人権に関するデータベース
研修講義資料
「生活保護への差別と管理社会」
- 著者
- 生田武志
- 寄稿日(掲載日)
- 2019/07/10
皆さん、おはようございます。よろしくお願いします。今日は「生活困窮者の人権」についてお話をしたいと思います。
最初に自己紹介をします。私は、1986(昭和61)年から野宿の人たちの支援活動をしてきました。当時は京都の同志社大学の学生で、たまたまテレビを見ていたら、大阪の釜ヶ崎の野宿の夜回りを伝えていました。釜ヶ崎は、大阪市西成区にあります。当時、毎晩400人~500人の人が野宿をしていました。ほとんどが日雇い労働者で、建築・土木の仕事をしていますが、仕事が減るとたちまち収入が無くなって野宿になってしまいます。怪我や病気のために仕事に行けなくなって野宿になってしまう人たちもいました。高齢の人や病気の人も多く、当時釜ヶ崎の中では年間300人以上が路上で死んでいくという状況でした。夜回りをすると、真冬なのに毛布無しで寝ている人や、凍死・餓死をしている人が多くいました。夜回りのようを見ていると、一人一人に声をかけ、身体の弱い人や高齢の人を見かけると施設に来てもらう。その晩はゆっくり泊まってもらって、次の日に生活保護を申請するというものでした。それを見て、日本にもこんなところがあるのかと仰天しました。
僕は千葉県で生まれ岡山県で育ち、大学は京都に行きましたが、自分の周りで野宿をしている人を見たことはありませんでした。京都から釜ヶ崎までは、電車で約一時間半なので、自分もボランティアで夜回りをしてみようと思いました。その頃は、豊かな日本でわざわざ野宿なんてしているのは、ちょっと変な人だろうと思っていました。しかし、実際に夜回りをして何百人もの野宿をしている人と会って話をすると、思っていたのとは全く違いました。
当時も今も、多くの野宿の人はアルミ缶を集めて生活しています。ビニール袋にアルミ缶をいっぱい詰めて、自転車で走っている方を見たことがあるかもしれません。アルミ缶は売りに行くと1個2円くらいになります。1個2円として、アルミ缶を100個集めても200円です。あちらこちらから一個一個拾ってくるので1,000個集めるのはとても大変です。1日8時間から10時間をかけて1,000個集まるかどうかですので、アルミ缶集めの一日の稼ぎは約2,000円で、時給で言うと200円に近いです。高校生のアルバイトでも900円以上もらえますから、アルミ缶集めは、高校生のバイトの4分の1にしかならないのです。夏は暑くて、冬は寒いし、とんでもない低賃金、重労働です。しかし、多くの野宿の人は探しても仕事がないのでアルミ缶を集めます。かつては、段ボール集めている人も多かったのですが、価格が下がって、段ボールは今1kgが7円くらいです。リヤカーをてんこ盛りにして100kgですが、それが700円。時給で言うと70円と割に合わないので、集める人はほとんどいなくなってしまいました。
そういう仕事を、70歳代、80歳代の人が一生懸命やっています。僕が会った最高齢の人は93歳でした。その人は戦争に行って、自分の故郷へ帰ったら戦死扱いになっていたそうです。つまり戸籍が無いのです。年を取っていよいよ仕事ができなくなり「もう働けないので助けてください」と役所に相談へ行くと、「あなたは死んでいます」と言われ、結局何もできなかったといいます。仕方がなく、その人はリヤカーを引っ張ってアルミ缶などを集めていました。僕らは心配して、「そのお年だったら、僕らと一緒に役所行けば絶対に生活保護をもらえます。あるいは施設に入って暮らせます」と言いました。しかしその方は「まだアルミ缶を集めて自力で生きていくのでもうちょっと頑張ります」とおっしゃられた。しかし、それから行方がわからなくて心配しています。学生の時の僕は、そのような光景を見て、日本では世の中を器用に渡っていけない正直な人が野宿をしているのではないかという気がしました。
それからはボランティア活動に精を出し、大学生活後半の2年間は京都よりも釜ヶ崎にいる方が多かったです。釜ヶ崎に残って同じ生活をしないと分からないこともあるだろうと思い、大学卒業後は自分で日雇い労働を始め、土方をしながら空いている時間に野宿者の支援活動をしました。30年間そんなことをやっています。ただ、釜ヶ崎の日雇い労働が極端に減ってしまったため、数年前に肉体労働を止めて、現在は様々なアルバイトをしながら生活をしています。主な活動としては、野宿者ネットワークという団体で毎週一回夜回りをしたり、携帯での生活相談の対応をしたりしています。それから大阪での貧困運動の活動などもあります。
32年間の活動の中で、いろいろな変化がありました。最近の変化としては二つあります。一つが女性の増加、もう一つが若者の増加です。従来、野宿をしている人の中に女性はほとんどいませんでしたが増えています。数年前の「虹の連合」による「もう一つの全国ホームレス調査」では野宿している人の内の7%が女性という結果が出ました。100人野宿をしていたら7人が女性ということです。皆さんは、中年男性のホームレスは見るけれども、女性のホームレスは見たことがないと思う人がいるかもしれません。女の人は襲われたりして危ないので、だいたい、みんな隠れて寝ているのです。マンションの非常階段の踊り場で野宿した話を聞いたこともあります。そのようなところで寝ていたら、いくら夜回りしても見つかりません。他には夜は繁華街を歩き回って昼は公園のベンチで寝た、ビルの隙間に毛布を詰め込んで寝たなど、目立たない形で寝ている女性もいます。そのため、実数はもっと多いと思います。厚生労働省によると、生活保護の相談に福祉事務所来た野宿の人のうち、女性の割合が12%という結果が出ており、おそらく実態としてその程度だろうと考えられます。ちなみに、欧米では、ホームレスのうちの女性の割合が25%なので、そういう意味では先進国諸国並みということになります。
女性の相談の例を紹介します。京都の29歳の女性でした。「大学院を出て研究員として勤務してきましたが、予算カットでクビになりその後バイトをして頑張った。しかし、腰を悪くしバイトも出来なくなった。昔の友達の家に転がりこみましたがもう限界です」とのことでした。
また、時にあるのが母子の野宿です。女性が野宿になる原因は大きく分けると二つあります。一つは失業、もう一つの原因はDVです。例えば、夫の身体的、精神的暴力がひどくて、我慢を重ねたけれども、このままでは死ぬと思って逃げ出す。自分の実家や兄弟の家に逃げられればいいけれども、それだと夫が追いかけてきて連れ戻されるので、お金を持てるだけ持って子どもの手を引いて逃げ出します。最初はホテルに泊まって、お金が無くなってくると24時間レストランに親子で朝までいて、いよいよお金が無くなるとどこかの公園のベンチにしょんぼり座る。そして僕らと出会うというパターンです。
この場合、子どもも野宿をしているのです。僕が直接、間接に聞くだけでも、ここ数年で結構な数の子どもの野宿がありますので、全国ではかなりの子どもが野宿していると思います。お父さんが失業して家族で車の中で生活をしているという事例もありました。子どもたちは車から小学校へ通っていたけれども、先生はそれに1か月以上気が付きませんでした。子どもたちの間では、「あいつの家は車に住んでいる」と噂になっていたけれども、子どもはそういう点は口が硬いので、大人に一切言わず、発見が遅れました。最終的には、地域の人たちが福祉に繋いだのですが、親子の野宿はこれからも増えると思います。この事例は、たまたまその家族に関わった先生と知り合って聞いたのですけれども、子どものプライバシーの問題もあり、ほとんど表には出てきません。
若者の野宿も最近増えています。新たに野宿になる人の半数は、だいたい30歳代以前です。派遣労働の仕事が無くなり、今日から住む家がありませんという相談がよくあります。元旦に相談が来た人たちもありました。大阪の北部に住む派遣労働の20歳代の夫婦でした。仕事が減り家賃が払えなくなって12月30日に家を出ました。その晩はネットカフェに2人で泊まって、大晦日の晩にいよいよ行くところが無くなり、大阪駅のトイレで年を越したといいます。元旦の夜に困って、ネットで「ホームレス支援」と検索をして元旦の昼に相談の電話をかけてきました。僕らは、野宿をしている人たちと餅つきをやっていました。話を聞いて、2人に来てもらって会って話をしました。当然、2人とも疲れきった顔をしていて、女性は妊娠をしていました。
このような相談もありました。「私は32歳の男です。大学出てから一生懸命働いてきたんですけれども、欝になって仕事も行けなくなってしまいました。お金も無く、病院に行くことさえできません。なんとかなりませんか?」。念のためにアパートの広さと家賃を聞くと、二畳で32,000円でした。一軒家を借りて細かく区切り、家の無い人たちに部屋を貸して金を取る「脱法ハウス」です。そんなところで生活保護を申請しても無意味です。そこを出て一旦施設に入り、そこから生活保護申請をして新たにアパートに入るようにしました。
僕らは、生活に困って野宿をしている若者や野宿になりそうな若者に「とりあえず実家に帰るのは無理なのですか?」と聞きます。もちろん、無理だから私たちに相談をしているのですが、僕も事情を聞きたいからわざわざ聞くわけです。野宿をしている、あるいは野宿になりそうな若者の家庭環境は、大雑把に言うと二つあります。一つがひとり親家庭です。ほとんどが母子家庭です。例えば、「私の家は母子家庭で生活保護を受けていて、しかも兄弟が他に4人いる状態です」というパターンです。家に帰りたくても部屋が無い場合もあります。生活保護の家庭に若者が帰ると、ケースワーカーから、「その人に働いてもらって早く生活保護を卒業しましょう」と言われてしまうこともあります。あるいは、「私の家は母子家庭で母は再婚していますが、義理の父親と私の関係が非常に悪く帰れません」というケースも多いです。相談に来た若者の親が「あの子には決して帰って来てほしくありません。あの子には死ねと伝えてください」と言うことさえあります。詳しく話を聞くと、それまで借金や家出など、いろいろな背景があったようでした。
もう一つ、野宿になりやすい若者の家庭環境に虐待があります。例えば、「母が覚せい剤依存で、兄の暴力がひどい」、「父の殴る蹴るの暴力が私の小さい時から激しく、あの家には決して帰れません」という話もありました。若者は貧困状態の人が多く、フリーターの平均年収は106万円というデータもあります。そんな収入では一人暮らしは無理なため、もっと多くの若者が野宿になってもおかしくはないのです。事実、欧米のホームレスの主流は若者で、日本のように60~70歳代の高齢男性の野宿は多くはないです。それでも、日本でまだ若者の野宿がそれほど多くないのは、実家に住んでいるあるいは、親から仕送りがあるからです。実家に住んでいる限り、怪我や病気、失業をしようが野宿になることはなく、何とかなります。しかし、実家が貧乏だったり、ひとり親家庭であったり、家に暴力や虐待があったりして、親を頼ることができない若者もいます。彼らは野宿になりやすい状態にいます。
僕らはそういう人達と会って、自立のためにいろいろな方法を考えるのですが、基本的に出口は二つしかありません。一つが生活保護。若くても生活保護は受けることは出来るので、一緒に役所へ行って生活保護の申請をすることが多いです。もう一つは、自立支援センターです。これは行政がやっているもので、全国にあります。衣食住をしばらく保障する間に、ハローワークに行って仕事を探してくださいというものです。期限は3か月で、そこを紹介することもあります。ただし、虐待を受けていた人はそれも難しいことが多いです。人間関係をつくる能力が育っていなかったり、壊れていたりするので、周りの人とトラブルになり、出て行ってしまうことがあるからです。その度に我々が出動して相談を受けます。
相談に来る若者には他に特徴が二つあります。一つは、発達障害を抱えていることが多いです。例えば、聴覚過敏の人にとっては、我々が普通に聴いている物音が騒音に感じてしまいます。例えば、教室の物音や外の物音に耐えられないのです。僕が関わった人は、中学を卒業してから一人暮らしをしながら工場に勤めた方で、工場の物音が耐えられませんでした。アパートでも、隣人の音に我慢ができなくなり、「物音がうるさいぞ」と言いに行きました。隣の人は普通に暮らしているので、「何を言うのか」ともめてしまい、アパートを飛び出して野宿になるというパターンでした。
人間関係をつくることが困難な発達障害の人もいます。人の目が見られず挙動不審になってしまう。大阪の府立高校の先生から、最近はバイトすら出来ない高校生が増えていると聞きました。以前なら学校では結構やんちゃをしていても、バイトに行くと店長にヘコヘコする、ある意味での柔軟性があった。しかし、最近の子はそれが出来ず、面接の段階で目を見て話せなくてオドオドしているし、社会常識もないので、みんな落とされてしまいます。コンビニなどは真っ先に落とされます。我々は相談にのったあと、相談者のところに家庭訪問をしたり、寄り合いをやったりして関係を繋ぐようにしています。
以上、野宿の若者、野宿になりそうな若者の家庭環境としては、ひとり親家庭、虐待、発達障害などが挙げられます。他には奨学金があります。奨学金は、正社員や公務員だったら普通に返せます。しかし、正社員になれない人もいますし、親の介護などで仕事を辞めて再就職しようとしても、なかなか仕事が見つからない人もいます。そうなると月3万円、4万円の奨学金の返済は難しくなります。みんな、なぜか奨学金を優先して家賃を後回しにし、生活に困ってしまうのです。考えてみると、ひとり親家庭も、虐待も、発達障害も、奨学金も自分のせいではありません。生まれた環境によってそうなったのです。しかしながら、そういう問題を抱えている若者が生活困窮になりやすいという問題があります。我々は現場で対応しているのですけれども、子どもの貧困問題とは社会的に解決しなければ、全く解決しないだろうと考えています。
次に、我々が野宿の現場に関わる上で最も頭の痛い問題を紹介します。それは襲撃、つまり野宿の人たちが襲われていることです。殴る蹴る、エアガンを撃ち込まれる、石を投げられる、などいろいろな被害があります。
僕が経験した中で一番印象深かったのは連続放火事件です。大阪の日本橋で、アルミ缶を集めている人が寝ていました。朝の4時ぐらいに放火されたということでした。突然燃え上がり、消火しようとしても、ガソリンをかけられているので消えなかったといいます。服を全部脱ぎ捨て身体からは火が消えましたが、全治3か月の火傷を負いました。
後で知ったのですが、他にも日本橋で野宿をしていて放火の被害に遭った人がいたそうです。連続しているし、犯人は逃げているので、また同じことするかもしれないと、夜回りで注意を呼びかけるチラシを野宿の人たちに撒きました。その8時間後、もっとひどいことが起こってしまいました。リヤカーで寝ていた人が、全身に油をかけられて放火されたのです。その人は、全身の35%が焼けました。意識を保つための副作用などであまり喋れなくなってしまいました。退院した時には障害等級が第一級になり、重い後遺症が残りました。治療費はもちろん犯人が払うべきものですが、犯人が捕まっていないので医療費は全部税金です。
このような事件が度々起こっています。6年前には、梅田でホームレス襲撃事件がありました。1人が殺され、2人が病院に運ばれ、多くが怪我をしています。この事件は、非常に厳しい背景を持つ子どもたち、虐待を受けてきた子どもたちが、体が成長して自分たちより弱い立場の野宿の人たちを襲って殺してしまったという事件でした。姫路市では、中学生2人と高校生1人がビール瓶にガソリンを詰めて火炎瓶をつくって、それを地元の野宿者に投げ付けて怪我をさせています。犯人が捕まるまでに時間かかったので、主犯の高校生は卒業式を迎えることが出来ました。優等生だったらしく、卒業式では卒業生代表として答辞を読みました。答辞の内容は「人間として思いやりの心を忘れず、凛とした姿勢で生きていくことが大事だと思います」というものだったそうです。彼は卒業式の直後に逮捕されています。もちろん、このような事件は、関西だけのものではありません。東京駅の前で野宿している女性に18歳の少年が火をつけて瀕死の重傷を負わせた事件もあります。
こういった襲撃事件には、いくつかの特徴があります。一つは、ほとんどの場合襲うのは10代の少年グループです。そのうち95%が、中高生です。また、このような事件は夏休みに起こることが多いです。
なぜ若者が野宿者を襲うのでしょう。「今時の若者は」という話にされがちですが、一方では大人の影響もあるのだろうと思います。僕は2000(平成12)年から全国の教育機関で教員と連携しながら野宿問題の授業を行っています。例えば、神奈川県の川崎市で襲撃が多発していたため、地元の支援者と野宿当事者が市の教育委員会と話し合いました。それから川崎市では各公立学校で毎年一回、野宿問題の授業を行っています。野宿の人の生活のようすや社会的背景について伝えた結果、襲撃事件がそれまでの3分の1に激減したと報告されています。つまり、学校での授業は劇的な効果があります。子どもたちは野宿の人を見てはいるのだけれども、なぜ野宿になったのか、どんな生活しているのか、あるいはどういう社会的問題が背景にあるのかについてはほとんど知らないからです。年に一回授業をすると、子どもたちの反応は劇的に変わります。
その授業の中で「皆さんの家の人が、ホームレス、野宿者について何か言うのを聞いたことはありませんか?」と子どもたちに聞くと、いろいろな答えが出てきます。一番多いのは、野宿者やテレビを指差して、「あんな風になりたくなかったらもっと勉強しなさい」です。また、母親に「話しかけられても無視しなさい。ホームレスと目を合わせないように」と言われた子どももいました。要するに関わるなという話なのです。親からすると、野宿の人たちと子どもが出会うと子どもが危ないと思っているのです。実際には野宿の人たちは頻繁に子どもから襲われていますが、逆に野宿の人が子どもを襲った例というのはほとんどありません。たまに、散々襲われた野宿の人が怒って反撃をしたら、その人が捕まってしまうことがありますが、少ないですね。僕は、大阪の府や市の教育委員会の方とよくお話をしますが、「大阪で野宿の人が子どもを襲っているという報告は聞いたことがない」と言っていました。
では、なぜ、「話かけられても無視」などと言われるのでしょうか。例えば、親が子どもに、「障害のある人から話しかけられても無視しなさい」「在日の人と目を合わせてはいけません」と教えたら、おかしいですね。しかし、主に仕事が無くなって野宿になった「究極の貧困者」というべき野宿者への差別発言は平気でされています。子どもとしては、そういうことを小さい時から言われたら、道や公園で寝ている人たちは危ない、関わってはいけない、住む世界が違うのだと思ったとしても無理はないと思います。そういう意味では、社会の偏見が野宿者の襲撃を後押ししているのではないかと思います。もちろん、子ども自身の問題も大きいとは思います。これについては、僕が授業をした時の中学生の感想文が一番印象に残りました。感想文の一部を紹介します。
「以前、友達と『バイバイ』と言って帰る時、野宿者の人もバイバイと言ってくれたことがありました。自分に向かって挨拶してきたと思ったのか、そうでないのかは今もわかりませんが、バイバイって心のこもった挨拶のできる人が社会のゴミであるはずがないと思います。あの人のバイバイは今も忘れていません。『ホームレスじゃなかった。ここがホームだった』という言葉がとても印象に残りました。家も仕事もある人で、自分の居場所が無いという人が野宿者を襲うんだと思います。ハウスがあってもホームが無い人、ハウスが無くてもホームにいる人、比べるのは良くないことかもしれないけれども、私から見たら後者のほうが人間らしい人だと思いました」
この子は、家も仕事もある人で、自分の居場所、つまりホームの無い人が野宿者を襲うと言っています。野宿をしている人はハウス(家)が無いけれども、性格が良く、野宿者同士で助け合い、地域の家の人と温かい人間関係をつくって、温かい居場所を持っている人もいます。だから、家は無いけれども居場所としてのホームはあるというわけです。逆に、野宿者を襲う子どもたちにはハウスがあります。夜になって帰れる家はあるけれど、相談できる友達や自分のことを受け止めてくれる大人がいない。その意味で、自分がこの世にいてもいいのだと思える温かい居場所がない子どもたちがいます。だから、ハウスはあるけれども居場所がないということです。つまり、この中3の子から言うと、野宿者を襲う子どもたちこそ居場所(ホーム)の無い、ホームレスだというわけです。つまり居場所(ホーム)の無い子どもたちが、家(ハウス)の無い野宿者を襲うということです。
我々が作ったDVDを紹介します。釜ヶ崎にある「こどもの里」では、冬の時期に毎週一回夜回りを行っています。内容は、その夜回りの様子と、大阪の日本橋でアルミ缶を集めている野宿者の1日のようすです。
DVDを使った授業は非常に効果的です。野宿をしている人の様子が分かった、一緒に夜回りに行きたいと言って何人かは夜回りに来てくれます。その一方で、少し気になる反応もあります。感想文に「野宿の苦労はよく分かりました。それに比べて、生活保護を受けている人たちは不正受給があったりしてけしからんと思います」というのが、学校で7~8人は必ず出てきます。最近の特徴として、野宿の人が減って、アパートに入って生活保護をもらう人が増えています。以前とは別の形で生活困窮者への差別がひどくなっていると僕は感じています。それは困るので、学校で生活保護の話をしてくれるといいのですが、残念ながら子どもたちが学ぶ機会があまりない。子どもたちは実態についてあまり知らず、不正受給が多いと思い込んでしまっています。実際には、地域によっては学校の半数近くが生活保護家庭の子どもだったりするわけです。そういった子どもたちは、テレビや新聞、週刊誌での生活保護を受給している人たちに対するバッシングを見て、心を痛めていると思います。そういう意味で、学校や社会で生活保護に対する偏見を取り除く取り組みが必要だと思っています。
皆さんご存知のように、不正受給というのはだいたい0.4%で推移しています。もちろん中には占い師で月に100万円稼いでいて生活保護を受けていたとんでもない人もいます。しかし、その一部の例を挙げて生活保護受給者を悪く言う人たちが多いので、生活保護への偏見を社会的に解消しなければいけないと思っています。
ここ数年で生活保護の金額がどんどん減額されていることも問題です。これで生活に困っている人が非常に多いです。それが顕著に現れるのは、たとえば電化製品が故障した時です。生活保護を受けている皆さんは貯金が出来るほどお金が無いので、借金をして購入や修理をすると生活が破綻してしまいます。憲法でいう最低限度の生活というのは、ある程度の生活が出来て、なおかつ、多少の貯金が出来ないと事実上実現できないと思います。
もう一つの問題は、生活保護家庭の大学進学の問題です。僕は山王子どもセンターでの約30年間で何百人の子どもを見ましたが、大学へ行ったのは2人です。大学進学率が非常に低いのです。金銭的な問題や家庭環境が背景にあります。家族仲が悪く、勉強する環境ではない子どもたちもいます。そのため、学力が他地域と比べて圧倒的に低いのです。生活保護家庭の中で大学に行こうとすると、世帯分離をします。つまり、同じ家に住んでいるけれども、大学進学をする子どもは別世帯と考えます。人数が減るので生活保護は減らされますが、子どもはバイトをして、奨学金を借りて大学へ行きなさいということです。子どもにとっても大きな負担ですし、生活保護が減らされるので元の家にとっても負担となるという問題があります。数十年前までは、生活保護の家庭の子どもたちは高校進学を認められていませんでした。中学を出ると、もう義務教育ではないから自分で働きなさいということです。高校へ進学しようとすると世帯分離をして、先ほど言ったような不利な条件で進学するしかなかったのです。高校進学率が増えてきたので、生活保護家庭の子どもでも全世帯の60~70%がやっていることについては認めましょうということで、世帯分離をしなくても高校進学ができるようになりました。私は大学進学ももう同じように認める時期ではないかと思っています。子どもが出生によって自分の夢を実現できないという問題は、なんとか解決したいと思うのです。
最後にあるエピソードを話します。1999(平成11)年に起きた事件についてです。9月8日、当時23歳の造田博という若者が池袋駅前で無差別殺人事件を起こしました。当時は大きく報道されて、若者の無軌道な犯行や、心の闇とか言われたのですが、報道が進むにつれて、彼が高校生の頃大変な貧困状態にあったことがわかりました。彼は岡山県倉敷市の出身で、高校は地元の進学校に入学しました。しかし、彼が高校に入った辺りから両親がギャンブルにはまり、数千万円の借金をするようになりました。そして、彼が高校2年の時に両親が失踪します。彼は親から捨てられてしまったのです。
彼は高校を中退して、それから職業を転々としていました。仕事が無い時には駅や公園で野宿をしていたこともありました。彼は「一生懸命努力しても、高校中退で日雇いのような仕事しかしてない者は評価されないと思った。」「真面目に働いているのに評価されず腹が立った。大学を出て事務系の仕事に就きたかった。常に外へ出ると自分と全く違う生活をしている人ばかりで、自分を嫌な目で見ている。汚れている」と当時について話しています。彼としては、自分は一生懸命努力したのにそれが全く報われず、周りを見ると同年代の若者は親がお金持ちだというだけで、大学に行って何か楽しそうに生活している、世の中はおかしいと思ったのかもしれません。もちろん無差別殺人事件の被害者にとっては、彼の個人的な事情は100%関係ないのですが。
一方で、彼が本当に困っている時に社会が彼を助けていれば、こんな事件は起きなかったのではないかということは当然考えられます。親が借金をつくって、電気もガスも水道も止められて、こどもが学校に行くことができない。これは典型的な子どもの貧困です。この場合、彼に責任はほとんど無いですから、行政や学校や地域がなんとか彼が高校を卒業できるまで支援をすべきだったのではないでしょうか。
実は、彼が退学した学校は僕の出身校です。年もそんなに違わないので、当時の高校の雰囲気はだいたいわかります。事件後に同級生と「進学校の勉強に重きを置いた雰囲気が、彼を追い込んだという原因があるのではないか」と話したことを覚えています。
無差別殺人事件を起こした造田君が親の借金で家を無くしたのは1993(平成5)年でした。事件が1999(平成11)年に起きました。同じ年、大阪の吹田市に親の借金で家を無くした子どもたちがいました。これが田村裕、ホームレス中学生です。2007(平成19)年にベストセラーになった「ホームレス中学生」は、彼の自叙伝です。彼は、中学2年の1学期の終業式の日に家を失い、一家は解散します。彼は、公園での野宿生活を1か月も続けますが、ある日から友人の家で暮らし始めます。その後、近所の人たちがみんなで金を出し合ってアパートを借りてくれて、田村裕の兄を世帯主にして生活保護を受けることが出来るように、役所と話し合ってくれました。新しいアパートは校区外でしたが、事情を考慮してもらい、もとの学校に通えるようになりました。彼は、地域と学校と行政の協力で、元の生活を維持することができました。やがて彼は高校を卒業し、お笑い芸人への道を歩みだしたのです。
1993(平成5)年に、同じように親の借金で家を失った2人の少年のその後は、全く違う方向に行きました。造田博と田村裕、たまたまどちらも同じひろしという名前です。1999(平成11)年、造田博が無差別殺傷事件を起こした年、田村裕は「麒麟」を結成します。2007(平成19)年、造田博の死刑が確定しました。同じ年に、田村裕は『ホームレス中学生』を出版し、ベストセラーになりました。
これは、同じような子どもの貧困状態であっても、その時に周りの支援があるか無いかで、その後の子どもの人生が全く違う方向に行ってしまうという一つの例となっています。造田博と田村裕、それぞれキャラクターの違いもあったとは思います。この例は昔話になっていますが、子どもの貧困問題は、今もどんどん進行しているのです。我々の周りには、おそらく、彼らのような子どもたちがいるはずです。我々が周りで困っている子ども、あるいは大人に、手を差し伸べることができるかどうかで、その人の人生が決定的に変わってしまうということがあります。我々に何ができるのかということが問われていると思います。
皆さんと一緒に、今後生活困窮者をどのように支えていったらよいかということを考えていければと思います。皆さんありがとうございました。