出している事典の中にも書いてあります。つまり当事者である方々が、もはや被差別部落とは何であるか、あるいは被差別部落民とはいったい誰のことを指すのか、明確な定義ができない時代に入ってきているということです。
 このような変化を踏まえた上で次のステージへ向かわない限り、私たちは50年前と同じような啓発を続けていくことになってしまいます。それでは単なる独りよがりに終わるのではないかという危機意識を私は持っています。

 では、現在、どのような問題が起きているかというと、恒常化する身元調査、土地調査、ネットでの差別書き込み、ヘイトスピーチ、そしてエセ同和行為が挙げられます。
 「エセ同和行為」というのは、「同和問題はこわい問題である」という人々の誤った意識に乗じて、例えば、同和問題に対する理解が足りないなどという理由で難癖を付けて高額の書籍を売りつけるなどの行為を指します。暴力団のようなとんでもない連中が、同和問題の解決、部落差別の解消を旗印にしながら、その裏で差別をビジネスにしているわけです。 
 とにかく相手がうるさいから、面倒くさいから、「まあ経費で落とせばいいや」というような考えで本を買うと大変なことになります。なぜかというと、お金の問題ではなくて、反社会勢力に資金を提供することと同じことになるからです。 
 私がある学校で取材をした時に、校長室に同和問題関係の本がありました。私は校長先生に、「いやあ、校長先生、こんな分厚い本をよく何冊もそろえられましたね。ところで、開かれたことはあるのですか?」と聞くと、「いや、1回もございません」、「では何のために買われたのですか?」、「いや、これはですね、何かトラブルがあって、『お前は同和問題の勉強しておるのか!』と言われたときに、『いや、これで勉強しています』と言うためのお守りでございます」とおっしゃったので、私は、「校長先生、これはお守りにはなりませんよ。これは、著作権が切れたような本のコピーと法務省のホームページの丸写しです。それが7万円で売られているのです。誰が売っているかというと暴力団ですよ。校長先生、この本を買うということは間接的に暴力団に資金を提供しているようなもので、反社会勢力に加担していることと同じことなのですよ」と言いました。
 この本はある図書館にも置いてあったので、びっくりして係の方に聞いたところ、「いや、実はこれ、購入したわけではございません。贈呈されたのです」という回答がありました。そこで、「この中身をご覧ください。そして、もう少しえせ同和行為に対する認識を改めていただきたいと思います。この本を図書館に置くということは、実はこの本を公共施設が認めたということです。これは間接的加担なのですよ」と言ったことがあります。

 さて、今回の研修は、法務省が人権課題として掲げる課題が網羅されているわけですが、その中で同和問題に対する関心について見て行きたいと思います。これはある自治体のアンケートですけれども、同和問題に関心がある人というのは全体の14パーセントです。トップは障害者、それから女性の人権、高齢者、子ども、犯罪被害者、HIV感染患者、外国人の人権問題ときて、同和問題は8番目です。
 ここで注意すべきところは、同和問題が解決したから関心が薄れたというわけではないということです。
 同和問題への関心が低下している理由の一つは、同和地区が目に見えにくくなってきたということが挙げられます。昔は、ここから先は被差別部落であるということが誰の目にも明らかでしたが、今ではその境界はほとんど分かりません。人々の目に見えないために関心が薄れてきたのです。
 同和問題が解決したから関心が薄れたということであればいいのですが、もう同和は面倒くさい、ややこしい、しんどい、暗い、という意識の中でそれが次第に後退しているのではないかということを憂いています。

 解放令が出された後、地域によっては解放令に反対する一揆が起こりました。明治政府の新政策に反対するという形で起こったのですが、例えば同和地区の人たちが買い物に来ると、「平民になったからといっていばるなよ」と言って直接お金の手渡しをやらなかったという記録があります。かごにお金を入れてお釣りの受け渡しをやる。つまり手を触れると穢れるという意識があったのですね。また、銭湯に同和地区の人たちが来ると、他の人たちが誰も来なくなる。つまり同じ湯船に浸かりたくないということで客が激減したため、「エタの入浴お断り」という看板が掲げられたという歴史的な事実があります。つまりここで言えるのは、いわゆる「穢れ」という意識が被差別部落に対する差別の本質だということです。ですから、単に政府が身分制度を止めたからといっても、「穢れ」という意識がなくならない限り差別は終わらないわけです。

 それでは、「穢れ」が、あらゆる部落差別の根源を成しているということが解明できたわけですから、ではこれからどうするかということを真剣に考えなければなりません。
 私は、人権研修が道徳教育に堕していてはだめだと思うのです。つまり、人権研修でいくら、「いたわり、やさしさ、思いやりを持ちましょう」と言ったところで、差別の根源を打ち砕かない限り差別はなくならないからです。これまでも人権研修で、「部落差別はおかしいですよ、みんな同じなのです、違いはありません」といくら言っても差別はなくなりませんでした。2015(平成27)年の今日でも、結婚の際に身元調査をする、不動産を買う時に周囲に同和地区があるかないかを気にするということが行われている。なぜそれにこだわるのだと思いますか。そこには、「彼らと一緒だと思われたくない」という意識があるからです。これを打ち破るにはどのようにしたらいいかというと、被差別部落に対する差別が何ら意味のないものであるということを人々に理解させる以外ありません。それが皆さんに課されている重大な仕事ではないかと思います。

【3】完全解決へ向けて何が求められているのか。 ~行政、企業、教育、マスコミの課題~

 福岡は7月が同和問題啓発強調月間ですが、恐らく全国どこでも12月は人権週間でいっぱい人権のイベントがあると思います。そのような中で、公民館の館長さんたちにアンケートを採ってみたところ「市民の拒否反応に困っている」という答えがたくさんありました。どのような拒否反応かというと、市民は、「いまの時代、同和問題や差別などはない」と言うのだそうです。「人権はもうわかっとる」、「話が硬くて重苦しい」、「講師が差別する側の責任追及に重点を置いている」、「人権と聞いただけで地域の住民の足が遠のく」といった声もありました。ここには誤解もありますが、やはりそう思わせてしまった私たちの側の力量不足も問わなくてはならないと思います。
 例えば人権研修に私が講師で招かれると、「馬場先生、もう同和問題はよろしゅうございます。人権一般でお話しください」と、こういう話になります。「いや、同和問題は極めて重大な人権問題です。今年は同対審答申から50年ですから同和問題をテーマにしてみては?」と言っても、「いや、そんな難しい話はもうようございます。同和問題だとみんな帰りますので、平たい話で」というような話になってしまうのです。
 これには、講師の力量にも問題があります。当たり障りのない歴史的なことや差別の厳しさだけを延々と訴えて、変容する被差別部落の現状について触れる講師はあまりいません。「差別が解消されつつある」と言ったらいろいろなハレーションを惹き起こすという心配があるのかも知れませんが、ステージの変化に応じた新しい同和問題の研修へ歩みを進めていく時が来ているのですから、変化に目をつぶっていてはいけないと思います。

 

 私が1972(昭和47)年に学校を卒業して新聞社に入った頃、人権という言葉は身近なものではありませんでした。もちろん日本国憲法が人権というものを規定していますが、日頃の生活の中で人権という言葉を聞くことは、少なくとも1970年代にはなかったような気がします。
 私自身が同和問題と出会うのは、1980(昭和55)年12月19日付の新聞に、福岡の西南学院大学の学生が、身元調査によって就職先の内定が取り消されるという記事を書いた時のことです。ちょうど社会部の担当になった時でしたが、これは、私にとっては非常に苦い同和問題との出会いになりました。それからもう35年が経ちます。
 この間の歩みを考えると、1960年代の初めに、映画監督あるいはカメラマンたちの報道があり、それを追いかけるようにして、初めて朝日新聞が「部落300万人の訴え」という企画、連載をしたのです。そして西日本新聞も、1975年頃にこの人権のキャンペーンを始め、幸いなことに、新聞協会賞という栄誉に浴することができましたが、その頃ようやく同和問題と人権問題がセットになって語られるようになってきたということです。
 しかし、それから30年を経た今日、もはや同和問題と人権問題がセットになって語られる時代ではなくなったのです。法律の失効と共にいま転換期を迎えています。被差別部落の姿が変わりつつある中でこの問題を主導して来た運動体も、かつてのような力を持ち得なくなってきています。また、日本の人権問題は多様化しており、同和問題は一般の人権課題の一つとして扱われるようになりました。世の中の空気は、同和問題はもう終わったという意識になりつつあるのです。
 もちろん同和問題が人権の中に組み入れられることによって、新たな地平を切り開いていくというのであればいいのですが、人権一般の名の下に置くことによって、同和問題の解決が遠のくことがあってはなりません。
 そういう意味で同和対策審議会答申は、今も輝きを失っていないと思います。
 同和対策審議会答申は、現実に差別がある限り、この答申に基づいて政策をやらなくてはいけないと言っているからです。1969(昭和44)年から2002(平成14)年までの33年間は司法が特別法でやっていただけの話であって、差別がある限りは、一般法で対応していくのが当たり前のことであると言っているのです。
 日本には日本国憲法、人権教育啓発推進法、さらには様々な差別を撤廃するための諸条約もあります。憲法の中の基本的人権、そして2000(平成12)年に制定された人権教育啓発推進法という最高に素晴らしい法律を私たちは持っているわけです。
 これからの50年を考えるとき、次の世代にまで同和問題を引き継ぐことがあってはならない、私たちの世代で、この愚かな差別を何としても終わりにしなければならない、という気持ちで取り組まなければいけないと思います。
 そのためには皆さんの力が必要です。エスカレーターで、いっきに富士山の頂上に到達することができないように、同和問題の解決のためには、一つひとつ高みを目指して行くしかないのです。同和問題も、いま富士山の8合目まで来ていると思うのですが、残りの2合が結構厳しいです。我々をクライマーだとすれば、我々の眼前に結婚問題、土地問題、こうした問題が口を開けて待っている。しかし、これは私たちが作り上げた差別ですから、それを壊すことも私たちの使命だと思います。その先頭に立つのが皆さんです。健闘をお祈り致します。頑張っていただきたい。私も微力ながらその横に一緒にいて、走り抜かせていただきたいと思います。ご静聴に感謝申し上げます。ありがとうございました。